41 秘伝の奥義
一部R15 キス大注意
フランツは伯爵家の裏門を通り敷地外へ出た。伯爵家の表門には門番がいるが、裏門は常に施錠されていて警備の者はいない。侍従長の計らいで今日だけ鍵を開けておいてもらうことになっていた。
約束の時間に合わせて出てきたフランツは、裏門そばの街路で壁に寄り掛かりながら迎えの馬車を待った。しかし、しばらく待っても時間に厳格なはずのその相手は、やって来なかった。
現在この伯爵家にはリドリー侯爵夫妻とオゼットが来ている。オゼットの妊娠が発覚して以降も、この期に及んで、ハインツは「婚約はしない」と強硬な姿勢で婚約契約書へのサインを拒んでいるらしい。
なので毎回、父と正妻と侯爵夫妻や、時にはハインツや両親たちの親戚友人知人らも交えて説得を試みているそうだが、面談はいつも長時間に渡る。
込み入った状況の中でフランツが家出したとしても、たぶんしばらくは気付かないんじゃないかと踏んで、こんな真っ昼間の時間から落ち合い場所を伯爵家の裏門に指定したが、まさか約束の時間が過ぎても迎えが来ないとは思わなかった。
もしも父たちに気付かれたら厄介なことになるなと思ったが、それでも迎えの馬車と行き違いになることを懸念したフランツは、その場で待ち続けることにした。
フランツは、『せめて約束の場所は伯爵家から遠い場所にすれば良かったな』と、敷地の内部から「おに゙い゙ざま゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ーーーーっ!」と、涙と鼻水を垂らしながら鬼気迫る表情で走ってくるヤバい弟ハインツを視界に入れつつ、落ち合う場所を適当に決めてしまった自分の詰めの甘さを呪った。
ハインツの後ろからは父や家出を知らなかった者たちも駆けて来る。
フランツはすぐにこの場所から全力疾走して逃げるべきだろうかとも思った。
しかし、馬も馬車もないこの状態で見つかってしまっては、伯爵家からの追手に捕まる可能性が高いことと、それからもう一つ、自分は逃げられたとしても、「迎えに行きます」と言っていた男とすれ違った結果、下手したらその男の方が伯爵家の者に捕まって、何かされる可能性もあるんじゃないかと考えたフランツは、逃げずに奴らと相対する道を選んだ。
「お゙に゙、お゙に゙ぃっ、お゙に゙い゙ざま゙ぁ゙っ……! ひっぐうっ! ひぐゔぅ゙ぅ゙っ……っ!」
駆けて来たハインツは街路にいるフランツに抱き付き、何かを言いたそうにしていたが、全く言葉にできずに激しく嗚咽し泣くばかりだった。
昔のフランツであれば、些細なことでも弟が泣いて抱き付いてきた時は、抱き締め返して慰めることもあったが、今のフランツがハインツを抱き返すことはない。
「フラン! どうしてだ! どうして出て行くんだ!」
フランツの家出に彼らが気付いたのは、一向に進まないハインツの説得にフランツも駆り出そうと、呼びに行かせた使用人が空っぽのフランツの部屋を発見し、報告を受けたかららしい。
慌ててフランツを探し、侍従長に何か知らないかと聞いた所、伯爵は家を出る旨の手紙を受け取った。伯爵とハインツは血相を変え、表門の門番からフランツが通っていないことを聞き出し、裏門まで来てみたらしい。
「全ては手紙に書いた通りです。自分の女を寝取られて、その相手とこれまで通りに同じ家で暮らすのが嫌だからですよ」
「そのことはっ! ハインに何度も謝らせただろう!」
「俺は納得していません」
「納得していなくても、当主の命には従うのが貴族だろう!」
「そうですね。なので貴族らしい行動が取れない俺の貴族籍は抜いてくださいと、手紙にも書いたはずですが」
「あんな手紙一つだけでそんなことができるわけないだろうっ!
