第1話 白い壁の向こう側
1.白い壁
南へ向かう風は、乾いていた。
街道の両側には、背の低い草が生えている。
かつては農地だったのだろう。ところどころに石垣の跡が残っていたが、畑を耕す人間の姿はなかった。
遠くには、白い鳥が数羽、地面をついばんでいる。
真は歩きながら、何度目かになる問いを口にした。
「……あれ、本当に街なんだよな?」
「三回目だぞ」
前を歩くガルドが答えた。
「四回目だよ」
「訂正するな。余計に腹が立つ」
「だって、街に見えないんだよ」
真は街道の先を指さした。
そこには、巨大な白い壁があった。
壁は丘の向こうから姿を現し、地平線に沿って左右へと伸びている。高い場所では、雲の底にまで届きそうだった。
壁面は白い石材で統一され、継ぎ目さえほとんど見えない。
陽光を浴びた表面は、雪原のように眩しかった。
その内側には、いくつもの塔がそびえている。
尖塔。鐘楼。橋。高架水路。
そして、都市の中央には、ひときわ巨大な建造物があった。
天に突き刺さる白い塔。
塔の上部には巨大な円環が浮かび、その中心で、純白の輝石が太陽のように輝いていた。
「光冠都市」
ガルドは言った。
「白冠教団の管理都市だ。街道も、商業も、住民の登録も、あそこでは教団の許可が必要になる」
「ずいぶん大きいな」
「この辺りじゃ最大級だ。南北の交易路が交わる場所にある。あそこを通れば、南の赤い大地へ向かう街道に乗れる」
「通れば、ってことは……」
「通してもらえれば、だな」
ガルドは肩をすくめた。
その声には、どこか刺々しいものが混じっていた。
真は横目で彼女を見た。
「来たことがあるんだよな?」
「ある」
「いつ?」
「昔だ」
「……どんな街だった?」
「今と同じだろうよ」
ガルドは歩みを緩めなかった。
「白くて、清潔で、規則正しくて、誰もが正しいことをしている街だ」
それは、褒め言葉のようにも聞こえた。
けれど、彼女の声には温度がなかった。
真は、もう一度都市を見た。
壁の外側には、街道を行き交う人々がいた。
荷車を引く商人。
背負い籠を持つ旅人。
幼い子どもの手を引く母親。
彼らはみな、壁の向こう側を目指している。
そこに何があるのか。
何を求めているのか。
真には、まだわからない。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
街道を進むにつれて、胸の奥の輝石が、少しずつ強く震え始めている。
透明な石が、まるで何かに呼びかけられているようだった。
真は服の上から胸元に触れた。
「……どうした?」
ガルドが気づいた。
「いや。何でもない」
「その顔で何でもないは通用しない」
「本当に、少し変な感じがするだけだよ」
「どんな感じだ」
真は言葉を探した。
「音が、揃いすぎてる」
「音?」
「街から聞こえる音。鐘とか、水の流れる音とか、人の足音とか……全部、何かに合わせられているみたいなんだ」
ガルドは都市を見た。
「気のせいじゃないか?」
「そうかもしれない」
「なら、気にするな」
「でも――」
「真」
ガルドは足を止めた。
「お前の力が何なのか、私は全部知っているわけじゃない。だが、何かを感じ取るたびに首を突っ込んでいたら、目的地に着く前に人生が終わるぞ」
「……それは、そうだね」
「素直でよろしい」
彼女は再び歩き出した。
真も後に続く。
そのとき、街の中央から鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
乾いた音が、空気を震わせる。
街道を行く人々が、ほとんど同時に足を止めた。
荷車を押していた男が、車輪を固定する。
母親が、子どもの肩に手を置く。
商人が、荷物の覆いを確かめる。
誰もが、鐘の音に合わせて動いていた。
真だけが、歩き続けていた。
ガルドが振り返る。
「おい」
「……あ」
真は慌てて足を止めた。
周囲の人々が、彼を見ていた。
不思議そうな顔。
戸惑った顔。
そして、その中には、明らかな警戒の色もあった。
「今の鐘は何?」
真が尋ねると、近くにいた老人が答えた。
「夕刻前の告知だよ。都市内の市場が閉まる時刻を知らせる鐘だ」
「まだ夕方には早い気がするけど」
「外の時間と中の時間は違うんだ。光冠都市では、鐘楼の管理に従って生活する」
老人は穏やかに笑った。
「そのほうが、皆が安心して暮らせるからね」
「鐘が鳴ったら、みんな同じように動くんですか?」
「そうだよ。規則があれば、迷うこともない」
老人は、当然のことを話すように言った。
