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無色の輝石使い  作者: 神代シン
第二章 拒絶の都

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第2話 規則正しい檻

1 扉の向こうにいる人

 扉が閉まる音は、思ったよりも軽かった。


 金属が噛み合う音も、錠が落ちる音もない。


 白い扉は、ただ静かに閉じた。


 それだけだった。


 だからこそ、シンはすぐには動かなかった。


 音がない。


 いや、正確には、音があるはずの場所から音だけが抜き取られていた。


 検査室の壁には、白い石材が隙間なく敷き詰められている。床も天井も同じ色で、部屋の隅にさえ埃が見当たらない。窓はない。家具は椅子と机だけ。机の上には水差しと、透明な容器に入った乾燥果実が置かれていた。


 歓迎されているのか、閉じ込められているのか。


 どちらにも見える部屋だった。


「……ずいぶんと親切な牢屋だな」


 シンは椅子を引き、座った。


 背もたれは硬いが、座面には薄い布が敷かれている。水差しの水は冷たく、乾燥果実には砂糖がまぶされていた。


 客人に出すものとしては申し分ない。


 囚人に出すものとしても、申し分ない。


 違いがあるとすれば、客人は自分の意思で部屋を出られるが、囚人はそうではないということくらいだ。


 シンは扉に目を向けた。


「ガルドは、どうしてるかな」


 返事はない。


 当然だ。


 ここにいるのは自分ひとりなのだから。


 それでも、シンは耳を澄ませた。


 第一章で灰鈴の村を出てから、音は彼にとって単なる音ではなくなっていた。


 足音には体重がある。


 呼吸には感情がある。


 金属の軋みには、そこにかかる力の向きがある。


 そして、壁には、壁を壁として成立させるための振動がある。


 彼の無色の輝石は、世界に満ちる振動を拾い上げる。


 ただし、何でも聞こえるわけではない。


 遠すぎる音は届かない。強すぎる音は他の音をかき消す。複雑すぎる振動は、意味を読み取る前に雑音へと変わる。


 だからシンは、音を聞くとき、音そのものよりも、その音が生まれた理由を考えるようになっていた。


 この部屋には、空調のための微細な振動がある。


 壁の向こうには、何かを循環させる装置がある。


 床下には、一定の間隔で脈打つ振動が走っている。


 そして――。


 シンは目を細めた。


「……誰かいるな」


 壁の向こう。


 右側、肩の高さより少し下。


 呼吸音は聞こえない。


 足音もない。


 だが、壁の表面にごく小さな圧力の変化が生じていた。


 誰かが壁に寄りかかっている。


 あるいは、壁の向こうから、こちらの様子を窺っている。


 シンは立ち上がり、壁に近づいた。


 指先を触れさせる。


 ひやりとした感触。


 その奥から、微かな振動が伝わってきた。


 人間の心臓の鼓動ではない。


 もっと規則的で、もっと均一な振動。


 まるで、壁そのものが呼吸しているかのようだった。


「何をしているんですか」


 背後から声がした。


 シンは振り返った。


 いつの間にか、扉が開いていた。


 白衣を着た男がひとり、盆を持って立っている。年齢は三十代半ばほど。細身で、髪は短く整えられていた。胸元には、白冠教団の紋章が刺繍されている。


 男はシンの手元を見て、それから壁を見た。


「壁に触れるのはおやめください。検査室の設備は精密です。不用意に触れれば、誤作動を起こすおそれがあります」


「誤作動?」


「ええ。あなたの輝石は、先ほどの測定で通常とは異なる反応を示しました。安全が確認されるまで、設備への接触は禁止です」


「じゃあ、さっきから壁が振動しているのは?」


 男の手が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、シンは見逃さなかった。


「振動?」


「右の壁。床下もだ。一定の周期で何かが動いている。ここの設備は、何をしているんです?」


「都市防壁の維持装置です」


 答えは早かった。


 早すぎるほどに。


「光冠都市の防壁は、白の輝石の力によって維持されています。外部からの侵入や輝獣の襲撃、石獣の接近を防ぐためのものです。壁の内部には複数の蓄積地があり、そこから供給される力を各所に配分しているのです」


