42 シングルファーザー
「笑いすぎですよ」
揺れる馭者台の上でしばらく嘲笑を続けていると、馬車を操る隣の男から声を掛けられた。
男は伯爵邸付近では素顔を隠すように灰色の布を頭から被っていたが、今はそれも取っている。
顕になった眼鏡の縁でキラリと陽光を反射させながらそう言ったのは、視力が悪いわけでもないのに未だに伊達眼鏡を愛用し続けている親友のカイザーだ。
南西支隊勤務のはずのカイザーが、もう半月もすれば一年が終わるというこの時期に首都にいるのは、翌年の人事異動で勤務先が変わるからではなくて、フランツの「寝取られ事件」とはまた別の、カイザー自身に降り掛かった厄介すぎる問題の解決のために、南西列島から遥々召喚されていたからだ。
むしろ、異動になるのはフランツだった。
フランツは家出計画に合わせて、一番隊からの異動を願い出ていた。けれど最初、一番隊長ジョージはその願いをのらりくらりと交わしていて、フランツを一番隊に置いたままにするつもりだったらしい。
そこには「フランツを必ず一番隊に所属させる」というクラッセン伯爵との貴族同士の約束を守らなければ、という考えもあったようだ。
しかし、「異動できないなら辞めてやる!」と啖呵を切ったのが功を奏したのか、辞表を忍ばせたまま一番隊長を飛び越えて総隊長に直談判してやろうかとフランツが考え始めた矢先に、ジョージは態度を変え、「南西列島にある一番隊の支隊でよければ異動させることも可能だが、どうする?」と聞いてきた。
「支隊は首都とは違って獣人との戦闘も発生するから、死ぬ可能性もあるけどそれでも行くかい?」ということも忘れず付け加えて。
約束を交わした時のクラッセン伯爵の意図とは違ってくるが、支隊と言えど一番隊は一番隊だ。
ジョージ隊長はフランツの異動によって、「約束が違う!」と伯爵に詰め寄られた場合は、その屁理屈で何とか押し通そうとするつもりなのだと感じた。
たった今やらかして伯爵家の体面に泥を塗ってきたばかりなので、カンカンな様子だった父が、フランツのことなどもうどうでも良いと考えが変わり、文句を言ってこない可能性もあるが。
現在のフランツとしては、そうして縁を切ってもらった方がせいせいしていて良い、と思っている。
笑うのを止めたフランツは、進行方向に目を向けたまま全くこちらを見ずに、笑いすぎと咎めてきたカイザーに対して、少しムッとした視線を投げた。
「そもそも、お前が時間通りに来てればあんな面倒くせぇことにはならなかったんだよ。
どうした? 時間に正確なお前にしては珍しいな」
「すみません。出掛けにこの子がぐずってしまって、子育てには慣れていないもので……」
馭者台のカイザーを挟んだ反対側には、三歳くらいの赤毛の小さな男児がいて、カイザーの片腕に支えられながらぴったりと身体を寄せるように座っていて、泣き疲れたのか眠っているようだった。
カイザーはしばらく会わなかった間に、子持ちになっていた。
といっても、カイザーは結婚していない。
フランツは「カイザーの問題」を掻い摘んでしか知らない。
曰く、酒乱持ちのカイザーは首都にいた頃の飲みの後に、夜遊び中の伯爵令嬢とうっかり関係を持ってしまったが、実はその女は公爵家に嫁入り寸前で、婚家にて夫の子と偽りオリバーを生んで育てていたが、最近になってひょんなことからオリバーが夫の子ではないと血液検査でバレてしまって、大騒動になった後に、孕ませた責任を取ってカイザーが引き取ることになった、らしい。
女の方は離婚せずに公爵家に留まるそうだ。ただ、「公爵家が托卵された」などというのはとんでもない醜聞なので、公にはされなかった。
オリバーは病気で死亡したことにされて、ひっそりと公爵家とは関係のない新しい戸籍をもらい、以前とは違う「オリバー」という名前になって、カイザーに引き取られることになったそうだ。
カイザーは伯爵家を解雇された経歴があったせいか素行不良とされていて、「夜のカイザー」などという不名誉な二つ名があった。
表向きはカイザーが、以前の夜遊びでどこかの女に孕ませたオリバーを、事情があって引き取った――――という、ただそれだけの話になっていた。