「迷いが少なければ、間違いも減る。間違いが減れば、争いも減る。教団は、私たちにそれを教えてくれたんだ」
彼は誇らしげに壁を見上げた。
「ありがたいことだよ」
真は、すぐに返事ができなかった。
迷わないこと。
間違えないこと。
争わないこと。
それらは、確かに良いことなのかもしれない。
けれど。
自分で考える前に、正しい答えが与えられるとしたら。
自分で選ぶ前に、進むべき道が決められているとしたら。
それでも、人は迷わずにいられることを幸福と呼ぶのだろうか。
「行くぞ」
ガルドの声に、真は我に返った。
「……うん」
二人は、再び都市へ向かって歩き始めた。
その背後で、鐘が四度目の音を響かせた。
真の胸の奥で、透明な輝石が微かに鳴った。
鐘の音に応えるように。
あるいは、鐘の音に逆らうように。
2.通行許可
光冠都市の外門には、長い列ができていた。
門の前には、白い制服を着た兵士が立ち、訪れる人々の身分証を確認している。
兵士の胸元には、円環と翼を組み合わせた紋章が刻まれていた。
白冠教団直属の白衛隊。
彼らは都市の治安を守り、輝石の異常を監視し、必要に応じて住民を保護する。
少なくとも、公式にはそう説明されていた。
門の脇には、白い石柱が何本も並んでいる。
石柱の上部には、薄い金属板と透明な結晶が取りつけられていた。
真は、その結晶を見つめた。
「ガルド、あれは?」
「輝石の反応を調べる装置だ」
「色がわかるの?」
「色だけじゃない。出力も、共鳴の乱れも、ある程度はな」
「……便利だね」
「便利だからこそ、厄介なんだ」
ガルドの答えは短かった。
列が少しずつ進む。
先頭では、商人らしい男が身分証を差し出していた。
兵士が金属板を装置にかざす。
白い光が灯る。
「属性、黄色。登録出力、基準値内。通行を許可する」
商人は頭を下げ、門をくぐった。
次の者も同じだった。
身分証を提示する。
輝石の反応を調べる。
許可されれば通る。
問題があれば、別の通路へ案内される。
その流れは、ひどく滑らかだった。
誰もが、自分の順番を守っている。
列に割り込む者はいない。
兵士に食ってかかる者もいない。
検査を受けた人々は、結果に満足していても不満を抱いていても、静かに門を通っていった。
「すごいな……」
真は呟いた。
「何がだ」
「こんなに大勢いるのに、誰も揉めていない」
「揉める必要がないからだろう」
「どういう意味?」
「規則に逆らったところで、何も変わらないと知っているんだ」
ガルドは列の先を見た。
「それが良いことなのか悪いことなのかは、別の話だがな」
そのとき、門の前で小さな騒ぎが起きた。
「お願いです! この子だけでも通してください!」
若い女性が、兵士に頭を下げていた。
彼女の隣には、十歳ほどの少年が立っている。
少年は顔色が悪く、額に汗を浮かべていた。
女性の腕には、旅の荷物が抱えられている。服は汚れ、靴は擦り切れていた。
「規定により、属性登録が確認できない者は通行できない」
兵士は淡々と答えた。
「でも、この子は病気なんです! 街の医者に診てもらわないと!」
「医療区画への案内は、登録が確認された後に行う」
「そんな……!」
女性は少年を抱き寄せた。
「お願いです。せめて、この子だけでも!」
兵士は表情を変えなかった。
「規則に従ってください」
少年が、小さく咳き込んだ。
その音を聞いた瞬間、真は一歩踏み出しかけた。
しかし、ガルドが腕をつかんだ。
「待て」
「でも、あの子――」
「見ろ」
ガルドが視線で示した先に、別の兵士がいた。
彼は女性と少年のもとへ歩み寄ると、手に持った小さな結晶を少年の胸元へ近づけた。
結晶が、淡い緑色に光る。
兵士の表情が変わった。
「……緑の輝石か」
「そうです! この子は緑です! ちゃんと能力もあります!」
女性が必死に訴えた。
「なら、どうして登録がない?」
「村に登録所がなかったんです! この子は生まれたときから身体が弱くて、ずっと家で――」
「登録がない者は、能力の管理状況が確認できない」
兵士は少年を見た。
「いつ能力が発現した?」
「……わかりません」
少年が答えた。
「いつから力を使える?」
「わからない……」
「どの程度の出力がある?」
少年は、母親の服を握りしめた。
「……わからない」
兵士は、短く息を吐いた。
「規定に従い、再検査を受けてもらう」
「そんな、今すぐにでも医者に――!」
「再検査の後、必要であれば医療区画へ移送する」
女性は、何かを言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