「なるほど」


「ご理解いただけましたか」


「いや、説明は分かったけど、質問の答えにはなってない」


 男の表情がわずかに硬くなった。


「……どういう意味です?」


「防壁を維持しているだけなら、どうして人の足音みたいな振動が混ざっているんだ?」


 沈黙。


 ほんの数秒だった。


 だが、その沈黙は、男が口にした説明よりも雄弁だった。


「あなたは、音を聞くのが得意なのですね」


「得意というか、聞こえるんだ」


「無色の輝石による能力でしょうか」


「たぶん」


「興味深い」


 男は盆を机に置いた。


 水差しの隣に、温められたスープと、薄く切られたパンが並ぶ。


「食事をどうぞ。検査の結果が出るまで、あなたにはこちらで休んでいただきます。必要なものがあれば、扉の横にある呼び鈴を鳴らしてください」


「扉は開くのか?」


「担当者が来ます」


「俺が出たいと言ったら?」


「検査が終わるまでは、許可できません」


 穏やかな口調だった。


 男は怒っていない。


 脅してもいない。


 ただ、決まっていることを伝えているだけだった。


 その態度が、シンには少し怖かった。


「俺は犯罪者じゃない」


「承知しています」


「危険なことをした覚えもない」


「それも承知しています」


「なら、どうして閉じ込める?」


 男はシンを見た。


 目には敵意がなかった。


 同情もなかった。


 あるのは、仕事をする人間の疲れと、仕事を正しいものだと信じようとする人間の慎重さだった。


「あなたを危険から守るためです」


「誰の危険から?」


「……それは、検査の結果が出てからご説明します」


 男は一礼した。


 扉へ向かう。


 シンは呼び止めた。


「名前は?」


「記録官のリヒトです」


「リヒト。俺はシンだ」


「記録では、新城真様となっています」


「その名前で呼ばれるのは、あまり好きじゃない」


 リヒトは足を止めた。


「では、何とお呼びすれば?」


「シンでいい」


「承知しました。シン様」


「様もいらない」


「……努力します」


 それだけ言って、リヒトは部屋を出た。


 扉が閉じる。


 また、音が消えた。


 シンは机の前に戻り、スープを見つめた。


 湯気が立っている。


 パンは柔らかそうだ。


 毒が入っているかどうかは分からないが、少なくとも、毒を入れるならもう少し分かりにくい食事にするだろう。


 シンはパンをちぎり、スープにつけて口に運んだ。


 温かかった。


 腹が減っていたことを、食べてから思い出した。


「……うまいな」


 思わず呟く。


 その直後、シンは少しだけ笑った。


 閉じ込められた場所で、出された食事をうまいと思う。


 それ自体は、別におかしなことではない。


 だが、こんな場所でさえ、温かいものを食べる人間の暮らしがある。


 それを考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。


 彼はパンをもうひと口食べた。


 そして、壁の向こうから聞こえる規則正しい振動に、もう一度耳を澄ませた。


 壁は、ただの壁ではない。


 この街は、ただの街ではない。


 そして、自分はたぶん、ただ検査されているだけではない。


 机の上の水差しが、かすかに揺れた。


 振動の周期が変わったのだ。


 シンは顔を上げた。


「……誰かが、俺のことを調べてるんじゃない」


 彼は壁を見つめた。


「この街そのものが、俺を調べてるのか」


 答えはなかった。


 ただ、白い壁の奥で、何かが静かに回り続けていた。


2 街の外にいる人

 光冠都市の城門前。


 ガルドは、腕を組んで立っていた。


 正確には、立たされていた。


 城門の外側には、入都を待つ人々のために長い列が設けられている。列は白い石柱によって細かく区切られ、地面には進む位置を示す線が引かれていた。


 列から外れることは禁止。


 順番を飛ばすことも禁止。


 大声で騒ぐことも禁止。


 そして、検査官の指示に従わないことも禁止。


 禁止事項の多さに、ガルドは早くも頭が痛くなっていた。


「……なんだ、この街」


 呟いた声に、隣の老人がびくりと肩を震わせた。


「お、お静かに」


「なんで?」


「聞かれたら困ります」


「誰に?」


「誰にって……」


 老人は、周囲を見回した。


 城門の上には、白い制服を着た衛兵が並んでいる。彼らは槍を持ち、列を見下ろしていた。


 そのうちのひとりが、こちらを見た。


 老人は慌てて口を閉じた。


 ガルドは衛兵を睨み返した。


 衛兵は目を逸らした。


「……弱っちいな」


「あなた!」


 老人が悲鳴に近い声を上げた。


「衛兵を挑発してはいけません!」


「挑発してねえよ。見ただけだ」


「それがいけないのです!」


「どういう理屈だよ!」


 老人は答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 ガルドは舌打ちをして、列の前方を見た。


 検査は遅々として進まない。


 ひとりずつ身分証を提示し、輝石の属性を確認され、荷物を調べられ、登録内容と照合される。問題がなければ白い札を渡され、問題があれば別の列へ誘導される。


 別の列に並んだ人間が、元の列に戻ってくることはほとんどなかった。


 ガルドは、先ほどから何人も見ていた。


 白い札を受け取り、安堵して歩いていく商人。


 荷物を開けられ、何度も同じ質問をされる旅人。


 輝石を見せた瞬間、係員の態度が変わった若い男。


 そして、母親と一緒に列に並んでいた小さな子供。


 その子供の輝石は、緑色だった。


 母親は何度も係員に頭を下げていた。


「この子はまだ小さいんです。登録は村で済ませたはずです。証明書もあります」


「照合できません」


「そんなはずは……」


「記録に存在しない以上、未登録者として扱います」


「でも、この子は何も悪いことをしていません!」


「規則は、違反者を罰するためだけのものではありません。事故を未然に防ぐためのものです」


 係員は淡々と言った。


「未登録の輝石は、能力の性質も蓄積量も把握できません。都市の安全を守るため、所定の検査を受けていただきます」


 母親は子供を抱き寄せた。


「検査なら、私も一緒に……」


「保護者の同伴は、検査官の判断によります」


「お願いします。どうか、お願いします」


 母親は膝をつきかけた。


 その肩を、ガルドが掴んだ。


「おい」


 係員が振り返る。


「列に戻ってください」


「この子、どこへ連れていく気だ」


「あなたには関係ありません」


「関係あるだろ。子供が泣いてる」


「泣いていることと、検査の必要性は別問題です」


「……あ?」


 ガルドの指に力がこもった。


 係員の顔色が変わる。


「手を離してください。衛兵!」


 城門の上で、槍が動いた。


 ガルドの肩に、赤い輝石の熱が集まりかける。


 その瞬間。


 鐘が鳴った。


 澄んだ音が、都市の上空から降りてくる。


 一度。


 二度。


 三度。


 周囲の人々が一斉に動きを止めた。


 母親も。


 子供も。


 係員も。


 ガルドだけが、動きを止めなかった。


「……なんだよ」


 鐘の音は、まだ続いている。


 衛兵たちは槍を下ろした。


 列の人々は姿勢を正し、係員は胸元の紋章に指を添えた。


 祈りのようにも見えた。


 命令を受けた兵士のようにも見えた。


 ガルドは、周囲の人間を見回した。


「おい。何してる」


 誰も答えない。


 鐘が四度目に鳴った。


 そのとき、ガルドの足元で、赤い火花が散った。


 彼女の輝石が、ほんの一瞬だけ熱を帯びたのだ。


 ガルドは眉をひそめた。


 自分の意志とは関係がない。


 熱を集めたつもりもない。


 なのに、身体の奥にある赤い力が、鐘の音に反応した。


「……気に入らねえ」


 鐘が止まった。


 人々は一斉に動き出した。


 あまりにも自然に。


 あまりにも同じタイミングで。


 まるで、止まっていた時間が再び動き出したかのように。


 係員は何事もなかったように母親へ向き直った。


「では、こちらへ」


「待てよ」


 ガルドが前に出た。


「その子を連れていくなら、母親も一緒だ」


「規則では――」


「規則、規則って、さっきからそればっかりだな」


 ガルドは歯を剥いた。


「その規則ってのは、誰が決めた?」


「白冠教団です」


「そいつらは、この子のことを知ってるのか?」


「個人の事情ではなく、登録情報に基づいて判断しています」


「じゃあ、こいつの名前は?」


「……何です?」


「その子の名前だよ。登録情報じゃなくて、名前を聞いてる」


 係員は答えなかった。


 母親が、震える声で答えた。


「ミナです」


「ミナか」


 ガルドは子供を見た。


 小さな女の子だった。


 年齢は六つか七つほど。緑色の石が胸元に埋まっている。涙で頬が濡れていたが、泣き声は出していない。


 怖くて、声も出ないのだろう。


 ガルドはしゃがみ込み、目線を合わせた。


「ミナ。お前、悪いことしたか?」


 女の子は首を横に振った。


「じゃあ、胸を張れ。悪いことしてないなら、そんなに縮こまるな」


「ガルドさん!」


 母親が慌てて止めようとした。


 だが、ガルドは気にしなかった。


「それと、怖かったら泣いていい。泣いたって、誰もお前を悪い奴にはできねえ」


 女の子の唇が震えた。


 そして、小さな声で言った。


「……おかあさんと、いっしょがいい」


「だろうな」


 ガルドは立ち上がった。


「聞いたか?」


 係員は、困ったように眉を寄せた。


「お気持ちは理解します。しかし、都市の規則を個人の判断で変更することはできません」


「なら、変更できる奴を呼べ」


「そのような対応は――」


「呼べっつってんだよ」


 声が低くなった。


 赤い輝石が熱を帯びる。


 空気が揺れた。


 衛兵たちが一斉に槍を構えた。


 ガルドは笑った。


 好戦的な笑みだった。


 けれど、彼女はまだ殴っていない。


 ただ、殴らずに済む方法があるなら、そちらを選ぼうとしていた。


 そのことに、彼女自身は気づいていなかった。


 そのとき。


「そこまでにしておきなさい」


 列の向こうから、女の声がした。


 よく通る声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、衛兵たちの動きが止まった。


 白い制服を着た女が、列の間を歩いてくる。


 腰には剣。


 胸元には白冠教団の紋章。


 だが、その紋章の下に、小さな銀色の徽章が付いていた。


 衛兵のものとは違う。


 都市の役人のものとも違う。


 何かの部隊に所属していたことを示す徽章らしい。


 女はガルドと係員の間に立った。


「登録照合の不備なら、再確認を申請できます。保護者同伴の検査も、条件付きで認められるはずです」


 係員は目を見開いた。


「しかし、規則第十二条では――」


