77 ハロルドの秘密
ハロルド視点
まだ夜が明けきらない薄明かりの時間帯、普段はほぼ無人のため静けさに包まれているはずの早朝の駅は、旅立つ者や見送りのための人の姿があった。
出発時刻が早すぎることと、あまりにも急に決まった出立のために、見送りの者が一番隊の仕事仲間のみという者もいたが、中でもハロルド・シュトラウスを見送ろうとする人数は多い方だった。
一緒に暮らしていた両親と四番目から六番目の姉はもちろんのこと、四姉ヒルダの婚約者である年上の教師と、なぜか銃騎士に憧れているからついてきたという婚約者の甥っ子たちとその両親。
それから公爵家の次男に見初められて嫁いだ都内に住む三姉エマとその夫ケント・フォレスターと、エマのためにケントがつけた護衛やら従者たち。それから近衛隊副隊長でもあるケントの部下たちまでいる。
ケントは心臓病を患っていておそらく出産が困難であろう姉エマを、事情がわかっていながらそれでもかまわないと婚姻を結んでくれた得難い人物である。
もっとも、帝王切開術を用いれば心臓に負担なく出産も可能と医師の判断は下りていたが、それでもエマが死亡する危険性はゼロではないと聞いたケントは、帝王切開術に乗り気になりかけていたエマに、そこまでして子を持つ必要はないと説いていた。
貴族は子を成すことも重要であるはずだが、ケントは兄や弟たちもいるから問題ないと、最初はこの結婚に難色を示していた親族たちを説き伏せて愛を貫いた。
ケント含めた近衛隊員たちは、こんな早朝にも関わらず律儀に朱色の隊服の、しかも銃騎士隊の正装よりも装飾過多な煌びやかでかっちりとした正規の衣装で見送りに来てくれた。
長姉と次姉は首都から少し離れた所に嫁いだために見送りには来られなかったが、他の姉同様に末の弟を溺愛してしている姉二人には、挨拶もできずに突然遠方へ赴任してしまうことを詫びる手紙を認め、ヒルダに届けてもらうように託してある。
「ハルちゃん」
すぐ上の双子の姉たちと別れの包容をしていると、なかなか離れようとしないアイシャとライシャを見かねてエマが声をかけてくる。
「これ、お餞別。向こうでも気をつけてね」
エマの従者が綺麗な木箱をハロルドに差し出した。
双子に抱きつかれたままハロルドはそれを受け取った。片手で持てるほどの大きさの木箱の中身は何度も貰っているので知っている。毛染め剤だ。
ハロルドの薄茶色の髪は地の色ではなかった。母も含めてシュトラウス家のほとんど全員が黒髪だが、ハロルドとエマだけが白い髪を持って生まれてきた。
老人でもないのに白髪である人間は珍しい。エマは子供の頃に家族以外の周囲の者から白髪を気味悪がられたことがあり、それ以降は瞳の色合いに合わせて薄茶色になるように髪を染めるようになった。ハロルドも姉に習い、物心ついた頃にはもう髪を染めていた。
「足りなくなったらお手紙頂戴ね。そちらへ送るわ」
「うん。ありがとう、エマお姉ちゃん」
エマがくれる毛染め剤は質が良くて、使った後はいつも髪が艶々になる。ハロルドはこれ以外の毛染め剤を使うつもりはなかった。
「ハル、俺からも君に」
エマの夫であるケントが差し出してきたのは、白地に藍色の糸を絡ませた髪結い用の紐だ。紐の両端には青色に近い小さなターコイズがいくつも埋め込まれている。
「え、いいんですか? こんな高価なものを」
「ターコイズには魔除けの効果があるそうだ。君の安全を心から願っている。どうか受け取ってほしい」
「ハルちゃん、ケント様のお気持ちだから、どうか受け取って」
公爵家の人間にとってはこのくらいのものは高価でも何でもないのかもしれない。エマに促されたこともあって、ハロルドは結い紐を受け取ることにした。
