23.暴走する緑
石渡りの町を離れてから、三日目の朝。
真とガルドは、南へ続く街道を歩いていた。
街道といっても、かつては石畳だったらしい道に草が伸び、ところどころ土がむき出しになっている。左右には背の高い針葉樹が並び、木々の隙間から差し込む朝日が、湿った地面に細長い影を落としていた。
真は歩きながら、左手の指先で小さな石を転がしていた。
石渡りで拾った、灰色がかった透明な石だ。
角度を変えると、内部にかすかな光が走る。赤にも、青にも、緑にも見える。しかし、どれかひとつの色に定まることはなかった。
「……またそれか」
前を歩くガルドが、振り返らずに言った。
「気になるんだよ」
「ただの石だろ」
「じゃあ、なんでこんなふうに光るんだ?」
「石に聞け」
「聞けたら苦労しないよ」
「お前なら聞けるんじゃないか?」
ガルドがニヤリと笑った。
真は返事をせず、石を握りしめた。
彼女の冗談は、時々冗談に聞こえない。
真には音が聞こえる。
木々のざわめき。土の下を流れる水。遠くで羽ばたく鳥の翼。自分の胸の奥で、無色の輝石が刻む、ごく小さな脈動。
そして最近は、それらとは違う音も聞こえ始めていた。
何かが力を使うときに生じる、目に見えない振動。
白い壁が生まれるときの硬い音。
ガルドの身体を炎が駆け巡るときの、乾いた破裂音。
それらは同じ力ではない。けれど、どれも世界の一部がわずかに歪む音だった。
「……待って」
真が足を止めた。
ガルドも即座に立ち止まる。
「何だ」
「聞こえる」
「何が?」
「人の声。それと……石が割れる音」
二人は街道を外れ、木々の間へ入った。
少し進むと、斜面の下に小さな集落が見えた。木造の家が十数軒ほど集まっただけの、地図にも載らないような場所だ。家々の周囲には畑が広がっていたが、その一角がひどく荒れている。
畑の柵は砕け、作物は根こそぎ倒されていた。
村人たちが遠巻きに集まり、その中心にいる何かを恐ろしげに見つめている。
緑色の光が、そこにあった。
いや、光ではない。
緑色の蔓が、ひとりの男の腕から肩へ、首筋へと這い上がっていた。
男は地面に膝をつき、両手で頭を抱えている。背中から伸びた植物の根が地面に食い込み、周囲の草木を無理やり引き寄せていた。
引き寄せられた草は枯れ、木の枝は乾き、畑の土は灰色に変わっていく。
その一方で、男の身体からは次々と新しい蔓が伸びていた。
「近づくな!」
村人のひとりが叫んだ。
「そいつはもう人間じゃない!」
「違う!」
別の男が、震える声で反論する。
「まだ助けられる! あれはうちの息子だ!」
膝をつく男の周囲で、緑の輝きが脈打った。
次の瞬間、地面が盛り上がる。
木の根が地中から飛び出し、村人たちへ襲いかかった。
「伏せろ!」
ガルドが駆け出した。
赤い光が彼女の脚を包む。踏み込んだ地面が砕け、彼女の身体が弾丸のように飛び出した。
迫る根を拳で叩き折り、村人たちの前に立ちはだかる。
だが、折れた根は地面に落ちる前に枝分かれし、無数の細い蔓となって彼女の脚へ絡みついた。
「チッ!」
ガルドが炎を強める。
蔓が焼け、黒い煙を上げた。
しかし、焼けた根の隙間から、さらに新しい根が生えてくる。
「キリがねえな……!」
「待って!」
真は、彼女の背中に向かって叫んだ。
「そいつ、村人を狙ってるんじゃない!」
「この状況で何を言ってやがる!」
「音が違うんだ!」
真は男を見つめた。
蔓が伸びるたびに、男の身体から何かが引き抜かれている。
力を生み出す音ではない。
むしろ、何かを削り取る音だった。
植物が育つ音。土から水が吸い上げられる音。根が枝分かれする音。
それらのすべてに混じって、男の輝石が悲鳴を上げていた。
真には、それが聞こえた。
「……あの人、自分の力を止められないんだ」
男の胸元には、緑色の輝石が埋め込まれていた。
その表面には、細い亀裂が幾筋も走っている。
輝石は本来、力を蓄える器だ。
しかし、今の男は器から力を取り出し続けている。限界を超えても、止めることができない。
力が溢れているのではない。
止まるための仕組みが、壊れかけているのだ。
「ガルド! 燃やさないで!」
「はあ!?」
「蔓を燃やしても、根が増える! それに、あの人まで焼いちゃう!」
「だったらどうしろってんだ!」
真は答えられなかった。
自分にもわからない。