「第十二条の但し書きには、幼年者の検査における保護者の立ち会いについて記載があります」


 女は即答した。


「あなたが読んだのは本文だけですか?」


 係員の顔が赤くなった。


「……失礼しました」


「謝罪は私ではなく、母親に」


 係員は一瞬ためらい、それから頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。確認不足でした」


 母親は、呆然としたまま何度も頷いた。


 女は衛兵たちに目を向けた。


「武器を下ろしなさい。ここで争いを起こす必要はありません」


「ですが、彼女は検査官に対して――」


「私は、あなたたちに武器を下ろしなさいと言いました」


 衛兵たちは槍を下げた。


 女はガルドを見た。


「あなたも、輝石を刺激しないでください。ここで暴れれば、助けようとした子供まで巻き込まれます」


 ガルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……分かってるよ」


「本当に?」


「二度言わせんな」


 女は小さく息を吐いた。


「なら、少しだけ信用します」


 そして、女の子に向き直った。


「ミナさん。お母さんと一緒に検査を受けましょう。怖いことがあったら、私に言ってください」


「……ほんとう?」


「ええ。私は、あなたに嘘をつかないと約束します」


 女の子は母親の服を握りしめたまま、何度も頷いた。


 係員が母子を別の窓口へ案内していく。


 その後ろ姿を見送りながら、ガルドは女を睨んだ。


「お前、何者だ?」


「セラです」


「名前を聞いてるんじゃねえ。なんであいつらが、お前の言うことを聞いた?」


 セラは一瞬、視線を落とした。


 胸元の銀色の徽章を、指先でなぞる。


「以前、ここで働いていたからです」


「今は?」


「今は、少し違います」


「何が違う?」


「……いろいろと」


 セラは、言葉を濁した。


 その顔を見て、ガルドは追及をやめた。


 聞きたいことは山ほどあった。


 だが、相手が答えたくないことを無理に聞き出すのは、好きではなかった。


 その代わり、別のことを尋ねた。


「さっきの鐘。あれ、何なんだ?」


 セラの表情が変わった。


 ほんのわずか。


 しかし、ガルドには分かった。


「……定時鐘です」


「それだけか?」


「都市の生活を整えるための鐘です。交代の時間、交通の切り替え、施設の稼働。それぞれの合図を兼ねています」


「人間まで止まってたぞ」


「……ええ」


「お前も止まってた」


「ええ」


「なんでだ?」


 セラは答えなかった。


 代わりに、ガルドの背後にある白い城壁を見上げた。


「この街では、鐘が鳴ったら、決められた行動を取ることになっています」


「だから、なんでだって聞いてんだよ」


「従わない人がいると、周囲に影響が出るからです」


「影響?」


「……あなたは、もうすぐ分かると思います」


 セラはそれ以上説明しなかった。


 ガルドは舌打ちした。


 だが、そのとき、城門の上からひとりの衛兵が駆け下りてきた。


「セラ様!」


「どうしました?」


「検査施設から連絡がありました。同行者の無色の男性について、追加確認が必要とのことです」


 セラの顔から、わずかな色が消えた。


「追加確認?」


「はい。防壁の同期信号に異常が発生したとの報告です」


 ガルドは一歩踏み出した。


「シンに何があった?」


「現在、検査中です。詳細は――」


「どこにいる!」


 衛兵が怯んだ。


 セラは、ガルドの腕を掴んだ。


「落ち着いてください」


「落ち着けるか!」


「今ここで騒げば、彼を助けに行くことすらできなくなります」


 ガルドは歯を食いしばった。


 赤い輝石が熱を持つ。


 その熱を、彼女は無理やり抑えた。


 セラはそれを見て、少しだけ目を見開いた。


 そして、静かに言った。


「案内します。私も、検査施設へ行きます」


「……なんでお前が?」


「あなたの同行者が何をしたのか、私にも確認する必要があります」


「それだけか?」


 セラは答えなかった。


 ただ、城門の内側へと歩き始めた。


 ガルドは、その背中を追った。


 白い壁の向こうへ。


 規則正しい街の中へ。


 そのとき、遠くで鐘が鳴った。


 ガルドの胸の奥で、赤い輝石がまた微かに熱を帯びた。


 今度は、彼女にもはっきり分かった。


 鐘の音が、石に触れている。


 音が、何かを命じている。


 そして、その命令に従うことを、身体の奥にある力が当然のこととして受け入れようとしていた。


「……ふざけんな」


 ガルドは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「私の身体にまで、命令すんじゃねえ」


3 鐘の鳴る街

 光冠都市の内側は、城門の外から見た印象を裏切らなかった。


 道は広く、建物は整然と並び、排水溝にまで蓋がされている。街路樹は同じ高さに刈り揃えられ、枝が建物に触れないよう、一定の間隔を空けて植えられていた。


 商店の看板は統一された書体で書かれ、通りの角には案内板が立っている。


 道に迷う者はいない。


 少なくとも、道に迷わないようにするための仕組みは、徹底されていた。


 セラは歩きながら、街の構造を説明した。


「この区画は居住区です。中央通りを北へ進むと行政区、さらに奥が白冠教団の管理区域になります。商業区は西側、工房区は南側です」


「検査施設は?」


「行政区と管理区域の境界です」


「つまり、偉い奴らの近くか」


「そういう言い方もできますね」


「違うのか?」


「……間違いではありません」


 セラは少しだけ苦笑した。


 ガルドは周囲を見回す。


 街には人が大勢いた。


 商店の前で品物を選ぶ人々。荷車を押す職人。子供の手を引く親。路地の奥から聞こえる料理の音。窓を開け、洗濯物を取り込む老女。


 どこにでもある、人間の暮らし。


 それなのに、何かがおかしかった。


 誰もが周囲を気にしている。


 人とすれ違うときには、必要以上に距離を空ける。店員と客の会話は短く、声の調子も似通っている。子供が走り出すと、親は叱るより先に周囲を見回した。


 誰かに見られているかどうかを、確かめるように。


「なあ、セラ」


「はい」


「この街じゃ、喧嘩は起きねえのか?」


「起きますよ」


「へえ。どんなときに?」


「酒場での口論、商取引の揉め事、家族間の争い。人間が暮らしている以上、意見が食い違うことはあります」


「なら、さっきの城門みたいに衛兵が出てくるのか?」


「小さな争いなら、仲裁官が対応します。暴力に発展した場合は警備隊が介入します。輝石が関わる場合は、能力の使用を制限する措置が取られることもあります」


「能力の使用を制限?」


「白の輝石を使った拘束具があります。対象の輝石から力が流れ出る経路を塞ぎ、能力を発動しにくくするものです」


 ガルドは眉をひそめた。


「そんなもん、誰にでも使うのか?」


「危険性が認められた場合に限ります」


「危険性を決めるのは誰だ?」


「状況を確認した警備隊と、必要に応じて教団の審査官です」


「本人の意見は?」


 セラは、すぐには答えなかった。


 通りの向こうから、荷車が近づいてきた。


 荷車を引く男は、白い腕章を身につけている。車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、積み荷の木箱がかすかに揺れた。


 ガルドたちは道の端に寄った。


 荷車が通り過ぎる。


 そのとき、鐘が鳴った。


 澄んだ音が街を覆った。


 荷車の男は、即座に手を止めた。


 車輪が、ゆっくりと停止する。


 商店の扉が閉まる。


 歩いていた人々が、道の端へ移動する。


 子供が母親の手を握る。


 全員が、同じ方向を向いた。


 ガルドは動かなかった。


「……またかよ」


 セラは彼女の腕を掴まなかった。


 ただ、低い声で告げた。


「動かないでください」


「なんで?」


「今は、交通制御の鐘です」


「見りゃ分かる。だから、なんで動くなってんだ?」


「この時間帯は、主要道路の通行が切り替わります。移動中の人は指定区画で停止し、荷車は車輪を固定することになっています」


「なら、道を渡ればいいだろ」


「駄目です」


「なんで!」


「今、道路の下を搬送路が通っています」


 セラが足元を指した。


 ガルドは石畳を見下ろす。


 確かに、地面の奥から振動が伝わっていた。


 一定の周期で、重いものが移動している。


 彼女は舌打ちした。


「……最初からそう言え」


「説明する前に動かれると困るので」


「私は子供か!」


「子供のほうが、規則を守るのが上手な場合もあります」


「喧嘩売ってんのか?」


「まさか」


 セラは涼しい顔で答えた。


 そのやり取りの間にも、街は動きを止めていた。


 やがて、足元の振動が強くなる。


 石畳の一部が、音もなく横へずれた。


 地面が割れたわけではない。


 道の中央に、細長い溝が現れたのだ。


 溝の下には、白い金属で作られた搬送台が走っていた。


 荷物を載せた台が、途切れることなく流れていく。


 食料。


 建築資材。


 水を満たした容器。


 そして、白い箱。


 箱には、管理番号が記されていた。


 ガルドは、そのうちのひとつに目を留めた。


 文字が見えた。


 白冠管理番号。


 その後に続く数字は、搬送台が通り過ぎるのと同時に隠れてしまった。


「おい、今の箱……」


「見ないほうがいいです」


 セラが言った。


 ガルドは顔を向けた。


「なんでだよ」


「あなたが知りたいことと、今知るべきことは、必ずしも同じではありません」


「その言い方、嫌いだな」


「私も、好きではありません」


 セラの声は、ひどく静かだった。


 搬送台が通り過ぎる。


 石畳が元の位置に戻った。


 鐘が二度鳴る。


 人々が一斉に動き出した。


 荷車が進み、店の扉が開き、子供が母親に引かれて歩き始める。


 何事もなかったかのように。


 ガルドは、自分の手を握った。


 拳の中で、爪が掌に食い込む。


「この街、気持ち悪いな」


「そう思いますか」


「人間が、自分で動いてる感じがしねえ」


 セラは前を向いたまま歩き出した。


「それでも、この街を救われたと思っている人は大勢います」


「……何から?」


「飢餓。石獣。輝獣の暴走。能力の暴発。領主同士の戦争。色の違いを理由にした迫害。そういったものからです」


 ガルドは黙った。


 セラは続けた。


「光冠都市が成立する前、この土地には小さな集落が点在していました。水を奪い合い、鉱脈を奪い合い、互いの輝石を恐れ、相手が強ければ先に攻撃した。能力が強い者は支配者になり、弱い者は従うしかなかった」


「……」


「白冠教団は、各地の蓄積地を管理し、能力の使用を登録制にしました。危険な能力の暴発を防ぎ、食料や水の配給を整え、警備隊を組織した。都市の外で失われていた命の多くが、ここでは救われるようになりました」


