4 鉱喰いの咆哮
最初に動いたのは、誰だったのだろう。
真にはわからなかった。
ただ、誰かが叫び、その声を合図にしたかのように、鉱山の入口にいた人々が一斉に動き始めた。
「全員、坑道から離れろ!」
「負傷者がいないか確認しろ! 子供を近づけるな!」
「赤の使い手は前へ! 黄は支柱を固めろ!」
怒号が飛び交う。
鉱夫たちは、仕事道具を放り出して走った。木箱が倒れ、中の鉱石が地面に散らばる。誰かが足を滑らせ、別の誰かがその腕をつかんで引き起こした。
真も逃げようとした。
逃げるべきだった。
頭では、そう理解していた。
鉱喰いは、普通の獣ではない。
岩石や鉱石を喰らい、その成分を体内に取り込むことで、身体を硬化させる魔物だ。成長した個体は、金属の刃さえ通さない外殻を持つという。
村の古い記録には、鉱喰いによって坑道が一晩で崩壊した事件も記されていた。
真は、その記録を読んだことがある。
だからこそ、逃げなければならないとわかっていた。
それなのに。
足が動かなかった。
鉱喰いの姿から、目を離せなかったのだ。
四本の脚は、太い岩柱のようだった。
一歩踏み出すたび、地面が鈍く沈む。
胴体を覆う灰色の外殻には、無数の鉱石が食い込んでいた。鉄のように黒い部分もあれば、白い結晶のような部分もある。表面には細かな亀裂が走り、その隙間から、赤黒い光が脈打っていた。
頭部は、獣に似ている。
だが、目の位置が不自然だった。
左右にあるはずの目は見当たらない。
代わりに、口の奥で、いくつもの小さな光が明滅している。
それが視覚器官なのか、ただの鉱石の反射なのか、真には判断できなかった。
鉱喰いは首を下げ、地面に散らばった鉱石を喰らった。
ガリッ。
ゴリ、ゴリ、ゴリッ。
歯が岩を砕くたび、耳の奥に嫌な響きが残る。
真は、思わず耳を塞いだ。
音が大きすぎる。
いや、違う。
ただ大きいだけではなかった。
音が、身体の内側に入り込んでくる。
骨が震える。
歯の根が浮く。
胸の奥にある輝石まで、何かに呼応するように細かく揺れていた。
「真! 何をしてる!」
鉱夫の一人が叫んだ。
「早く逃げろ!」
その声に、真はようやく我に返った。
「あ、はい!」
走ろうとした、その瞬間だった。
鉱喰いが頭を上げた。
口の奥の光が、真のほうを向く。
真は、全身の血が冷たくなるのを感じた。
目がないのに。
見られている。
そう思った。
鉱喰いの身体が、低く沈んだ。
「伏せろ!」
誰かの叫びが響く。
直後、鉱喰いが突進した。
地面が砕けた。
積み上げられていた鉱石が吹き飛び、木製の仕分け台が粉々になる。
真は、とっさに横へ飛び退いた。
だが、間に合わなかった。
身体の側面に衝撃が走る。
「ぐっ……!」
真は地面を転がった。
肺から空気が押し出され、息ができなくなる。
視界が白く弾けた。
しばらく、何も聞こえなかった。
いや、正確には、音がありすぎた。
木材の破片が落ちる音。
鉱石が地面を転がる音。
人々の悲鳴。
鉱喰いの足音。
それらが一度に押し寄せ、どれがどの音なのか、わからなくなっていた。
真は、歯を食いしばって起き上がった。
腕が痛い。
脇腹も痛い。
服は裂け、肘から血が流れていた。
それでも、骨は折れていないようだった。
「……まだ、動ける」
自分に言い聞かせるように呟いた。
鉱喰いは、鉱石の山へ頭を突っ込んでいた。
どうやら、先ほどの突進は真を狙ったものではなかったらしい。
逃げ遅れた人間がいたのか。
それとも、鉱石の匂いに反応しただけなのか。
真にはわからなかった。
ただ、鉱喰いの進路にあったものは、何もかも壊れていた。
「火を放て!」
鉱山の責任者が叫んだ。
赤の輝石を持つ鉱夫たちが、鉱喰いを取り囲む。
彼らの胸元で、赤い石が輝いた。
炎が生まれる。
最初は小さな火だった。