エマとケントは学校の初等科で知り合っていて、付き合いはかなり長い。二人きりでは姉は夫を呼び捨てにしているらしい、ということは次姉から聞いていたが、姉は宗主継承権も持っているケントのことを公では敬称付きで呼んでいた。
といっても、宗主継承権は公爵家の血を引く者のほとんどが持っているので、そのこと自体は特段珍しいことでもない。上位の順番でなければ実際に継承権が巡ってくる可能性も低く、一つの社会的地位を示す勲章のようなものだ。
ちなみにケントが所属している近衛隊が警護するのは宗主と宗主御一家、そして宗主継承権第十位までの人物と、宗家第五位までの公爵家当主と嫡子のみだ。
宗家第五位フォレスター公爵家の次男であるケント自身には近衛隊の護衛は付かず、むしろ彼は父や兄を含めた宗主継承権上位者たちを守るのが仕事だった。
現在、次期宗主ジュリナリーゼ・ローゼン以外は、宗家第二位バルト公爵家において宗主継承権第十位までの人物が占められている。
宗主継承権を持つには家柄と旧王家に連なる確かな血筋に加えて、議会での承認が必要になる。よって旧王家の血を濃く引いているわけではないジュリナリーゼの父クラウスや、クラウスの連れ子であるジュリナリーゼの異母兄には継承権が認められていない。
「ケントお義兄様、ありがとうございます。大事にします」
結い紐を手の中に握り締めて、身を案じてくれる義兄の気持ちも同時に受け取る。ケントに笑顔を向けると、彼も笑みを返してくれた。
『ハル、向こうへ行ってもくれぐれも君の正体がばれないように気をつけて』
昨晩、出立の荷物をまとめていたハロルドの元に、赴任を聞きつけた仕事終わりのケントが従者も連れずに一人でやって来た。
父のシュバルツは何かを感じている様子でハロルドに白髪を染めることだけは疎かにするなと言っているが、本当のことは知らない。
ハロルドの関係者で真実を知っているのは、公爵家の人間であり、かつて起こったハロルド誘拐事件の真相に気付いてしまったケントと、ハロルド自身だけだ。
このことはエマも知らない。ケントはエマに告げるつもりはないと言っていた。
最初から子供を持つつもりのなかったケントは、秘密を抱えたまま最後までエマを守り抜くつもりだ。
置かれた状況はハロルドも同じだった。ハロルドもおそらく子を成すことは一生ないだろう。
見送りの者たちに囲まれながら、ふとハロルドが視線を横に動かす。
その視線の先には、ゼウスがいる。
ゼウスの見送りに来ていたのは姉のアテナだけだ。
先ほどはノエルの姿もあり、ノエルはハロルドにも声をかけてくれたのだが、ゼウスの恋人であるメリッサが現れないことを心配し、迎えに行ってくると言っていなくなってしまった。
ノエルとはゼウスの家に遊びに行った時に出会い、以降彼とは妙に気が合ってかなり仲良くなってしまった。そのうちにゼウスを尋ねて家に行くと、お手伝いのマチルダにゼウスではなくノエルの部屋に案内されるようになってしまった。
親友のようになってしまったノエルのことはもちろん大事だし会えば楽しいけれど、正直、勇気を出してゼウスを尋ねたにも関わらずノエルの部屋に案内されることは、ハロルドの意に反することだった。
わざわざ相手をしてくれているのに、「ノエル君に会いに来たんじゃないんだよ」とも言えないハロルドができる唯一のことといえば、口実で持ってきた手作りのお菓子を、ゼウスにも分けておいてとノエルに頼むことくらいだった。
発車一分前のベルが鳴ったので、ハロルドは未だ引っ付いている双子に別れを告げて列車に乗り込んだ。
列車の出入口に立ち、見送る者たちに相対するが、頭の中ではある一つのことが引っかかっていて仕方がない。
ゼウスの恋人は、まだ来ない――――