「だから、みんな規則に従うのか」


「少なくとも、従う理由はあります」


 ガルドは、周囲の人々を見た。


 老人が、商店の前で孫らしき子供にパンを渡している。


 店員は穏やかに笑い、子供は嬉しそうにパンを抱えた。


 少し離れたところでは、荷車の男が仲間と冗談を言い合っていた。


 そこには、確かな幸せがあった。


 作り物ではない。


 少なくとも、ガルドにはそう見えた。


「……なら、別に悪い街じゃねえんじゃないのか」


 セラは、彼女の横顔を見た。


「そうですね」


「なのに、なんでお前はそんな顔してんだ?」


「どんな顔ですか?」


「この街の話をするとき、いつも、誰かの葬式にでも出てるみたいな顔だ」


 セラの足が止まった。


 通りの人々は、二人を避けて歩いていく。


 誰も足を止めない。


 誰も、彼女たちの会話を気に留めない。


 それなのに、セラはすぐに答えられなかった。


 やがて彼女は、胸元の銀色の徽章に触れた。


「……昔、私は、この街を守ることが正しいと信じていました」


「今は?」


「今は、正しさというものが、ひとつの形に固定できるとは思っていません」


「難しいこと言うな」


「簡単に言えることではないんです」


 セラは歩き始めた。


「こちらです。検査施設までは、あと少しです」


 ガルドは、その背中を追った。


 鐘が鳴る。


 人々が動く。


 白い街は、今日も平穏だった。


 そして、その平穏の中で、誰かが少しずつ何かを諦めていた。


 それが何なのか。


 ガルドは、まだ知らなかった。


4 元・白の衛兵

 検査施設の入口には、三人の衛兵が立っていた。


 門は白い金属でできており、両脇に埋め込まれた輝石が淡く光っている。


 門の上には、細い文字が刻まれていた。


 安全は、理解から生まれる。


 ガルドは文字を見上げ、鼻で笑った。


「理解してから安全にするんじゃなくて、安全にするために理解させるんだろ」


「鋭いですね」


 セラが言った。


「褒めてんのか?」


「ええ」


「気に入らねえ褒め方だ」


 衛兵のひとりが、セラに敬礼した。


「セラ様。ご用件を伺います」


「検査中の無色の男性について、追加確認に来ました。報告では、防壁の同期信号に異常があったとのことですが」


「はい。現在、記録官リヒトが対応しています」


「本人の状態は?」


「身体的な異常は確認されていません。ただし、検査装置の一部が停止しました」


「装置が?」


「はい。対象の輝石が発した振動によって、測定用の白石が共鳴を起こしたようです」


 ガルドの顔つきが変わった。


「シンが壊したのか?」


「破損ではありません。装置が安全機構を作動させ、停止しました」


「なら、なんで連絡が来る?」


「……通常の無色輝石では、起こり得ない反応だからです」


 セラは衛兵を見つめた。


「誰が、その報告を上げたのですか?」


「検査官です」


「検査官の名前は?」


「記録には、ヴァイス監察官の指示が付されています」


 セラの表情が変わった。


 ガルドは見逃さなかった。


「知ってる奴か?」


「ええ」


「どんな奴だ?」


「……この街で、決して敵に回したくない人です」


「そいつはもう敵だ」


 ガルドは、門の前へ進んだ。


「シンを出せ」


「お待ちください。検査中の対象者は――」


「出せっつってんだよ」


「あなたの行動は、都市の安全を脅かすものと判断される可能性があります」


「判断してみろ」


 赤い熱が、ガルドの肩から腕へと走った。


 衛兵たちが槍を構える。


 セラが、二人の間に割って入った。


「ガルドさん。ここで暴れても、シンさんには会えません」


「なら、どうすりゃいい!」


「私に任せてください」


「お前に任せて、シンが危険な目に遭ったらどうする!」


「そのときは、私が責任を取ります」


 ガルドは、セラを睨みつけた。


「責任って何だよ」


「……」


「お前が殴られるのか? 牢屋に入るのか? 死ぬのか? 責任を取るって言葉で、何が変わるんだよ!」


 セラは、答えなかった。


 その言葉が、彼女自身に向けられたものでもあると分かっていたからだ。


 過去に何度も、彼女は同じ言葉を聞いた。


 責任は取る。


 必要な犠牲だ。


 全体の安全のためだ。


 誰かが傷つくのは仕方がない。


 そのたびに、彼女は規則に従った。


 規則が正しいと信じていた。


 規則に従うことで救われる命があると知っていたからだ。


 けれど、ある日。


 規則に従った結果、救えなかった人がいた。


 その人は、何も間違っていなかった。


 ただ、登録されていなかった。


 ただ、力の性質が分からなかった。


 ただ、検査の順番が回ってくる前に、命が尽きた。


 セラは、あのときの光景を忘れられない。


 だからこそ、今は簡単に「規則だから」と言えなかった。


「……ガルドさん」


 セラは静かに言った。


「あなたがシンさんを大切に思っていることは、分かりました」


「だったら――」


「だから、私に時間をください」


 セラは、衛兵たちに向き直った。


「私は元・白冠警備隊所属のセラです。現在は監察補助の権限を持っています。検査対象者の状態確認を申請します」


 衛兵のひとりが、彼女の徽章を見た。


「……その徽章は、すでに返納されたものでは?」


「いいえ。返納手続きは保留中です」


「ですが、あなたは――」


「規定第八条。検査対象者の身体的異常、または施設の安全機構作動が確認された場合、関係者は対象者の状態を確認する権利を持ちます。第八条の適用条件は満たされています」