これまでの彼の力は、壊すことに向いていた。
鉱喰いの身体を震わせ、その内部を破壊した。
白い障壁の振動を乱し、壁に穴を開けた。
力の構造を聞き、弱点を探す。それが真にできることだった。
だが、今、目の前にいる男を救うには、壊すだけでは足りない。
輝石の亀裂を広げずに、力だけを止めなければならない。
「……どうすればいいんだ」
真の指先が震えた。
そのとき、村人の中からひとりの老人が進み出た。
「頼む……!」
老人は真たちの前に膝をついた。
「息子を、助けてくれ……! あいつは悪いことなんかしていない。ただ、村の畑を守ろうとして……」
言葉が途切れ、老人の喉から嗚咽が漏れた。
「今年は雨が少なかった。作物が育たなくて……あいつは、自分の輝石で畑に水を巡らせようとしたんだ。最初はうまくいった。枯れた苗が蘇って、村のみんなも喜んで……」
老人は、地面に額をつけた。
「だが、三日目から止まらなくなった。水を吸い上げ、草を伸ばし、土を枯らして……。もう、あいつの声も届かない」
真は、男を見た。
蔓の奥で、男の唇がかすかに動いている。
声は聞こえない。
しかし、真の耳には、途切れ途切れの振動が届いていた。
――とめて。
――だれか。
――もう、いやだ。
真は拳を握った。
「……わかった」
ガルドが目を向ける。
「おい。何をするつもりだ」
「わからない」
「は?」
「でも、やってみる」
「無策で突っ込む気か?」
「うん」
「バカか、お前は!」
「たぶん!」
真は走り出した。
飛び出してきた根が足元を薙ぐ。
真は跳び越えようとして、着地に失敗した。地面を転がり、肩を強く打つ。
「いってぇ……!」
「だから言っただろうが!」
「あとで聞く!」
立ち上がった真の前に、太い蔓が迫る。
避けきれない。
真は両手を掲げた。
輝石が、胸の奥で震えた。
――聞け。
いつか、あの地下施設で聞いた声が脳裏をよぎる。
色を見よ。
違いを知れ。
力の美しさと、残酷さを知れ。
そして、選べ。
真は目を閉じた。
蔓の音を聞く。
地面の音を聞く。
男の胸にある輝石の音を聞く。
緑の力は、命を育てる力だ。
しかし、今の男の力は、命を育てるために周囲の命を奪い続けている。
流れが乱れている。
水路の一部が詰まり、行き場を失った水が堤防を壊すように。
ならば、壊すのではなく――。
「……流れを、戻せばいいのか?」
真は、自分の胸に手を当てた。
無色の輝石が震える。
いつものように、振動を強めるのではない。
音を打ち消すのでもない。
男の輝石が刻む不規則な脈動に、自分の振動を重ねていく。
ひとつ。
ふたつ。
ずれた音を、少しずつ合わせる。
最初は何も起こらなかった。
蔓は真の腕に絡みつき、皮膚を締め上げる。鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
それでも、真は振動を合わせ続けた。
男の輝石が、激しく震えた。
真の胸にも痛みが走る。
無色の輝石と緑の輝石。
本来なら交わらないはずの二つの力が、一瞬だけ、同じ拍子を刻んだ。
――トン。
――トン。
――トン。
乱れていた音が、ゆっくりと揃っていく。
男の身体から伸びていた蔓が、動きを止めた。
地面を覆っていた根が、ぴたりと静まる。
風が吹いた。
それまで不自然にざわめいていた草木が、ようやく本来の風に揺れた。
「……止まった?」
誰かが呟いた。
男の背中から伸びていた根が、一本、また一本と地面から抜けていく。
枯れていた畑の一角に、かすかな緑が戻った。
だが、その瞬間。
真の無色の輝石に、鋭い亀裂音が響いた。
――ピシッ。
「っ……!」
真は胸を押さえ、膝をついた。
男の力を整えた代償なのか、身体の内側がひどく冷たい。耳鳴りが止まらず、視界が揺れる。
ガルドが駆け寄ってきた。
「おい! 真!」
「だい、じょうぶ……」
「その台詞を吐く奴は、大抵大丈夫じゃねえんだよ!」
ガルドは真の襟首を掴み、無理やり立たせた。
その間に、村人たちが男へ駆け寄った。
「おい! しっかりしろ!」
「目を開けてくれ!」
男はかすかに目を開けた。
緑色だった瞳は、元の色を取り戻している。
「……父さん?」
老人が、泣きながら息子を抱きしめた。
「馬鹿野郎……! 馬鹿野郎……!」
その声には、怒りも安堵も、言葉にできないほどの愛情も混じっていた。
