11 逃げるという選択
翌朝。
真は、家の中で荷物をまとめていた。
といっても、荷物は多くない。
替えの服が二着。
水筒。
乾いたパン。
小さなナイフ。
それから、古い記録庫で書き写した、無色の輝石に関する数行の記述。
それらを布袋へ入れ、口を縛る。
真は、しばらく袋を見つめていた。
昨夜、ほとんど眠れなかった。
ヴァイスの言葉が、頭から離れなかったからだ。
自分のため。
村のため。
危険な力を管理するため。
どれも、もっともらしい言葉だった。
もしかすると、本当に自分を助けようとしているのかもしれない。
教団の施設へ行けば、力の正体がわかるかもしれない。
訓練を受ければ、もっと上手に使えるようになるかもしれない。
それでも、真には、どうしても受け入れられないものがあった。
自分の意思を聞く前から、すでに話が進んでいること。
自分が何を考え、何を望み、どんな人間でありたいのか。
それらは、誰も尋ねてくれなかった。
鉱喰いを倒したときもそうだった。
人々は、真が何をしたのかを知りたがった。
自分たちには理解できない力を、どう扱えばいいのかを考えた。
しかし、真自身が何を感じたのか。
何を怖がり、何を考え、なぜ少年を助けようとしたのか。
そのことを尋ねた人間は、ほとんどいなかった。
真は、袋を肩にかけた。
窓の外を見る。
灰鐘村は、いつもどおりの朝を迎えていた。
パン屋からは、焼きたての匂いが漂っている。
通りでは、子供たちが走り回っている。
鉱山へ向かう人々が、道を歩いている。
ここは、自分が生まれ育った場所だ。
嫌なことばかりだったわけではない。
幼い頃、母に手を引かれて山へ登ったことがある。
雪の日には、近所の子供たちと雪玉を投げ合った。
初めて一人で鉱石を運べた日は、父が頭を撫でてくれた。
その記憶まで、嫌いになったわけではない。
だからこそ、苦しかった。
ここにいれば、いつまでも自分は「無色の真」として扱われる。
教団へ行けば、今度は「無色の輝石を持つ特殊な対象」として扱われる。
どちらにしても、誰かが自分の名前より先に、別の呼び名を与える。
それが嫌だった。
自分は、まだ何者でもない。
だからこそ、何者になるかを、自分で決めたい。
真は玄関へ向かった。
扉に手をかける。
そのとき、外から声が聞こえた。
「新城真君。いらっしゃいますか?」
ヴァイスだった。
真は、手を止めた。
「教団の者です。お話ししたいことがあります」
昨日と同じ、穏やかな声。
だが、今日は違った。
声の後ろに、複数の足音がある。
真は、窓の隙間から外を見た。
ヴァイスの後ろには、白い鎧を着た騎士が四人いた。
そのうち二人は、家の左右へ回り込もうとしている。
真の背中に、冷たい汗が流れた。
――正式な保護命令。
昨夜、ヴァイスが口にしていた言葉が、頭の中に蘇る。
「真君?」
扉の向こうから、再び声がした。
「いらっしゃることは、わかっています。どうか、落ち着いてお話を」
真は、目を閉じた。
話をするだけなら、昨日もできた。
自分の意思を伝える機会は、あった。
しかし、彼らは戻ってきた。
今度は、騎士を連れて。
真は、ゆっくりと息を吸った。
そして、裏口へ向かった。
家の裏には、小さな物置がある。
そこを抜ければ、隣家との間に細い路地があり、その先は村の外れへ続く。
子供の頃、よく隠れんぼをした場所だった。
真は物置の扉を開け、外へ出た。
冷たい朝の風が吹く。
そのまま路地へ走り込もうとしたとき。
「真?」
声がした。
隣家の軒先に、年配の女性が立っていた。
村で一人暮らしをしている、鉱石磨きの職人だった。
真は、足を止めた。
「……おはようございます」
「こんな朝早くに、どこへ行くんだい?」
真は答えられなかった。
女性は、真の肩にかかった袋を見た。