兵士たちは、女性と少年を門の脇にある建物へ案内した。
少年は歩きながら、何度も母親を振り返った。
母親は、そのたびに笑おうとしていた。
大丈夫。
すぐに戻れる。
きっと助けてもらえる。
そう伝えようとしているようだった。
真は、その背中を見つめていた。
「……あの子、助かるのかな」
「さあな」
ガルドが答えた。
「検査で異常がなければ、医者に診てもらえるだろう」
「でも、あんなに苦しそうなのに」
「規則に従っているだけの兵士に、何を言っても仕方がない」
「……規則が間違っていたら?」
ガルドは、すぐには答えなかった。
列が進む。
二人の前に、数人の旅人が並んでいる。
「間違っていると思うなら、変えるしかない」
やがて、ガルドは言った。
「ただし、変えるためには力がいる。相手を殴り倒す力だけじゃない。相手が何を守ろうとしているのかを知る力もな」
真は彼女を見た。
「ガルドは、あの兵士たちが何を守ろうとしていると思う?」
「自分の立場だろう」
「それだけ?」
「それだけじゃないかもしれない」
ガルドは、ほんの少しだけ目を細めた。
「本当に、この街の規則のおかげで助かった人間もいるんだろう。だからこそ、面倒なんだ」
彼女は壁を見上げた。
「人を苦しめるものが、同時に人を救うこともある。そういうものは、簡単に壊せない」
真は、返す言葉を見つけられなかった。
そのとき、門の向こう側から、鐘の音が聞こえた。
今度は短く、二度。
兵士たちが一斉に動いた。
門の上部にある円環が、白く輝く。
列の人々は、それに従って整列し直した。
まるで、巨大な生き物の身体が、ひとつの意思で動いているようだった。
真は、再び胸元に触れた。
透明な輝石が、強く震えていた。
この街の秩序は、単に人々の習慣によって成り立っているのではない。
何かが、街全体を繋いでいる。
人々の生活。
壁の防御。
門の検査装置。
鐘楼の音。
それらが、見えない糸で結ばれているようだった。
真は、その糸の向こう側に、何かを感じた。
巨大な力。
整然とした響き。
そして、その中心にある、ひどく冷たい沈黙。
「次!」
兵士の声が響いた。
ついに、真たちの番が来た。
3.無色
「身分証を提示しろ」
真は、簡易通行札を差し出した。
兵士は札を受け取り、装置へかざす。
白い光が灯った。
「同行者、緋色。登録情報、確認」
ガルドが無言で頷く。
兵士の視線が、真へ移った。
「次。輝石の属性を確認する」
真は装置の前に立った。
胸元に、白い光が当たる。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起こらなかった。
兵士は装置を見下ろした。
「……もう一度だ」
装置が再び光る。
今度は、白い光が真の胸元を強く照らした。
透明な輝石が、微かに震える。
その瞬間。
門の上にある円環が、ほんのわずかに揺れた。
真には、それが聞こえた。
規則正しく流れていた巨大な響き。
その中に、ほんの一瞬だけ、音のない穴が開いた。
白い光が乱れる。
門の上の円環が、目に見えないほど小さく傾く。
そして、すぐに元へ戻った。
誰も気づかなかった。
少なくとも、ほとんどの人間は。
兵士の顔色が変わった。
「……お前」
彼は装置を見つめ、それから真を見た。
「輝石の属性を申告しろ」
「無色です」
真が答えた瞬間、周囲の空気が変わった。
列に並んでいた人々が、一斉に真を見た。
誰かが息を呑む。
別の誰かが、小さく後ずさる。
「無色……?」
「本当にいるのか?」
「教団の管理対象じゃないのか?」
「近づかないほうがいい」
ざわめきが広がっていく。
真は、その視線を知っていた。
灰鐘村でも、何度も浴びてきた視線。
石渡りの町でも、幾度となく向けられた視線。
無理解。
侮蔑。
そして、恐怖。
けれど、この都市の人々の目には、それらに加えて、別のものがあった。
確信。
無色の人間は危険である。
無色の人間は規格外である。
無色の人間は、管理されなければならない。
彼らは、そう教えられてきたのだろう。
兵士は真から一歩距離を取った。
「無色の輝石は、通常の属性検査では判定できない。規定により、別室で再検査を行う」
「待ってください」
真は、落ち着いて答えた。
「俺はただ、通行許可が欲しいだけです」
「検査が先だ」
「どれくらいかかるんですか?」
「検査結果による」
「今日中に終わりますか?」
「検査結果による」
同じ言葉が、繰り返される。
まるで、会話そのものが規則に組み込まれているようだった。