真は、その光景をぼんやりと見つめていた。
助かった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
ガルドが肩を貸してくれなければ、地面に倒れていたところだ。
「……お前」
彼女が低い声で言った。
「今、何をした?」
「わからない」
「本当に?」
「うん。壊さないように……音を合わせただけ」
ガルドは黙った。
いつもの皮肉も、怒鳴り声もない。
彼女は真の胸元を見つめていた。
そこには服の下に隠れた無色の輝石がある。
「お前の力は、相手を壊すだけじゃないんだな」
「……そう、みたいだ」
「厄介だな」
「どうして?」
「壊すだけなら、敵を倒せば終わる。だが、救える力を持った奴は、救えなかったときまで背負うことになる」
ガルドは、男と老人の姿を見た。
「それでも、お前はやるんだろう?」
真は答えるまでに、少し時間がかかった。
「……うん」
「なら、せめて死なない程度にやれ。お前が死んだら、せっかく救った奴が悲しむ」
「ガルドも?」
「私はお前がいなくなったら、荷物持ちを探し直さなきゃならねえ」
「そこは素直に心配してよ……」
「心配してるから言ってんだろうが」
彼女は顔を背けた。
その耳が、ほんの少し赤くなっていたことに、真は気づかなかった。
*
その日の昼、真たちは集落に招かれた。
村人たちは二人に食事を振る舞い、旅のための水と乾燥した果物を持たせてくれた。老人は何度も頭を下げ、息子はまだ身体を起こせないながらも、真の手を強く握った。
「ありがとう。君が来てくれなかったら、俺は……」
「もういいよ。助かったんだから」
真はそう言ったが、男は首を横に振った。
「いや。俺は覚えておく。自分の力が誰かを傷つけることもあるって」
真は、その言葉を胸に刻んだ。
力は、持っているだけでは善にも悪にもならない。
使い方によって、人を救いもすれば傷つけもする。
だが、使い方を間違えた者を、力だけを理由に切り捨ててしまえば――その人がやり直す機会まで奪うことになる。
白冠教団は、色を持たない真を危険な対象と呼んだ。
ならば、あの男も危険な存在だったのだろうか。
力を暴走させたというだけで、彼は人間ではなくなるのだろうか。
真には、そうは思えなかった。
食事を終えたあと、真は集落の外れにある小さな水路を訪れた。
水は細く、底には枯れ葉が溜まっていた。
真はしゃがみ込み、水面に指先を近づける。
何も起こらない。
もちろん、水を操ることなどできない。
彼の輝石は無色だ。
緑の力を持っているわけではない。
それでも、さっきの感覚を思い出す。
乱れた音を、少しずつ揃える。
無理に押さえ込むのではなく、流れを本来の形へ戻す。
「……もう一回、できるかな」
「何をだ?」
背後から声がした。
振り返ると、ガルドが腕を組んで立っていた。
「さっきのこと。あの人の力を止めたときの感覚を、忘れないうちに試したいんだ」
「やめとけ」
「え?」
「さっき輝石に亀裂が入っただろう。身体も震えてる。今は休め」
「でも……」
「でもじゃねえ」
ガルドは水路の縁に腰を下ろした。
「お前、自分の力を知りたいんだろう?」
「うん」
「なら、自分の限界も知らなきゃならない。力の使い方を覚えるのと、力に自分を食わせるのは別だ」
真は黙って、自分の手を見た。
彼女の言うことは正しい。
さっきは、男を救うことだけに夢中だった。もし途中で自分の輝石が砕けていたら、どうなっていたのか。
答えを想像するのは、怖かった。
「……ねえ、ガルド」
「何だ」
「君は、どうしてそんなに自分の力を使うことに慣れてるの?」
ガルドの表情がわずかに変わった。
彼女の赤い輝石は、胸元ではなく、左肩の近くに埋め込まれている。そこから伸びる細い赤い筋は、皮膚の下を血管のように走っていた。
「慣れたくて慣れたわけじゃねえよ」
「……ごめん」
「謝るな。聞きたきゃ、そのうち話す」
ガルドは立ち上がった。
「今は歩け。日が暮れる前に、次の宿場へ着きたい」
真も立ち上がる。
集落を出る前、彼は一度だけ振り返った。
荒れていた畑の一角では、村人たちが倒れた柵を直していた。まだ枯れた土は多く、失われた作物がすぐに戻るわけでもない。
それでも、人々は手を動かしていた。
何もかもが元どおりになったわけではない。
