6 稀人って何ですか?
ハロルド視点→ケント視点→ハロルド視点
「……稀人…………?」
そういえばあの日リックは何度か稀人がどうしたこうしたと言っていたが、あまり聞いたことのない言葉だし、詳しいことはハロルドもよく知らない。
「もしかして知らなかった? ごめん、余計なことを言ってしまったかな」
首を傾げるハロルドを見てケントが少し慌てた様子で謝ってきたが、ハロルドはなぜケントが謝ってくるのかその理由すらもさっぱりわからない。
「僕もそのことは気になっていたんですけど、リックに言われてもあまり意味がわからなくて…… 稀人って何ですか?」
その場にかなり長い沈黙が流れた。
「ケント様……?」
様子のおかしいケントに何度か声をかけ続けると、ようやく彼が重い口を開いた。
「…………ハル、すまない。俺はずるい人間だ。エマにはどうしても言えなかった。だから君が博士から何か聞いているんじゃないかと思って、君を自分に都合のいい仲間に引き込んで心の不安を吐露できる相手にするつもりで、不躾にも、男に襲われて傷付いているはずの君と二人きりになった。本当にすまない。
八歳の君にこんなことを話すべきではないんだ。君はまだ知らない。だが知らないままでいい。
稀人だなんて言葉は忘れてくれないか? 博士は警務隊にしきりに〇〇の可能性を話しているそうだが、警務隊員たちは博士のその話を話半分で聞いている。今のホワイト博士の話を真実だなんて真に受ける者は誰もいない。博士は頭がおかしくなってしまったんだと思われている。
ホワイト博士がいくら訴えても、誰も彼の言葉に重きを置かない。決まりきったこの世の理がひっくり返ることはない。
君とエマのことは俺が命に代えてでも必ず守るから、何も心配するな」
「ま、待ってくださいケント様!」
何かを決意した様子でそれだけを言って立ち去ろうとしたケントをハロルドは呼び止めた。
全てを背負って自己完結してしまっているような思い詰めた様子のケントをこのままにしてはおけないと思ったし、それに、話を信じてもらえないというリックのことがとても気になった。
誰も彼の話を聞かないのであれば、自分が聞こうと、そう思った。
しかしケントから稀人が何なのかを聞いたハロルドは、知らなければ良かったと後悔した。
******
ケントは恋人エマのために一時期本気で医者を目指そうとしていた。そのうちに医学に関連した学問にのめり込むようになり、高等科では医学ではなく生物学を専攻していた。
ケントはその分野の偉人であるエリック・ホワイトのことは今回の事件が起こるより以前から知っていた。エリックが書いた論文や著書などを幾つも読んでいた。
大切な婚約者の弟を誘拐して辱めようとした人物だが、元々彼自身に強く興味があったケントは、エリックに強い憤りを示していたエマには内緒で、彼に面会しに行った。
エリックはケントが生物学を専攻する学生だと知ると、警務隊に話していたことと同じ内容を嬉々として語り始めた。
同じく生物学の分野に足を突っ込んでいるケントからしても、エリックの話はあまりにも荒唐無稽で信じがたいものだった。エリック自身が、警務隊は話半分にしか聞いてくれないと言っていたが、確かにそうなってしまうのも仕方がないと頷けるほど突拍子もない話だった。
世界中のどこを探してもそんなことを提唱しているのはエリックだけだろう。
警務隊員たちのほとんどがエリックが唱える説を信じなかった。彼らはエリックが頭が狂ったのだろうと思っていた。年端もいかない少年を襲って欲望の丈をぶつけるような可哀想な異端者だと。国を追われて金も名誉も人望も家族も人生の希望も何もかもを失った哀れな男の成れの果てだと思っていた。
けれどケントはそうは思わなかった。
ハロルドの肌はモチモチしていてスベスベで気持ち良かった、などと鼻の下を伸ばしながら嬉しそうに語る様子はただの変態にしか見えないが、この人は本当はすごい人なんだ。
「……論文を見てくれ。世界の裏側に置いてきた。まだあそこにあるはずだ。君にあげるよ」