真は、兵士の目を見た。
「俺は、犯罪者じゃありません」
兵士は答えなかった。
代わりに、門の脇に控えていた別の兵士へ目配せする。
白い拘束具が、彼の手に現れた。
ガルドが半歩、前へ出た。
「おい。何をするつもりだ」
「規定に従い、対象を保護する」
「保護?」
ガルドの声が、低くなった。
「本人の意思も聞かずに拘束することが、保護か?」
「部外者は黙っていろ」
ガルドは、ゆっくりと笑った。
笑っているのに、その目は少しも笑っていなかった。
真は、彼女の腕に触れた。
「ガルド。いい」
「よくない」
「ここで戦ったら、南へ行けなくなる」
「だからって――」
「大丈夫」
真は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「何も悪いことをしていないなら、ちゃんと話せばいい」
ガルドは、彼を見つめた。
その目には、苛立ちだけではない何かがあった。
彼女は、何かを思い出しているようだった。
白い部屋。
金属の拘束具。
誰かの声。
規則に従え。
抵抗するな。
お前のためだ。
ガルドは、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前は本当に、面倒くさい奴だな」
「よく言われる」
「誰にだ」
「今のところ、ガルドに」
「なら、私が正しい」
彼女は一歩下がった。
真は兵士に向き直る。
「わかりました。検査を受けます。ただし、ひとつだけ約束してください」
「何だ」
「俺を、物みたいに扱わないでください」
兵士の表情が、一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに元へ戻る。
「……移動しろ」
真は歩き出した。
白い建物の扉が開く。
その向こうは、外の光が届かないほど白かった。
そして扉が閉じる直前、真は門の上にある円環をもう一度見た。
白い光の中心に、ほんの一瞬だけ、黒い線が走った気がした。
まるで、白い世界の奥底に、何かが潜んでいるかのように。
4.検査室
検査室は、ひどく静かだった。
壁も床も天井も白い。
窓はない。
机も椅子も、必要最低限のものしか置かれていなかった。
真は部屋の中央に立たされ、胸元に装置を当てられた。
「輝石の反応を測定する」
白衣を着た研究員が、淡々と告げた。
「痛みはありませんか?」
「ありません」
「眩暈は?」
「ありません」
「頭痛は?」
「少しだけ」
「いつからですか?」
「旅に出てから、力を使うときに」
研究員の手が止まった。
「力を使う?」
「はい。音や振動を聞き取ったり、少しだけ変えたりできます」
「……誰から教わった?」
「誰にも。気づいたらできるようになっていました」
研究員は記録板に何かを書き込んだ。
「無色の輝石が、他の属性に干渉するという報告はある。しかし、実際に確認された例は少ない」
「俺の力は、何なんですか?」
真は尋ねた。
「無色の輝石は、欠陥なんでしょうか」
研究員は答えなかった。
装置の針を調整し、別の計測器を起動する。
白い光が真の身体を走った。
胸元の透明な輝石が、微かに震える。
真には、その振動が聞こえていた。
装置の内側を流れる力。
壁の中に埋め込まれた白い輝石。
天井裏に張り巡らされた細い金属線。
そして、この部屋の外。
廊下の向こうにいる人間たちの足音。
それらが、ひとつの大きな音の網になっている。
真は、そっと目を閉じた。
その瞬間。
装置の音が途切れた。
研究員が顔を上げる。
「……今、何をした?」
「え?」
「装置の出力が落ちた。お前が何かしたのか?」
「何もしていません」
研究員は真を睨んだ。
「嘘をつくな」
「本当に――」
「もう一度、出力を上げる」
装置が唸り始めた。
白い光が強くなる。
真の胸に、圧迫感が走った。
透明な輝石が、痛みを伴うほど強く震える。
――違う。
真は思った。
この装置は、輝石を調べているんじゃない。
何かを、無理やり引き出そうとしている。
胸の奥にある力を。
自分でもまだ理解していない、何かを。
「止めてください」
真は声を上げた。
研究員は反応しない。
装置の出力がさらに上がる。
真の呼吸が乱れた。
視界が白く染まる。
その白の向こう側から、何かが聞こえた。
遠い鐘の音。
乾いた風。
誰かの囁き。
――無色の者よ。
真は目を見開いた。
――その手で、何を残す。
胸の奥で、透明な輝石が鳴った。
そして。
検査室の壁に、一本の細い亀裂が走った。
研究員が息を呑む。
「馬鹿な……!」