 セラは、一歩も引かなかった。


「通してください」


 衛兵たちは顔を見合わせた。


 やがて、ひとりが扉の脇にある装置へ手を伸ばした。


 白い光が走る。


 門が、音もなく開いた。


 セラはガルドに目を向けた。


「行きましょう」


 ガルドは頷いた。


 そして、すれ違いざまに小さく呟いた。


「……お前、昔はこういうのを止める側だったんだな」


 セラは足を止めなかった。


「ええ」


「なら、なんで辞めた?」


 数歩の沈黙。


 やがてセラは答えた。


「守るべき人を、間違えたからです」


 それ以上は、何も言わなかった。


 ガルドも、追及しなかった。


 二人は白い門をくぐった。


 その瞬間、ガルドの赤い輝石が、再び熱を帯びた。


 今度は、さっきよりも強く。


 彼女は思わず胸元を押さえた。


 熱は、外から押しつけられるような感覚だった。


 自分の中にあるはずの力が、自分以外の何かに呼びかけられている。


 それが気に入らなかった。


 何より、気持ち悪かった。


 ガルドは歯を食いしばる。


「……勝手に、応えるな」


 赤い輝石は、ゆっくりと熱を失った。


 だが、完全には冷えなかった。


 白い建物の奥で、何かが彼女の存在を認識したような感覚が残っていた。


5 規則の例外

 検査施設の内部は、外の街よりも静かだった。


 廊下には人影が少なく、壁には部屋番号と用途が表示されている。一定の間隔で設置された白い灯りは、影ができないよう計算されているらしい。


 床は柔らかく、足音が響かない。


 それでもシンには、施設の中で何が動いているのか、ある程度は分かった。


 壁の奥を流れる力。


 床下の搬送路。


 扉の向こうで作動する装置。


 そして、遠くから響く鐘の余韻。


 すべてが、同じ拍子に合わせられていた。


 この施設には、音楽が流れているわけではない。


 だが、あらゆる設備が同じリズムで動いている。


 まるで巨大な楽器の内部にいるようだった。


 シンは廊下を歩きながら、隣にいるリヒトを見た。


「さっきの検査、何が起きたんだ?」


「測定装置が、あなたの輝石の反応を処理しきれませんでした」


「それは分かった。どうして?」


「あなたの輝石が発した振動は、単純な音波ではありませんでした。測定用の白石が持つ共鳴周波数に干渉し、装置が安全停止したのです」


「白石の共鳴周波数?」


「白の輝石は、特定の振動を拒絶し、外部からの干渉を遮断する性質があります。測定装置は、その性質を利用して対象者の輝石から出る力を分類する仕組みです」


「つまり、俺の力が白の力にぶつかった?」


「そう考えられます」


「俺、白の輝石なんて持ってないぞ」


「だから、問題なのです」


 リヒトは足を止めた。


 廊下の先には、二重の扉があった。


 その片方には、赤い文字で「関係者以外立入禁止」と表示されている。


「無色の輝石は、既存の分類に当てはまらないことがあります。能力の種類も、発現条件も、個人差が大きい。あなたのように、周囲の輝石に直接干渉する例は、極めて稀です」


「稀ってことは、他にもいるんだな」


「……記録上は」


「会ったことは?」


「ありません」


「じゃあ、誰が記録したんだ?」


 リヒトは、答えなかった。


 シンは小さく息を吐いた。


「この街、質問に答えないのが流行ってるのか?」


「申し訳ありません」


「謝らなくていい。答えられないなら、そう言ってくれればいいんだ」


 リヒトは、少し驚いたように目を瞬かせた。


「……あなたは、怒らないのですか?」


「怒ってるよ」


「そうは見えません」


「怒ってるからって、ずっと怒鳴ってたら疲れるだろ」


 シンは肩をすくめた。


「それに、あんたが決めた規則じゃないんだろ?」


 リヒトは黙った。


 その沈黙は、先ほどのものとは少し違っていた。


 驚きに近い。


 あるいは、戸惑いに。


「……私は、記録官です。決められた手順に従い、正確に記録することが仕事です」


「それは分かってる」


「ならば、私が答えられないことがあるのも、ご理解いただけるかと」


「分かってるよ。でも、答えられないことと、答えなくていいことは違うだろ」


 リヒトは、しばらくシンを見つめた。


 やがて、視線を扉へ戻した。


「……こちらです」


 二重扉の向こうは、記録室だった。


 壁一面に、薄い板状の記録媒体が並んでいる。白い光を受けて、表面には文字が浮かんでは消えていた。


 部屋の中央には大きな机があり、その上に何冊もの帳簿が置かれている。


 机の向こうに、ひとりの男が立っていた。


 白い制服。


 整えられた髪。


 胸元には、白冠教団の監察官を示す徽章。


 ヴァイスだった。


「ご苦労、リヒト」


「ヴァイス監察官。対象者を連れてまいりました」


「ありがとう。下がっていい」


 リヒトは一礼し、部屋を出ようとした。


 その背中に、シンが声をかける。


「リヒト」


「はい」


「スープ、ごちそうさま。うまかった」


 リヒトは振り返った。


 一瞬だけ、口元が緩んだ。


「……それは、何よりです」


 扉が閉まる。


 記録室に、二人だけが残された。


 ヴァイスは机の上の帳簿を閉じた。


「初めまして、と言うべきかな。新城真君」


「シンでいい」


「そうか。では、シン君」


 ヴァイスは微笑んだ。


 穏やかで、知的で、相手を不安にさせない笑みだった。


 だが、シンは、その笑みを信用しなかった。


 この男は、自分の名前を知っている。


 検査結果も知っている。


 そして、こちらが何を尋ねるかも、ある程度予測している。


 そういう人間の笑顔だった。


「君の検査結果について、説明しよう」


「その前に、ひとつ聞いていいか?」


「もちろん」


「俺のことを、いつから知ってた?」


 ヴァイスの笑みが、わずかに深まった。


「興味深い質問だね」


「質問に答えてくれ」


「……君がこの街へ向かっているという情報を受け取ったのは、つい先ほどだ。だが、君の存在そのものについては、以前から記録がある」


「どこで?」


「古い記録だよ」


「どれくらい古い?」


「今の教団が成立するより前のものも含まれている」


 シンは黙った。


 胸の奥で、何かが冷たくなる。


 第一章で見つけた記録。


 白冠管理番号、零号。


 あのとき、彼は、それが何を意味するのか分からなかった。


 今も分からない。


 ただ、その番号が、単なる偶然ではないことだけは分かる。


「俺は、何なんだ?」


 ヴァイスは、すぐには答えなかった。


 代わりに、机の上に一枚の記録板を置いた。


 白い光が浮かび上がる。


 そこには、シンの検査結果が記されていた。


 輝石属性――無色。


 共鳴傾向――不定。


 干渉対象――白系統蓄積地。


 危険度――判定保留。


 そして、一番下に。


 白冠管理番号――零号。


 シンは、その文字を見つめた。


「これは、何だ」


「君の管理番号だ」


「いつ、誰が付けた?」


「記録上は、君が生まれるよりも前に登録されている」


 シンの呼吸が止まった。


「……何だって?」


「正確に言えば、君の名前が登録されたわけではない。零号という分類が存在し、その分類に該当する人物が現れた場合、記録を照合するよう定められている」


「じゃあ、俺は、その分類に該当したってことか」


「そうなる」


「零号ってのは、何の番号だ?」


 ヴァイスは、記録板を伏せた。


「それを説明するには、まず白冠教団の歴史を知ってもらう必要がある」


「話を逸らすな」


「逸らしているつもりはないよ。君が知りたいことを理解するには、順序が必要なんだ」


「その順序を決めるのは、あんたか?」


 ヴァイスは、少しだけ目を細めた。


「……なるほど。君は、なかなか手強い」


「手強いも何も、俺は自分のことを知りたいだけだ」


「その気持ちは理解できる」


「なら、教えてくれ」


 ヴァイスは、椅子を引いた。


「座りたまえ。長い話になる」


 シンは座らなかった。


「ここでいい」


「警戒されているのかな」


「当然だろ」


 ヴァイスは、声を立てずに笑った。


「正直でいい。私も、君を無理に信用させるつもりはない」


 彼は、窓のない壁へ目を向けた。


「光冠都市は、白冠教団が管理する都市のひとつだ。白冠教団の目的は、輝石の力を管理し、人々が安全に暮らせる環境を維持することにある」


「それは、さっきも聞いた」


「そうだね。だが、管理という言葉には、いくつかの意味がある」


 ヴァイスは、指を一本立てた。


「第一に、能力の登録。誰がどのような輝石を持ち、どの程度の力を扱えるのかを把握する」


 二本目。


「第二に、蓄積地の保護。輝石の力は無限ではない。蓄積地が損傷すれば、個人の能力だけでなく、周囲の環境にも影響が出る」


 三本目。


「第三に、危険な共鳴の防止。複数の輝石が干渉し合うことで、予測できない現象が起こることがある」


「……それで、俺を検査してるのか」


「それも理由のひとつだ」


「他にもあるんだな」


「ある」


 ヴァイスは、シンを見た。


「君の輝石は、白の蓄積地に干渉した」


「俺が、何かしたわけじゃない」


「分かっている」


「なら――」


「シン君。君に悪意がないことと、君が危険ではないことは、同じではない」


 静かな声だった。


 反論しにくい言葉だった。


 シンは、唇を噛んだ。


 ヴァイスは続ける。


「火を扱う者が、悪意なく家を焼くことはある。水を操る者が、善意で洪水を起こすこともある。輝石の力は、本人の人格だけでは制御できない場合があるんだ」


「……」


「だからこそ、私たちは調べる。危険を理解し、対策を講じ、事故を防ぐ。君を閉じ込めたいわけではない。君自身と、君の周囲にいる人々を守るためだ」


 シンは、ヴァイスの顔を見つめた。


 言葉は正しい。


 少なくとも、間違いではない。


 自分の力が何を引き起こすのか分からない以上、慎重になる必要はある。


 第一章で、彼はそれを学んだ。


 力を得ることと、力を理解することは違う。


 自分の力が何をできるのか分からないまま使えば、誰かを傷つけるかもしれない。


 だから、調べることそのものを拒むつもりはなかった。


 だが。


「……調べることと、勝手に決めることは違う」


 シンは言った。


「俺の力が危険かどうかを調べるのはいい。必要なら、協力する。でも、俺が何をするかまで、あんたたちが決めるのは違うだろ」


 ヴァイスは、目を伏せた。


「その通りだ」


 予想外の返答だった。


 シンは、思わず眉を寄せた。


「……は?」


「君の言う通りだよ。調査は必要だが、調査する側が対象者の人生まで決めていい理由にはならない」


 ヴァイスは、静かに微笑んだ。


「だからこそ、私たちは慎重でなければならない」


 その言葉には、嘘がないように聞こえた。


 だからこそ、シンは警戒を解けなかった。


 この男は、分かっている。


 分かったうえで、何かを選んでいる。


 何を?


 その答えが見えない。


「じゃあ、俺は帰れるのか?」


 ヴァイスは沈黙した。


「……今すぐには難しい」


「どうして?」


「君の検査結果は、すでに上層部へ送られている。君の輝石が白の蓄積地に干渉したという事実は、都市の防壁にも関わる問題だ。正式な判断が下るまでは、君の身柄を施設内で保護する必要がある」