それが手のひらほどの大きさになり、やがて腕を包み込むほどの炎へ成長する。
赤の使い手たちは、一斉に炎を放った。
轟音。
熱風。
鉱山の入口が赤く染まった。
炎は鉱喰いの外殻を包み込み、灰色の表面を赤く照らした。
真は腕で顔を覆った。
熱気が頬を焼く。
これほどの炎なら、普通の獣は耐えられないだろう。
しかし。
炎が消えたとき、鉱喰いは何事もなかったかのように立っていた。
外殻の一部が赤く熱せられていたが、砕ける気配はない。
鉱喰いは、ゆっくりと口を開いた。
そして、炎を浴びたばかりの鉱石を、平然と噛み砕いた。
「そんな……!」
赤の使い手の一人が、後ずさった。
「効いていないのか?」
「馬鹿な。これだけの火力だぞ!」
鉱喰いの胴体から、低い振動が響いた。
ゴォン……。
ゴォン……。
その音は、鐘に似ていた。
真は、思わず耳を澄ませた。
なぜだろう。
その響きだけは、ほかの音と違って聞こえた。
炎の爆ぜる音でもない。
鉱石を噛み砕く音でもない。
もっと深い場所から響いている。
まるで、鉱喰いの身体そのものが、巨大な鐘になっているかのようだった。
ゴォン……。
ゴォン……。
響きが、一定の間隔で繰り返される。
真は、胸元を押さえた。
自分の輝石も、同じ間隔で震えていた。
その事実に気づいた瞬間、背筋に寒気が走った。
どうして、自分の石が反応している?
鉱喰いは、ほかの人間には見向きもしていない。
それなのに、自分だけが、あの音をはっきりと感じ取っている。
真は、恐る恐る一歩を踏み出した。
そのとき、鉱喰いの背後で、木材が折れる音がした。
バキッ。
崩れた仕分け台の向こうに、小さな人影が見えた。
子供だった。
真と同じくらいの年頃の少年が、倒れた梁の下敷きになっていた。
「誰か……!」
少年が叫んだ。
「助けて……!」
真は、息を呑んだ。
鉱喰いが、首を動かす。
口の奥の光が、倒れた梁のほうへ向いた。
少年の足元には、鉱石が散乱している。
鉱喰いは、それらを喰らうために近づいていた。
少年がそこにいることなど、気にしていないのかもしれない。
だが、そのまま進めば。
少年は、潰される。
「おい、誰かあの子を!」
責任者が叫んだ。
しかし、誰も動けなかった。
赤の使い手たちは炎を使い果たし、次の攻撃に備えていた。
黄の使い手は、崩れかけた坑道の支柱を支えている。
ほかの鉱夫たちは、逃げ遅れた人間を運び出していた。
誰も、すぐには助けに行けない。
真は、少年を見つめた。
少年も、真を見ていた。
その目が、恐怖に濡れている。
真は、知っていた。
あの目を。
助けてほしいのに、誰も助けてくれないときの目を。
無色だと判定された日の、自分の目も、きっと同じだった。
真は、走り出した。
「真! 戻れ!」
誰かが叫んだ。
聞こえていた。
危険だということも、わかっていた。
自分には、炎も雷も使えない。
鉱喰いの外殻を破る力もない。
それでも。
真は、少年のもとへ走った。
「今、助ける!」
鉱喰いの足が、地面を踏みしめる。
低い振動が、真の足元を駆け抜けた。
ゴォン……。
ゴォン……。
その響きが、近づいてくる。
真は走りながら、奇妙なことに気づいた。
鉱喰いの振動は、完全に一定ではなかった。
大きな響きのあとに、ほんのわずかな間がある。
その後、少し高い音が混じる。
そして、再び低い響きが戻ってくる。
まるで、二つの異なる音が、互いを追いかけるように繰り返されている。
真は、無意識にその間隔を数えていた。
一つ。
二つ。
三つ。
そのたびに、胸の輝石が震える。
――聞こえる。
何が聞こえるのかは、わからない。
けれど、聞こえている。
真は少年のもとへ滑り込んだ。
「大丈夫か!」
「足が……抜けない……!」
少年の右足が、折れた梁と岩のあいだに挟まっていた。
真は梁に手をかけた。
重い。