亀裂は一瞬で消えた。
装置が停止する。
白い光が消え、室内に静寂が戻った。
真は膝をついた。
息が苦しい。
頭の奥が、割れるように痛む。
それでも、意識は保っていた。
研究員は震える手で記録板を確認していた。
そこには、通常の検査では出るはずのない数値が並んでいる。
色の反応、干渉率、共鳴波形。
そのすべてが、測定不能を示していた。
ただひとつ。
記録の末尾に、古い形式の文字列が表示されていた。
白冠管理番号――零号。
研究員は、その文字を見つめた。
「……どうして、この番号が」
真は顔を上げた。
「零号?」
研究員は、はっとして画面を閉じた。
「何でもない」
「今、零号って――」
「検査は終了だ。しばらくここで待機していろ」
研究員は逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まる。
真は、白い床に手をついたまま、しばらく動けなかった。
零号。
第一章で訪れた、あの古い研究施設。
透明な石。
機械が告げた言葉。
――色を得ることと、色を理解することは違う。
なぜ、あの言葉が今になって思い出されたのか。
なぜ、白冠教団は自分の輝石に番号をつけているのか。
そして、なぜ彼らは、自分を人間ではなく「対象」と呼ぶのか。
真は、胸元を押さえた。
透明な輝石は、何も答えなかった。
ただ、その奥にある何かが、静かに目を覚まそうとしている。
そんな気がした。
5.白い街の影
同じころ。
光冠都市の中央にそびえる白冠塔、その最上階。
窓の外には、整然と並ぶ街並みが広がっていた。
白い石畳。
白い壁。
白い制服。
規則正しく流れる人々の列。
すべてが、秩序の中に収まっている。
その部屋で、一人の男が報告書を読んでいた。
白い衣服に身を包み、胸元には白い円環の紋章が刻まれている。
白冠教団の監察官、ヴァイス。
彼は報告書の最後に記された文字を見つめた。
対象:零号。
「……見つかったか」
彼は小さく呟いた。
「こんな時代になって、まだ残っていたとはな」
机の上には、古い記録が何冊も積まれていた。
その一冊には、長い年月の間に失われたはずの研究記録が収められている。
複数の色の干渉。
無色の輝石。
世界規模の共鳴。
そして、かつて存在した、ある計画。
ヴァイスは窓の外を見た。
都市の中央広場では、子どもたちが白い制服を着た教師の話を聞いている。
教師は、穏やかな声で語っていた。
「白は、すべてを拒絶する色です。危険なものを拒み、争いを拒み、混乱を拒む。だからこそ、私たちは安心して暮らせるのです」
子どもたちは頷いていた。
ヴァイスは、その光景をしばらく見つめたあと、報告書を閉じた。
「……彼を、中央へ移送しろ」
部下が頭を下げる。
「尋問を行いますか?」
「いや」
ヴァイスは静かに答えた。
「まずは観察する。彼が何者なのか、本人よりも先に知る必要がある」
「承知しました」
部下が退出する。
一人になったヴァイスは、机の引き出しを開けた。
そこには、透明な小さな石が収められていた。
何の色もない石。
しかし、その内部には、微かな傷のような線が走っている。
ヴァイスはそれを手に取った。
「無色の原石……」
彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「今度こそ、正しく使わなければならない」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
彼自身にも、もうわからなかった。
窓の外で、鐘が鳴った。
光冠都市の夕刻を告げる鐘だった。
その音は、街の隅々にまで行き渡り、人々の足を止め、生活の区切りを知らせる。
誰もが、その鐘の音に従っていた。
ただ一人。
白い検査室に閉じ込められた少年だけが、その鐘の音に、別の響きを聞いていた。
鐘の奥にある、わずかな歪み。
規則正しい音の隙間に潜む、異質な振動。
それはまるで、この白い都市そのものが、何かを必死に押さえ込んでいるかのようだった。
そして真は、まだ知らない。
この都市で出会う一人の女性が、白の秩序を捨てた元兵士であることを。
その女性との出会いが、自分の考えを大きく変えることを。
そして、白い壁の向こう側には、教団が恐れるものだけでなく、教団自身が生み出したものも潜んでいることを。
彼はただ、閉ざされた扉を見つめていた。
自分が何者なのか。
何のために生まれたのか。
そして、自分の手で何を残すのか。
その答えを探すために。
第二章は、まだ始まったばかりだった。