「保護、ね」


「君を危険な目に遭わせないためだ」


「俺の意思は?」


「聞いている」


「聞くだけか?」


 ヴァイスは答えなかった。


 シンは、ようやく椅子を引いた。


 座るつもりになったわけではない。


 机の向こうにある記録板を、もう一度見たかったのだ。


「その番号。零号ってやつ」


「ああ」


「俺以外にも、該当する奴がいるのか?」


 ヴァイスの表情が、初めて明確に変わった。


 笑みが消えた。


 目が、冷たくなる。


 ほんの一瞬。


 だが、シンはその変化を見た。


「……どうして、そう思う?」


「番号があるからだ。俺だけを指すなら、名前を登録すればいい。わざわざ分類を作って、該当者が現れるのを待つ必要はない」


 ヴァイスは、何も言わなかった。


「俺以外にも、零号がいるのか?」


「……今は、答えられない」


「答えられないのか。答えたくないのか」


「その違いが、君にとって重要かな?」


「重要だよ」


 シンは、まっすぐにヴァイスを見た。


「答えられないなら、いつか答えられるようになるかもしれない。でも、答えたくないなら、あんたは俺に何かを隠してる」


 ヴァイスは、ゆっくりと息を吐いた。


「君は、思った以上に鋭いね」


「そういう話はいい」


「……分かった」


 ヴァイスは、記録板を引き出しへしまった。


「ひとつだけ約束しよう。君の検査結果を、私の判断だけで危険人物として処理することはしない」


「それは約束じゃない。最低限の話だ」


「そうかもしれない」


「ガルドにも会わせろ」


「君の同行者か」


「そうだ」


「彼女も、検査を受ける必要がある」


「……何?」


「城門で、白の同期信号に対する反応が確認された。赤の輝石が、定時鐘に呼応していたらしい」


 シンは立ち上がった。


「ガルドに何をする気だ?」


「何もしない。彼女の意思を確認し、必要なら簡単な検査をするだけだ」


「さっきから、あんたたちは『だけ』が多いな」


 シンの声が低くなった。


「俺の検査だけ。ガルドの検査だけ。保護するだけ。安全を確認するだけ。ひとつひとつは小さく見える。でも、全部合わせたら、俺たちは何も決められなくなる」


 ヴァイスは、シンを見つめた。


「……君は、この街を嫌いになりそうだね」


「もうなりかけてる」


「それでも、君はここにいる」


「ガルドがいるからな」


 ヴァイスは、微かに目を細めた。


「そうか」


 彼は机の上の呼び鈴を押した。


 ほどなく、扉が開く。


 リヒトが顔を出した。


「お呼びでしょうか」


「シン君を同行者の待機室へ案内してくれ。二人の面会を認める。ただし、施設の外へ出ることは許可できない」


「承知しました」


 シンは立ち上がった。


 扉へ向かう前に、ヴァイスを振り返る。


「ヴァイス」


「何かな?」


「俺は、あんたの言うことを全部信じるつもりはない」


「それでいい」


「でも、あんたが何を考えてるのか、ちゃんと知りたい」


 ヴァイスは、穏やかに笑った。


「その機会は、いずれ来るだろう」


 シンは、その答えを気に入らなかった。


 だが、今はそれ以上追及しなかった。


 リヒトに続いて、部屋を出る。


 扉が閉じる直前、シンは一度だけ振り返った。


 ヴァイスは、ひとりで立っていた。


 机の引き出しに手を置き、何かを考えているようだった。


 そして、その指先は。


 引き出しの奥にしまった記録板ではなく、胸元の徽章を強く握りしめていた。


6 白い鐘の正体

 面会室は、検査施設の一階にあった。


 窓はなく、椅子が四脚、机がひとつ。


 扉の横には、呼び鈴がある。


 そして、壁の上部には、小さな白い石が埋め込まれていた。


 シンは部屋に入るなり、その石を見た。


「……あれは?」


 案内してきたリヒトが答えた。


「防音と、会話の記録を兼ねた装置です」


「会話を記録するのか?」


「必要に応じて、です」


「誰が必要だと判断する?」


 リヒトは、苦笑した。


「あなたは本当に、質問が多いですね」


「ここに来てから、答えの分からないことばっかりだからな」


「それは……そうですね」


 リヒトは扉を閉めた。


「同行者の方は、まもなく来ます。私は外で待機していますので、何かあれば呼び鈴を押してください」


「ありがとう」


 リヒトが出ていく。


 シンは椅子に座らず、壁の白石へ近づいた。


 耳を澄ます。


 微かな振動。


 音を拾う装置でありながら、同時に、音を遮断する装置でもある。


 内部で振動が反射し、外へ漏れないように調整されている。


 だが、完全ではない。


 どんな装置にも、癖がある。


 完全な無音を作るには、音のない空間を作るのではなく、音を生み出す振動をすべて打ち消さなければならない。


 この白石は、外部の音を遮断するために、別の振動を発生させている。


 その振動が、壁の奥へ伝わっていた。


「……こいつも、鐘と同じだ」


 シンは呟いた。


 鐘の音が、街の人々を止める。


 白い石が、音を外へ漏らさない。


 どちらも、振動を使って何かを制御している。


 ただし、鐘は人々の行動を制御し、白石は情報の流れを制御している。


 同じ力が、違う形で使われている。


 シンは、指先を白石に近づけた。


 触れる直前で、止める。


 リヒトは、設備に触れないようにと言った。


 その理由は分かる。


 今ここで余計なことをすれば、ガルドと合流する前に、また面倒な検査が増えるかもしれない。


 シンは、手を下ろした。


 代わりに、耳を澄ませた。


 白石の振動。


 壁の奥の振動。


 床下を流れる振動。


 それぞれは違う。


 だが、よく聞けば、すべてに共通するものがあった。


 一定の周期。


 白い石が振動を発するたび、床下の力が応える。


 床下の力が動くたび、壁の振動が変わる。


 壁の振動が変わると、白石の反応も変化する。


 互いに連動している。


 街の設備は、単独で動いているわけではない。


 ひとつの大きな仕組みとして、互いを監視し、互いを補い、互いを調整しているのだ。


 そして、その中心にあるのは――。


 シンの背筋を、冷たいものが走った。


 都市の防壁。


 あの白い城壁の内側に、巨大な共鳴装置が存在している。


 街の設備は、すべてそこへ繋がっている。


 定時鐘も。


 検査施設も。


 通行管理の装置も。


 そして、おそらく、登録されている輝石の一部も。


「……人間まで、設備の一部にしてるのか?」


 呟いた直後、扉が開いた。


「誰が設備の一部だって?」


 ガルドが入ってきた。


 彼女はシンを見るなり、肩を掴んだ。


「おい、大丈夫か? 怪我は? 何かされたか? 変なものを飲まされたりしてねえだろうな?」


「大丈夫だよ」


「本当か?」


「本当」


「……本当に?」


「ガルド」


「何だ」


「心配してくれて、ありがとう」


 ガルドの動きが止まった。


 シンは微笑んだ。


「でも、腕が痛い」


「……あ」


 ガルドは慌てて手を離した。


「わ、悪い」


「いや、いいよ」


「いや、よくねえだろ……」


 ガルドは視線を逸らした。


 耳が少し赤くなっている。


 シンは、それ以上からかわなかった。


 ガルドが椅子に座る。


 セラも続いて入ってきた。


「二人とも、無事で何よりです」


「お前も来たのか」


「ええ。検査施設の中で、確認したいことがありますから」


「何を?」


「それは、あなたたちの話を聞いてからです」


 セラは椅子に腰掛けた。


「シンさん。先ほどの検査で、何が起きたのか教えてください」


 シンは、ヴァイスとの会話を含めて、これまでの経緯を説明した。


 零号という管理番号。


 白の蓄積地への干渉。


 検査装置の停止。


 そして、ヴァイスが、自分の存在を以前から記録していたという話。


 話を聞き終えたセラは、しばらく黙っていた。


「……零号」


 その言葉を、確かめるように呟く。


「知ってるのか?」


「いいえ。ただ、聞いたことがあります」


「どこで?」


「白冠教団の内部資料です。警備隊に所属していた頃、閲覧制限のある記録の一部を見たことがあります」


「そこに、零号が?」


「番号そのものではありません。ただ、無色の輝石に関する記録がありました」


 セラは、言葉を選びながら話した。


「白冠教団は、無色の輝石を通常の属性とは異なるものとして扱っています。白、黒、赤、青、緑、黄、紫、橙。そういった色の輝石は、能力の傾向をある程度分類できます。もちろん、個人差はありますが」


「無色は分類できない?」


「分類できないというより、分類しても、その枠から外れることがあるんです。音を操る者もいれば、他の輝石に干渉する者もいる。記録には、空間の距離や時間の感覚に異常をもたらした事例もありました」