けれど、失敗した者がもう一度歩き出すことはできる。
真は、そのことを忘れないようにした。
*
同じ頃。
白冠教団の北方監視施設では、一枚の報告書が上層部へ送られていた。
白い石壁に囲まれた部屋。
天井から吊るされた照明には、色のない光が灯っている。
机の上には、真の顔を描いた粗末な肖像画が置かれていた。
その隣に、一枚の記録紙がある。
対象:零号
確認事項:無色輝石による他色干渉。共鳴構造の改変を確認。
追加事項:緑色輝石の暴走を鎮静化した可能性あり。
報告書を読んでいた男は、白い手袋を外した。
年齢は四十代ほど。髪には白いものが混じり、表情には深い疲労が刻まれている。
彼の名は、ヴァイス。
石渡りの地下施設で真たちを追った、あの調査官だった。
「鎮静化、か……」
彼は報告書の一節を指でなぞった。
破壊ではない。
吸収でもない。
異なる色の輝石が生み出す力の流れを読み取り、その構造に干渉した。
そんなことが可能ならば、無色の輝石は、これまで教団が想定していたものとは根本的に違う。
「上層部は何と?」
部屋の隅に控えていた兵士が答えた。
「対象の生存を最優先し、捕獲するよう命令が下りました。抵抗した場合も、輝石そのものを破壊することは禁止されています」
「……当然だな」
ヴァイスは窓の外を見た。
遠くには、白い塔がそびえている。
白冠教団の中枢。
その頂には、世界各地に設置された白い障壁を統括する装置が眠っていた。
「対象は、まだ自分の価値を理解していない」
ヴァイスは肖像画を裏返した。
「だからこそ、誰かに利用される前に確保しなければならない」
「教団のため、ですか?」
兵士が尋ねた。
ヴァイスはすぐには答えなかった。
やがて、低い声で告げる。
「……世界のためだ」
その言葉が本心なのか、彼自身にもわからなかった。
ただひとつ、確かなことがある。
白冠教団は、真をただの少年として扱うつもりはなかった。
彼の力が何を意味するのか。
それを知っている者たちは、長いあいだ沈黙してきた。
そして今、その沈黙を破る存在が現れたのだ。
無色の少年。
零号。
世界の色を変えるかもしれない、異端の輝石使い。
*
夕暮れ。
真とガルドは、森を抜けた先にある宿場町へ向かっていた。
空は橙色に染まり、雲の縁が赤く燃えている。
真は歩きながら、自分の胸元にそっと触れた。
まだ痛みは残っている。
けれど、先ほどまで聞こえていた不規則な音は、今は静かだった。
彼は初めて、自分の力で何かを壊さずに済んだ。
その事実が、嬉しかった。
同時に、恐ろしくもあった。
もし自分が、もっと強くなったら。
もし、あらゆる色の力に干渉できるようになったら。
どこまでが救いで、どこからが破壊になるのだろう。
その境界線を、誰が決めるのだろう。
「おい、真」
ガルドの声に、彼は顔を上げた。
「何?」
「宿に着いたら、飯を食って寝ろ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「もっと修行しろとか、力の使い方を考えろとか、そういう話じゃないの?」
「腹が減ってるときに考えたって、ろくな答えは出ねえよ」
ガルドは、夕焼けの中で笑った。
「生きてりゃ、考える時間くらいはある」
真は少しだけ目を見開いた。
生きていれば。
その言葉は、当たり前のようでいて、今の彼には不思議なほど重く聞こえた。
彼はこれまで、色がないことを理由に、自分の未来を諦めかけていた。
けれど、世界には色を持つ人間がいて、力に苦しむ人間がいて、誰かを救おうとして間違える人間がいる。
そして、色を持たない自分にも、できることがある。
ならば、歩いてみよう。
自分が何者なのかを知るために。
色とは何なのかを知るために。
いつか、自分が何を選ぶのかを知るために。
真は、夕焼けの空を見上げた。
橙色の光は、少しずつ薄れていく。
夜が来れば、世界は暗くなる。
それでも、色が消えるわけではない。
今の彼は、まだ知らなかった。
いつの日か、自分自身の手で、世界から色を奪うことになるなど。
そして、その選択の果てに、色を失った世界で誰かが自分の色を選ぶ可能性を残そうとするなど。
ただ今は、隣を歩く少女の足音を聞きながら、前へ進んでいた。
無色の輝石が、胸の奥で静かに震えている。
まるで、まだ見ぬ未来の音を、遠くから聞き取ろうとするように。