それから、表通りのほうへ目を向けた。
白い外套が、家の前に立っている。
女性は、何かを察したようだった。
「……そうかい」
それ以上、問い詰めなかった。
ただ、物置のそばに置いてあった木箱を少しずらし、路地の奥を指さした。
「そっちの道は、朝露で滑るから気をつけな」
真は、目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「礼なんかいらないよ」
女性は、顔を背けた。
「ただし、行くなら、ちゃんと生きて帰っておいで」
その言葉に、真の喉が詰まった。
生きて帰っておいで。
誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。
真は深く頭を下げた。
そして、路地の奥へ走り出した。
背後で、ヴァイスの声が響いた。
「対象がいません!」
「村の出口を封鎖しろ!」
「裏手を確認しろ!」
白い騎士たちの足音が、村の中を駆け巡る。
真は走った。
息が苦しい。
身体は、まだ完全には回復していない。
それでも、止まらなかった。
村外れの道へ出る。
山へ続く細い道。
その先には、鉱山とは反対側の森が広がっている。
森を抜ければ、隣の集落へ向かう街道に出られるはずだった。
真は、振り返らなかった。
自分が何をしているのか、正しいのかどうかもわからない。
逃げたところで、問題が解決するわけではない。
教団から追われることになるかもしれない。
食べ物も、金も、十分にはない。
それでも。
今は、自分の意思で歩き出したかった。
真は、森の入口で一度だけ足を止めた。
灰鐘村が、木々の向こうに見える。
幼い頃から見慣れた、灰色の屋根。
鉱山の煙。
広場の鐘楼。
そして、その向こうにそびえる山々。
「……行ってきます」
誰に向けた言葉だったのか。
自分にも、よくわからなかった。
真は、森へ足を踏み入れた。
木々の枝が頭上を覆い、朝日が細い光となって地面へ落ちている。
鳥の声。
葉の擦れる音。
土を踏む、自分の足音。
真は、そのすべてを聞いていた。
音が、身体の内側へ入ってくる。
しかし、今は恐ろしくなかった。
それらは、世界がそこにあるという証拠だった。
自分が、まだ生きているという証拠だった。
真は、胸元の輝石に触れた。
「……何色にもなれないなら」
小さく呟く。
「何色なのか、自分で確かめてやる」
その言葉は、誰にも届かなかった。
けれど、真は初めて、自分の意思で未来を選んだ。
まだ、ほんの小さな一歩にすぎない。
それでも、その一歩が、少年の人生を大きく変えていくことになる。
そして、森の奥。
木々の間に、赤い光が瞬いた。
まるで、真の行く先を待っていたかのように。
その光の主は、まだ姿を見せない。
ただ、風に混じって、微かな焦げた匂いが流れてきた。
真は足を止めた。
「……何だ?」
森の奥で、何かが燃えている。
そして、その近くから、複数の男たちの怒鳴り声が聞こえた。
「逃がすな!」
「そいつは教団の保護対象だ!」
「抵抗するなら、力ずくで連れていけ!」
真は、息を呑んだ。
白冠教団の騎士たち。
そして、彼らと対峙する、もう一つの気配。
次の瞬間。
森の奥から、赤い炎が空へ噴き上がった。
その炎は、朝の光よりも激しく、燃えるような赤だった。
真は、思わず目を細めた。
炎の向こうで、女の声が響いた。
「――弱い者を守るってんなら、まず自分たちのやり方を見直しな!」
その声は、怒りに満ちていた。
けれど、不思議と、真には恐ろしく聞こえなかった。
むしろ。
自分の中にあった何かを、強く揺さぶる声だった。
真は、炎のほうへ走り出した。
その先に待つ出会いが、自分の人生をどこへ導くのか。
まだ、知る由もないまま。