とても、一人では持ち上がらない。
「くそっ……!」
力を込める。
梁は、わずかに動いただけだった。
背後から、鉱喰いの足音が迫る。
地面が震える。
真は歯を食いしばった。
「もう少し……!」
梁を持ち上げようとした瞬間、鉱喰いが頭を下げた。
口が開く。
水晶の歯が、朝の光を反射した。
真は、少年の腕をつかんだ。
逃げなければ。
今すぐ。
だが、足が抜けない。
梁が重すぎる。
どうすればいい。
どうすれば、助けられる。
そのとき、真の耳に、再びあの響きが届いた。
ゴォン……。
ゴォン……。
鉱喰いの身体から発せられる、低い振動。
真は顔を上げた。
その音は、ただ響いているのではなかった。
何かを繰り返している。
同じ振動を。
同じ間隔で。
まるで、自分自身の身体に、一定の動きを命じているかのように。
真は、梁から手を離した。
そして、地面に手をついた。
「……頼む」
誰に向けた言葉だったのか。
自分にもわからなかった。
真は、地面の震えに意識を集中させた。
指先から、何かが伝わってくる。
鉱喰いの足が地面を踏む振動。
鉱石が砕ける振動。
倒れた梁が、地面に触れて震える振動。
それらが、重なり合っている。
真は、ひとつひとつを聞き分けようとした。
余計な音を捨てる。
人々の叫びを捨てる。
炎の音を捨てる。
自分の荒い呼吸さえも、遠ざける。
残ったのは、鉱喰いの身体から響く、低い音だけだった。
ゴォン……。
ゴォン……。
その響きが、真の胸の奥に触れた。
無色の輝石が、熱を帯びる。
真は、息を止めた。
自分の中にも、同じ響きがある。
鉱喰いの振動とは、ほんの少し違う。
けれど、どこか似ている。
真は、その違いを確かめるように、指先へ意識を集中させた。
すると。
地面が、微かに震えた。
真の手のひらから、見えない波が広がっていく。
誰にも見えない。
何の色もない。
ただ、空気と地面を通って、鉱喰いへと届く振動だった。
真は、自分が何をしているのか、理解していなかった。
ただ、鉱喰いの響きに、自分の響きを重ねようとしていた。
ゴォン……。
ゴォン……。
真の指先が、地面を叩く。
トン。
わずかな音。
もう一度。
トン。
さらにもう一度。
トン。
鉱喰いの振動が、ほんの少しだけ乱れた。
真は、目を見開いた。
届いた。
自分の振動が、あの魔物に届いた。
しかし、それだけだった。
鉱喰いは、止まらない。
むしろ、真の存在に気づいたかのように、頭を持ち上げた。
口の奥の光が、真を捉える。
「……嘘だろ」
真の喉が鳴った。
鉱喰いが、咆哮した。
それは、耳で聞く音というより、身体の内側を直接揺さぶる衝撃だった。
真の視界が歪む。
鼻の奥が熱くなり、血が一筋、唇を伝った。
胸の輝石に、鋭い痛みが走る。
真は、地面に手をついたまま、動けなくなった。
力を使ったのか。
それとも、ただ振動に耐えられなかっただけなのか。
わからない。
身体が、悲鳴を上げている。
それでも、真は顔を上げた。
少年が泣いている。
鉱喰いが近づいてくる。
このままでは、間に合わない。
真は、唇を噛んだ。
「……もう一回だ」
声が震えていた。
それでも、指先を地面につける。
今度は、鉱喰いの振動を真似るだけではない。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、違う音を混ぜる。
鉱喰いの響きが、低く鳴る。
その直後に、真の指先から、わずかに高い振動が伝わった。
ゴォン……。
トン。
ゴォン……。
トン。
最初は、何も起きなかった。
鉱喰いは歩みを止めない。
真の手のひらが、熱くなる。
無色の輝石が、激しく震えた。
だが、今度は、さっきとは違う反応があった。
鉱喰いの身体から響く音に、ほんのわずかな乱れが生まれたのだ。
ゴォン……。
――ギン。
ゴォン……。