 シンは、思わず息を呑んだ。


「時間……?」


「ただし、その記録が正確なのか、私には分かりません」


 セラは首を振った。


「資料の多くは古く、実験の条件も、対象者の詳細も欠けています。何より、無色の輝石に関する記録は、一定の時期を境に大幅に削除されているんです」


「誰が削除した?」


「分かりません」


「ヴァイスは?」


「彼は、そうした資料を管理する立場にいます」


 ガルドが机を叩いた。


「つまり、そいつが全部知ってるってことじゃねえか!」


「知っていることと、すべてを知っていることは違います」


 セラは静かに言った。


「ヴァイス監察官は、教団の中でも影響力のある人物です。ですが、教団そのものを自由に動かせるわけではありません。彼の上には、さらに決定権を持つ人々がいます」


「じゃあ、そいつらを呼べ」


「呼べば出てくる相手ではありません」


「なら、殴り込む」


「それをすれば、シンさんまで危険になります」


「……っ」


 ガルドは言い返そうとして、口を閉じた。


 シンが、彼女の肩に手を置いたからだ。


「ありがとう、ガルド。でも、セラの言うことも分かる」


「シン!」


「今は、情報が足りない。ここで暴れても、何も分からないまま追い出されるだけかもしれない」


「じゃあ、どうするんだよ」


「調べる」


 シンは、壁の白石を見た。


「この街が、何をしているのか」


 セラも、彼の視線を追った。


 そして、ほんの少しだけ顔を強張らせた。


「……そこまで分かったのですか」


「何が?」


「この部屋の装置です」


「会話を記録してるだけじゃない。外の音を遮断するための振動が、壁の奥の装置に繋がってる。床下の振動も、壁の振動も、同じ周期で動いているんだ」


 シンは、自分の胸元に触れた。


「この街は、あらゆるものを同じリズムに合わせている」


 ガルドが眉を寄せた。


「どういうことだ?」


「鐘が鳴ると、人が止まる。鐘が止まると、人が動く。道の下を荷物が通るときは、みんなが道を空ける。検査施設の装置も、城壁も、全部が連動してる」


「それが、何か問題なのか?」


「連動しているだけなら、問題じゃない。でも……」


 シンは言葉を切った。


 頭の中で、音の繋がりを整理する。


 壁の奥の振動。


 床下の振動。


 鐘の音。


 検査装置が停止した瞬間に生じた、あの異常な共鳴。


 すべてを繋げると、ひとつの可能性が浮かび上がる。


「この街は、人間の輝石も、装置の一部として使っているのかもしれない」


 ガルドが顔をしかめた。


「……何だと?」


「確証はない。でも、城門でお前の輝石が鐘に反応したんだろ?」


「そうだ」


「俺の輝石も、検査装置に反応した。もし、街の中にいる人間の輝石が、何らかの形で防壁と同期しているなら……」


 シンは、そこで言葉を止めた。


 考えたくない可能性だった。


 街を守るために、人々の輝石を登録する。


 登録した輝石の性質を把握する。


 その情報を使って、危険な共鳴を防ぐ。


 ここまでは、合理的だ。


 だが、もしも。


 登録した輝石を、本人の意思とは関係なく、防壁の維持に利用しているとしたら。


 もしも、鐘の音が人々の行動だけではなく、輝石の力にも作用しているとしたら。


 この街の平穏は、人々が規則を守っているから成り立っているのではない。


 人々の輝石そのものが、規則に従うよう調整されているのかもしれない。


「……そんなの、あり得るのか?」


 ガルドが呟いた。


「分からない」


 シンは正直に答えた。


「でも、確かめたい」


 セラは、長い沈黙のあと、口を開いた。


「もし、それが本当なら」


 彼女の声は、わずかに震えていた。


「この街の人々は、守られていると同時に、利用されていることになります」


「そうだな」


「それを確かめるには、管理区域の記録を見る必要があります」


「行けるのか?」


「通常の権限では難しいです」


 ガルドが立ち上がった。


「じゃあ、入れる奴を探す」


「そう簡単にはいきません」


「簡単じゃなくてもやる」


 ガルドは、シンを見た。


「お前をここに置いていくつもりはねえからな」


 シンは、微笑んだ。


「ありがとう」


「礼はいい。さっさと出る方法を考えろ」


「そうだな」


 そのとき。


 壁の白石が、強く光った。


 部屋の空気が震える。


 シンの輝石が反応した。


 ガルドの赤い輝石も、熱を帯びる。


 セラが椅子から立ち上がった。


「何が起きているんです?」


 シンは、目を閉じた。


 聞こえる。


 壁の奥で、何かが動いている。


 今までとは違う。


 規則正しい振動が、一斉に乱れていた。


 街の設備が、同時に何かを検知したようだった。


 そして、その中心から。


 シンの無色の輝石へ向かって、白い力が流れ込んでくる。


「――っ!」


 シンは胸元を押さえた。


 痛みではない。


 誰かに呼ばれているような感覚だった。


 白い壁の奥。


 都市の中心。


 巨大な共鳴装置のさらに向こう。


 そこに、何かがある。


 何かが、シンの存在を知っている。


 そして、その何かが、彼に向かって問いかけていた。


 ――おまえは、何を残す。


 シンの視界が、一瞬だけ白く染まった。


 次の瞬間、壁の白石が元の光を取り戻した。


 振動が収まる。


 部屋は、何事もなかったかのように静まり返った。


 シンは、荒い息を吐いた。


「……今のは?」


 ガルドが駆け寄る。


「おい、シン!」


「大丈夫……」


「どこがだ!」


「本当に、大丈夫だ」


 シンは胸元を押さえたまま、壁を見つめた。


 今の声は、幻聴だったのか。


 それとも。


 第一章で聞いた、あの声と同じものだったのか。


 ――色を見よ。違いを知れ。


 あの言葉の続きが、まだどこかにあるのだろうか。


 シンは、拳を握った。


 この街には、何かがある。


 自分の知らない過去。


 白冠教団が隠している記録。


 そして、無色の輝石に関係する、何かが。


 それを知るまでは、ここを出るわけにはいかない。


 だが、ここに留まれば留まるほど、自分たちはこの街の仕組みに組み込まれていく。


 その矛盾を、シンはまだ解決できなかった。


 ただひとつ、分かったことがある。


 この街の壁は、外から来る敵を拒んでいるだけではない。


 内側にいる人々が、壁の外へ何を持ち出すのかも、見張っているのだ。


7 自由に歩ける檻

 その日の夕方、シンたちは検査施設の一室をあてがわれた。


 正確には、あてがわれたというより、そこから出る許可が下りなかった。


 部屋は二人部屋だった。


 寝台が二つ。机がひとつ。洗面台と、小さな棚。食事は定刻に運ばれ、廊下には衛兵が立っている。


 窓はあった。


 ただし、窓の外には、白い壁が見えた。


 壁の向こうに何があるのかは分からない。


 空は見える。


 夕焼けも見える。


 けれど、街の外へ続く道は見えなかった。


「……なあ、シン」


 寝台に腰掛けたガルドが言った。


「何?」


「これ、牢屋だよな?」


「たぶん」


「だよなあ!」


 ガルドは枕を掴み、壁に投げつけた。


 枕は、ぽすん、と情けない音を立てて床へ落ちた。


「くそっ。殴っても壊れねえし、蹴っても意味ねえし、窓から出ようにも壁しかねえ!」


「窓から出るつもりだったのか?」


「他に何があるんだよ!」


「扉から出るとか」


「その扉が開かねえんだろうが!」


 シンは苦笑した。


 ガルドの怒りはもっともだった。


 彼女は、旅の途中で何度も危険な目に遭ってきた。


 石獣に襲われたこともある。


 悪徳商人に荷物を奪われかけたこともある。


 食料が尽き、雨の中で一晩を明かしたこともある。


 だが、そんなときでさえ、自分の足で逃げることはできた。


 危険があるなら、危険のある場所から離れればいい。


 敵がいるなら、戦うか、逃げるかを選べばいい。


 それなのに、ここでは、その選択肢そのものが与えられていない。


 戦う理由がない。


 逃げることも許されない。


 ただ、待てと言われている。


 いつまで?


 何のために?


 誰が決めるのか?