面会が終了する間際、警務隊員たちに起立を促されながらエリックがケントにそう言った。警務隊員たちはまた妙なことを言い出したと思ったようで気には留めていなかったが、ケントは留置場を出た足でそのままエリックの家に向かった。
立入禁止の規制線を潜り抜け、あの日ヒルダが破った窓から中に侵入する。
事件のあった客室を抜け、エリックの仕事部屋と思われる部屋に入る。棚には本や昆虫の標本、透明や朱色の液体が入ったガラス管や顕微鏡などが置かれていた。
壁には風景画や抽象画と、それから世界地図が額に入って飾られている。
机の上には書類がまとまりなく広がるように置かれていて、ケントはその書類を手に取り改めてみたが、たぶんエリックが言っていた論文ではなさそうだった。
ケントは世界地図が入っていた額を壁から外した。裏側の留め具を外して中を開けると、表からは世界地図に隠れるようにして見えなかったエリックの論文を発見した。
論文はエリックの母国語で書かれていたので、流石のケントもすぐには中身が読めなかった。しかし論文の題名と思われる比較的大きく書かれた文字列の中に、『獣人』を意味する単語が含まれていることには気付いた。
******
「シュトラウス家全員の血液を調べた。ハルの血は入院した時に採ったものをわけてもらったけど、ハル以外の血液の採取は公爵家の専属医にお願いした。分析に関しては俺が学校の設備を借りて一人でやったから、結果はどこにも漏れていない。そこは安心してほしい。
結論を先に言うと、エマとハルだけがその論文に載っている『稀人』と判断されるに足る数値を叩き出した」
ハロルドの手にはケントが論文をこの国の言葉に翻訳して書き直したものが握られていた。
最初渡されて中をめくった時は難しいことが書いてあってよくわからなかったが、ケントが論文の必要箇所を解説してくれて、それとシュトラウス家の者たちの血液検査結果を見比べたハロルドは、真っ青になっていた。
衝撃で気絶しなかったことを褒めてほしいと思った。
(まさか、僕とお姉ちゃんが人外だったなんて……)
「あ、あの…… も、もしかして、僕とエマお姉ちゃんは、どこかから拾われてきた子なんでしょうか? それとも、もしかしたらお母さんが、お父さん以外の人との子供を産んでしまったとか、そ、そういうことなんじゃ……」
混乱しているハロルドは口から母親の不貞を疑う発言までしてしまった。自分の子が稀人だったなんて、昔銃騎士をしていて今でもその仕事を誇りに思い続けている父シュバルツが知ったらどう思うのか……
「君たち家族の血縁関係を示すために親子判定術も同時に用いている。君とエマと、それから他の姉妹たちも全員がご両親と血の繋がった実の親子で間違いない」
「ええと、それは一体どういうことなんでしょう……?」
言われたハロルドはやっぱり頭がこんがらがったままだった。
「純然たる人間から稀人が生まれるということだ。博士の書きかけの論文の中では既に証明されているし、今回のシュトラウス家の血液検査結果からも証明できる。
自分が稀人だったと知っても怯えなくてい。稀人は普通の人間とは少し違う特徴を持っているが、やはりそれでも人間の範囲に入るだろうと博士も述べている。
けれど、このことを知った者たち全員がそう思うとは限らない。だからハル、自分が稀人だと言うことは、絶対に誰にも知られてはいけないよ。最悪、君たちを殺そうとする輩が出てくるかもしれない」
今の所、自分は髪の色があまり見かけない色であるということ以外は、普通の人間と違う特徴があるようには思えない。しかし三姉エマに関しては思い当たる節があった。
エマは嗅覚がとても鋭かった。今回の連れ去り事件でハロルドを発見することができたのも、ハロルドがいなくなった公園からの匂いをエマが追ったからだった。
エマの能力のことは家族やごく親しい人物しか知らない。エマはこのことをあまり人に話したがらなかった。
だって、まるで獣人みたいだから、と。
八歳頃のハロルドは自分のことを「僕」と言っていました