――ギン。
真は、はっとした。
鉱喰いの響きと、自分が送り込んだ振動が、互いにぶつかっている。
そのたびに、外殻の内側で何かが軋んでいた。
真は、必死に耳を澄ませた。
どこだ。
どこに、響きが集まっている。
どこなら、届く。
鉱喰いの胸元。
首の付け根。
前脚の関節。
真は、振動の伝わり方を探った。
すると、ある場所で、音が少しだけ大きくなることに気づいた。
胸の中央。
外殻の奥に、硬いものが重なっている。
その部分だけ、ほかよりも響きが強い。
真は、その場所へ意識を集中させた。
鉱喰いが一歩、踏み出す。
真は、指先を強く地面に押しつけた。
そして、鉱喰いの振動に対して、ほんのわずかにずれた音を送り込んだ。
ゴォン……。
――ギィン。
ゴォン……。
――ギィン。
次の瞬間。
鉱喰いの胸元から、乾いた音が響いた。
ピシッ。
外殻に、細い亀裂が走った。
真は息を呑んだ。
「……割れた?」
鉱喰いが、初めて大きく身をよじった。
その動きで、地面が揺れる。
真は倒れそうになりながらも、振動を送り続けた。
だが、限界は近かった。
頭が痛い。
目の奥が熱い。
胸の輝石が、今にも砕けそうなほど震えている。
それでも、やめられなかった。
ここでやめれば、少年が死ぬ。
真は、残った力を振り絞った。
鉱喰いの振動に、自分の振動を重ねる。
そして、その周期を少しずつずらしていく。
最初は、ほんのわずかな違いだった。
次に、もう少し大きく。
音がぶつかる。
響きが乱れる。
鉱喰いの身体が震え始めた。
その震えは、最初の咆哮とは違っていた。
外側から揺さぶられているのではない。
身体の内側から、何かが崩れていくような震えだった。
ピシッ。
ピシピシッ。
亀裂が広がる。
鉱喰いが、口を大きく開いた。
咆哮が、坑道全体を揺るがす。
真の耳から、血が流れた。
胸の奥で、何かが軋む。
それでも、真は最後の振動を送り込んだ。
――ズン。
低い衝撃が、鉱山の地面を伝った。
直後。
鉱喰いの胸部を覆っていた外殻が、内側から弾け飛んだ。
灰色の鉱石が、四方へ散らばる。
魔物の巨体が、ぐらりと傾いた。
そして、地面へ倒れ込んだ。
轟音。
土煙。
散乱する鉱石。
そのすべてが、真の視界を覆い隠した。
真は、しばらく動けなかった。
指先が震えている。
胸が痛い。
息を吸うたび、喉の奥に鉄の味が広がる。
それでも。
鉱喰いは、動かなかった。
真は、ゆっくりと顔を上げた。
「……終わった、のか?」
返事はなかった。
代わりに、背後から、かすかな泣き声が聞こえた。
「……うっ……」
少年だ。
真は、ふらつきながら立ち上がった。
足元がおぼつかない。
視界が揺れている。
それでも、少年のもとへ歩いた。
「大丈夫か……?」
少年は、涙で濡れた顔を上げた。
「……真?」
「ああ。もう、大丈夫だ」
真は、倒れた梁に手をかけた。
今度は、近くの鉱夫たちが駆け寄ってきた。
「おい、無理するな!」
「そっちは俺たちでやる!」
数人がかりで梁を持ち上げ、少年の足を引き抜く。
少年は、痛みに顔を歪めながらも、自分の足で立ち上がった。
真は、その姿を見て、ようやく息を吐いた。
助かった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
「おい、真!」
誰かが叫んだ。
真は膝をつき、そのまま地面へ倒れ込んだ。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、誰かの声だった。
「……あいつ、今、何をしたんだ?」
真は答えられなかった。
自分でも、わからなかったからだ。
ただ、倒れた鉱喰いの身体から、あの低い響きが消えていることだけは、はっきりと感じていた。
まるで、巨大な鐘が、長い眠りについたかのように。