 何も分からないまま。


「……シン」


「うん?」


「お前、腹立たねえのか?」


「腹は立ってるよ」


「そうは見えねえ」


「ガルドがさっき言ったこと、覚えてる?」


「何だよ」


「ここで暴れたら、俺を助けに行けなくなるって」


 ガルドは、口を閉じた。


「……覚えてるよ」


「俺も、同じなんだ。ここで怒鳴っても、壁を壊そうとしても、たぶん何も解決しない」


「だから、黙って従うのか?」


「違う」


 シンは首を振った。


「従うのと、待つのは違う。俺は、何も考えずに従うつもりはない。でも、今はまだ、何をすればいいのかを決めるための情報が足りないんだ」


「……」


「だから、調べる。ここが何をしている場所なのか。あの鐘が何をしているのか。俺の輝石が、どうしてあの装置に反応したのか」


「調べて、それからどうする?」


「決める」


 シンは、窓の外を見た。


「ここに残るのか。出ていくのか。それとも、この街で何かをするのか」


 ガルドは、しばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「……お前、そういうところは頑固だよな」


「そうかな」


「そうだよ。自分で決めるって言ったら、何があっても曲げねえ」


「ガルドも、そうだろ」


「私はいいんだよ」


「どうして?」


「私が頑固なのは、昔からだからだ」


「俺だって、昔から頑固だったかもしれない」


「お前の昔なんか知らねえよ」


 二人は、少しだけ笑った。


 その笑い声は、白い部屋の中で小さく響いた。


 そして、すぐに消えた。


 壁の白石が、微かに光ったからだ。


 シンは、笑みを引っ込めた。


「……今の、聞こえた?」


「何が?」


「俺たちの声が消えた瞬間、壁の音が変わった」


 ガルドは眉を寄せた。


「また、それか」


「うん」


 シンは壁へ近づいた。


 指先で触れる。


 今度は、すぐに離した。


 この壁は、単に音を遮断しているだけではない。


 音が生まれ、伝わり、消えるまでの過程を、細かく観測している。


 少なくとも、シンにはそう感じられた。


 会話の内容までは分からない。


 だが、声の大きさ、振動の種類、輝石が反応したときの変化。


 そういったものを記録している可能性はある。


「……俺たちが何を話しているのか、調べてるのかもしれない」


 ガルドは、壁を睨んだ。


「だったら、ぶっ壊してやる」


「待って」


「何だよ!」


「今は駄目だ」


 シンは、ガルドの腕を掴んだ。


「壊せるかどうかも分からない。それに、壊したら、あいつらが何をするか分からない」


「……」


「俺たちが何を知っているのか、どこまで気づいているのか。向こうはそれを確かめようとしているかもしれない」


 ガルドは、ゆっくりと拳を下ろした。


「……本当に、気に入らねえ街だ」


「同感」


 シンは、壁から離れた。


 そして、机の上に置かれた夕食を見た。


 温かいスープ。


 焼きたてのパン。


 煮込まれた野菜。


 昼食と同じく、食事はきちんと用意されている。


 水もある。


 寝台もある。


 身体を休めることができる。


 ここにいる限り、石獣に襲われる心配はない。


 食料が尽きることもない。


 雨に濡れることもない。


 それなのに、息苦しい。


 危険がないことと、自由であることは違う。


 守られていることと、支配されていないことも違う。


 そして、同じ場所にいることと、同じ意思を持つことも違う。


 シンは、食事を前にして、しばらく考え込んだ。


「……なあ、ガルド」


「何だ?」


「もし、この街が本当に人々を守っているんだとしたら、俺たちはどうすればいいと思う?」


 ガルドは、すぐには答えなかった。


 彼女は、窓の外を見た。


 白い壁。


 整然と並ぶ建物。


 遠くに見える塔。


 夕焼けに照らされて、街は美しかった。


「……守ってるんなら、守られてる奴らに聞けばいいだろ」


「え?」


「この街に住んでる奴らが、どう思ってるか。ここが好きなのか、嫌いなのか。規則があって助かってるのか、規則があるせいで苦しんでるのか」


 ガルドは、シンを見た。


「外から来た私たちが、勝手に決めることじゃねえ」


 シンは、目を見開いた。


 その言葉は、思いがけないほど、彼の胸に響いた。


 第一章で、彼は何度も考えた。


 力とは何か。


 色とは何か。


 自分は何を選ぶべきなのか。


 だが、今の問いは、少し違う。


 この街は正しいのか。


 この街は間違っているのか。


 それを決めるのは、誰なのか。


 外から来た自分たちが、すべてを知っているわけではない。


 規則によって救われた人がいる。


 規則によって傷ついた人もいる。


 どちらか一方だけを見て、街全体を判断することはできない。


「……そうだな」


 シンは頷いた。


「まずは、話を聞こう」


「誰に?」


「この街に住んでいる人たちに」


 ガルドは、少しだけ笑った。


「それなら、悪くねえ」


 そのとき。


 廊下から足音が聞こえた。


 二人は顔を上げた。


 足音は、部屋の前で止まった。


 扉が開く。


 立っていたのは、セラだった。


「お二人とも、食事は済みましたか?」


「まだだ」


 ガルドが答えた。


「そうですか。では、食べながら聞いてください」


 セラは部屋へ入り、扉を閉めた。


 そして、声を落とした。


「あなたたちに、ひとつ提案があります」


 シンは椅子を引いた。


「提案?」


「ええ。明日、都市の一般公開区画を案内します」


 ガルドが眉を寄せた。


「……それ、自由に歩けるってことか?」


「指定された範囲内であれば」


「やっぱり檻じゃねえか」


「そうですね」


 セラは否定しなかった。


「ですが、外から眺めているだけでは分からないこともあります。この街で暮らす人々の話を聞きたいのなら、実際に歩いてみるのが一番です」


 シンは、セラの顔を見た。


「どうして、そんなことを?」


「私にも、確かめたいことがあるからです」


「何を?」


「この街が、今も人々を守っているのか。それとも、守るという名目で、人々を縛りつけているのか」


 セラは、胸元の銀色の徽章に触れた。


「私は、この街を守る側にいました。規則を信じ、命令に従い、それが正しいことだと思っていました。けれど、今は分かりません」


 彼女はシンを見た。


「あなたの輝石は、この街の仕組みに反応しました。あなたは、普通の検査官には見えないものを感じ取れるかもしれません」


「俺を利用するつもりか?」


「その可能性はあります」


 セラは、正直に答えた。


「私自身、まだ何も分かっていません。あなたに何かをお願いすることが、正しいことなのかも分からない。それでも、私は確かめたいんです」


 ガルドは、腕を組んだ。


「……随分と正直だな」


「隠しても、あなたたちには見抜かれそうですから」


「よく分かってるじゃねえか」


 シンは考え込んだ。


 セラの言葉は、信用できるのか。


 彼女は元・白冠警備隊の人間だ。


 この街の規則を知っている。


 検査施設に入る権限もある。


 それなのに、今は、その仕組みを疑っている。


 彼女自身もまた、この街の中で何かを失った人なのだろう。


 だが、だからといって、彼女が正しいとは限らない。


 善意で動く人間が、必ず正しい結果を生むわけではない。


 シンは、そのことを忘れないようにしていた。


「分かった」


 彼は言った。


「案内してほしい」


「シン!」


 ガルドが振り向く。


「大丈夫だよ。セラを信じるって決めたわけじゃない。ただ、話を聞いてみたいんだ」


 シンはセラに目を向けた。


「ただし、ひとつ条件がある」


「何でしょう?」


「俺たちに、見せたくないものがあるなら、そう言ってくれ。嘘をついて、何もないふりをするのはやめてほしい」


 セラは、しばらくシンを見つめた。


 そして、静かに頷いた。


「約束します」


「それと、ガルドにも同じことをしてもらう」


「は?」


 ガルドが目を剥いた。


「私にも?」


「うん。何かあったら、すぐに殴るんじゃなくて、まずは話を聞く」


「……」


「できる?」


 ガルドは、露骨に嫌そうな顔をした。


 セラは、少しだけ笑った。


「難しいお願いですね」


「うるせえ!」


 ガルドは椅子に座り直した。


「……分かったよ。話を聞けばいいんだろ」


「ありがとう」


「ただし、話が通じなかったら殴る」


「それは、できるだけ最後の手段にしてください」


「考えとく」


 シンは笑った。


 セラも、少しだけ笑った。


 その瞬間。


 壁の白石が、また微かに光った。


 シンは、すぐに笑うのをやめた。


 セラも気づいたらしい。


 彼女は、白石を見つめた。


「……記録装置が、反応していますね」


「俺たちの会話に?」


「その可能性はあります」


「なら、聞かせてやればいい」


 シンは、壁に向かって言った。


「俺たちは、明日、この街を歩く。街の人たちと話す。ここがどんな場所なのか、自分たちの目で確かめる」


 白石は、何も答えなかった。


「それから、俺たちがどうするかを決める。あんたたちが決めるんじゃない。俺たちが決めるんだ」


 シンは、壁から目を逸らした。


「……それだけだ」


 白石の光が、ゆっくりと弱まった。


 セラは、複雑な表情を浮かべていた。


「あなたは、本当に……」


「何?」


「いえ。何でもありません」


 セラは立ち上がった。


「明日の朝、迎えに来ます。鐘が三度鳴ったら、準備をしておいてください」


「また鐘かよ」


 ガルドが顔をしかめた。


「ええ。また鐘です」


 セラは扉へ向かった。


 そして、出ていく直前、振り返った。


「シンさん。ひとつだけ、覚えておいてください」


「何?」


「この街では、規則を守っている人が、必ずしも規則を信じているとは限りません」


 セラは、それだけ言って出ていった。


 扉が閉まる。


 シンとガルドは、しばらく黙っていた。


 やがてガルドが、机の上のパンを手に取った。


「……食うか」


「うん」


「明日は忙しくなりそうだしな」


「そうだな」


 二人は、温かい食事を口に運んだ。


 窓の外では、光冠都市の灯りがひとつずつ点いていく。


 家々の窓に、白い光がともる。


 街路灯が点灯する。


 塔の上にある巨大な鐘が、夜の始まりを告げた。


 一度。


 二度。


 三度。


 人々は、家へ帰る。


 店を閉める。


 扉に鍵をかける。


 子供を寝かしつける。


 明日もまた、鐘が鳴れば目を覚まし、決められた時刻に働き、決められた場所で食事をし、決められた時間に眠る。


 その生活の中には、確かな幸福がある。


 守られているという安心がある。


 失いたくない日常がある。


 だからこそ、誰もが規則に従う。


 従わなければ、失うかもしれないから。


 シンは、窓の外の白い灯りを見つめた。


 この街は、人々を守っている。


 それは、きっと本当だ。


 そして同時に、人々を縛っている。


 それも、きっと本当なのだ。


 では、どうすればいいのか。


 守ることと、縛ること。


 安全と、自由。


 秩序と、選択。


 その境界は、どこにあるのだろう。


 シンには、まだ分からなかった。


 ただ、明日になれば、少しだけ何かが見えるかもしれない。


 彼は、胸元の無色の輝石に触れた。


 静かだった。


 何も聞こえない。


 それでも、彼には分かる。


 白い壁の向こうで、何かが待っている。


 そして、何かが、自分を見ている。


 それが味方なのか、敵なのか。


 あるいは、そのどちらでもないものなのか。


 まだ、分からない。


 だからこそ、シンは眠ることにした。


 明日、自分の目で確かめるために。

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