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 貸し馬車の窓から外を眺めていたウィリアムの目に、ふと珍しい光景が映った。

 王都とは反対方向へ歩む若い夫婦。背には荷物を括りつけ、前には手押し車。その中にはまだ首もすわらぬ双子の赤子が、毛布に包まれて眠っていた。


 「ほら見てごらん。兵隊さんのお馬さんだよ~」


 母親が赤子に語りかける。しゃべることもできない幼子に向かって、にこやかに言葉を重ねるその姿を、父親は柔らかい眼差しで見守っていた。


 ウィリアムは鼻を鳴らす。

 ――まったく、平民とは愚かだ。方向すら間違えて歩いている。

 少しは王族として導いてやるのも慈悲というものか。


 馬車の窓から身を乗り出し、声をかける。


 「おい。王都は逆だぞ」


 夫婦は立ち止まり、軽く頭を下げた。

 しかし、相手を王族とは思っていないらしく、素朴な口調で答える。


 「ええ、王都から出てきたところでして」


 その一言で、ウィリアムの眉が跳ね上がる。

 あろうことか、自分が“どこにでもいる貴族風情”と同じと見られた。王家の血を引く自分にとって、これ以上の侮辱はなかった。


 続けざまに夫婦は言う。


 「治安も悪くなってきましたし、物価も高くて暮らしづらい。兵隊さんたちも噂していましたよ。シュトラールのところに行けば食べるには困らないって。それで、あっちに向かってるんです」


 ――シュトラール。


 その名が耳に入った瞬間、全身を灼くような怒気が駆け巡る。

 背筋に冷たいものが走り、拳が膝にめり込むほどに強張った。


 ティルフォード滞在中、何度も何度も繰り返し聞かされた言葉。

 「シュトラールとなら」

 「シュトラールであれば話は」

 「シュトラールに仲介してもらうのであれば」


 その響きを耳にするたび、必ず浮かんでくるのは、あの女の顔だった。


 ――自分はこの外交の被害者である。

 にもかかわらず、私の正当な要求は無視され、王子である私自身が恥をかかされた。視線はどれも嘲笑と侮りに満ちていた。

 まるで私が加害者であるかのように。


 ティルフォード港国ごときが、我が国からの支援要請を断るなどあってはならぬ。

 しかも今、この場では自国の平民ごときに侮られている。


 全ての原因は、ただ一つ。

 シュトラール。




 クラウディア=フォン=シュトラール




 屈辱は胸を焼き尽くし、もはや堪える余地もなかった。


 「……殺せ……」


 吐き捨てるような声に、夫婦はきょとんと首を傾げるばかりだった。


 血管が浮き出るほど拳を握りしめたまま、ウィリアムは馬車から怒声を放った。


 「兵ども! この二人を殺せ!」


 突如の命令に、兵たちは目を見開く。

 一人が思わず声を上げた。


 「い、いやしかし……王子! しかし彼らは罪など、なにも――」


 ウィリアムの眼光が突き刺さる。


 「平民ごときが我を目にして、膝をつかぬ時点で罪なのだ。殺せ」


 その言葉に、夫婦は初めて「王子」という呼び名を耳にし、青ざめて慌てて膝をついた。

 だが、もう遅い。


 「王子の命令が聞けぬと申すか! ならば反逆罪で、戻ったら家族もろとも死刑に処してやる!」


 その一言で兵の顔色は蒼白に変わり、体が硬直する。

 唇を噛みしめ、剣を抜く手が震えた。


 眼の前には、罪もなき夫婦が膝をつき、頭を垂れながら小刻みに震えている。

 抵抗する意思もなく、ただ生き延びたいと祈るかのように地面を見つめていた。


 (……許せ。許してくれ。俺にも家族が……)


 兵の喉がごくりと鳴る。

 握った柄から汗が滴り落ち、足元の土を濡らした。

 それでも背後から突き刺さる王子の眼光は、逃げ場を与えなかった。

 「何をしている。早くしろ。それとも――おまえと家族が身代わりになるか?」


 低い声が兵の耳を刺し、背筋を氷のように冷やす。

 心中で幾度も謝罪の言葉を繰り返しながら、兵は刃を振り下ろした。


 肉を断つ感触が腕を震わせる。

 崩れ落ちる音が土を打ち、辺りに沈黙が広がった。


 「ほら、あともう一人いるだろう」


 ウィリアムの声に、兵の喉がひくりと痙攣する。


 たった今夫を失った妻は、悲鳴すら上げられず、ただ震えながら顔を上げてこちらを見た。

 涙に濡れた目が、兵を真っ直ぐに射抜く。


 (……頼む、こっちを見るな……!)


 視線を合わせることはできない。

 兵は顔を逸らし、唇を血が滲むほどに噛みしめた。


 「平民ごとき、一人や二人に何の違いがある。殺せ」


 王子の冷酷な声が背中を押す。

 兵は振り下ろす先を直視することもできず、目を閉じたまま刃を振り下ろした。


 短い悲鳴と血飛沫が道端を染め、やがて静寂が落ちる。


 ウィリアムは冷たく鼻を鳴らし、馬車に戻ろうとした。

 窓から乗り出していた上半身を、何事もなかったかのようにすっと引き戻す。

 その時――


 「……おぎゃあ……おぎゃあ……」


 背後の手押し車から、赤子の泣き声が漏れた。


 王子は振り返りもせず、吐き捨てる。


 「くだらん平民の赤子程度、捨て置け。運が良ければ助かるだろう。……これは慈悲だ」


 馬車が動き出す。

 車輪の軋みとともに、泣き声は次第に遠ざかっていった。

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