フラン! お前は俺の息子だ! 誰に何を言われようとも、お前は俺の息子なんだ! 親子の縁を切るようなことは言わないでくれ!」
「俺を娼館から助け出して、これまで育ててくれたことは感謝しています。ですが、その恩は俺が銃騎士隊に入隊して伯爵家の評価を上げたことで、全部ではありませんが返したつもりです。これ以降は、お互いに干渉しない方がお互いのためです」
「そんなことない! 嫌だ! 俺はお前と一緒にいたいんだ!」
「もし、これからも俺と一緒に暮らしたいなら、いますぐコレを廃嫡にして家から追い出してください」
「お前っ! やはり伯爵家当主の座を狙っていますのねっ!」
伯爵が黙り込むと、ちょうど場に現れていた正妻が、その代わりのようにフランツに向かって糾弾する声を上げた。
「たかが妾の子のくせにっ! 当主になろうとするなんておこがましいのよっ!」
「何度も言っていますが、俺は自分から当主になりたいと言ったことも行動したことも一度もありません。ハインツと同じ家で暮らすのが嫌なだけです」
「嘘をおっしゃい! ハインもお前も家を継げないなら、一体誰が次期当主になると言うの!? 親戚からでも連れて来るしかないじゃないの! お前はハインの後釜を狙っ――――」
「親戚を連れて来ればいいんじゃないですか?」
正妻の言葉の途中でフランツは淡々とそう返した。
「何ですって?」
「『俺には爵位を継がせない』というのが、あなた方二人の婚姻継続の条件なら、その通りにしたらいいと思います。結婚前とは言え、俺と母の存在を隠して結婚した父が悪いのですから。
ただ、歴史ある伯爵家の嫡男であるお父様の血を否定するその感情に支配された考え方は、貴族としてはどうなんですかね? とは思いますけど」
正妻にはこれまで嫌な思いもさせられてきたので、「やっぱり当主の座を狙っているのよ!」と批難されそうではあったが、このくらいの毒を吐くくらいは許されるだろうと思った。
正妻は、嫌いなフランツに生意気なことを言われて頭に血が昇った様子で、ぐぎぎぎっ、と両手に持っていた扇子を今にもへし折りそうだった。そばにいるお付きのメイドが、そんな正妻の様子をハラハラとしながら見ている。
フランツを引き止めようとする父や、フランツに悪感情を向ける正妻よりも、この場で一番厄介なのは、絶対に行かせまいとする執念でフランツに抱き付き続けているハインツだ。
フランツは何度か力任せに拘束を解いたが、ハインツはすぐさま絶対に逃がさないとばかりに俊敏な動きで抱き付いてきて、号泣しながらも渾身の力でフランツをその場に押し止めている。恋愛感情混じりの執念の力とは恐ろしいものだと思った。
フランツは父と正妻に言いたいことを言ってからは、彼らには全く構わずに、ハインツをどうやって撒くかだけを考えていた。
しかし答えの出ないうちに、ガラガラガラと、フランツの迎えの馬車が通りの向こうからやって来てしまった。
先程からハインツの泣き声や、父や正妻の大声によって、説得のために呼んでいた貴族関係者たちも何事かとこの場にやって来ていたし、ここは裏門から出た街路であるので、道行く人たちも何か問題が発生したのかと訝しみ立ち止まっている。
貴族社会に辟易としているフランツとしては、貴族籍を剥奪されて平民に戻っても良いと思っているので、クラッセン伯爵家にどんな醜聞が起こっても構わないし、自分自身も含めて評判が地の底に落ちてもどうでも良いと思っている。
フランツは、『仕方がない』と、腹を決めた。
「ハインツ」
フランツは、この場で初めてハインツに声を掛けた。
「はいっ! 何でしょうお兄様っ!」
兄の呼び声を聞いたハインツは、涙に濡れていた黒い瞳を生き生きと輝かせながら、顔を上げた。
「お前に餞別をくれてやろう」
――――これぞ、一番隊に伝わる秘伝の奥義「色仕掛け」だ!
フランツは、ハインツの顎に指を二本掛けてクイッと上げさせると、自身の顔の良さを十二分に発揮できる極上の笑みを湛えたまま――――――
ハインツにキスをした。
口と口で。
ぎゃああああああっ! と、周囲の主に女性たちから、歓声混じりのような悲鳴が上がる。
「お、お、お、奥様ーーーーっ!」
息子と異母兄の男同士の熱い接吻を見た正妻が、そのまま気絶したため、そばにいたメイドが地面に倒れないように何とか支えていた。
喧騒の中でのキスを終えた後、ハインツは恍惚の人となり、瞳は完全に恋する少女のそれになっていて、表情もトロォっとしていた。
男の、しかも血の繋がった兄に口付けされて、この世の極楽を体験したとばかりにこれ以上もなく幸せそうな顔をしている、義息になる予定のハインツを目撃したリドリー侯爵夫妻は、二人して青褪めていた。
「……キモっ…………」
侯爵夫妻のそばにいたオゼットは、侯爵夫妻以上に顔色を悪くしながら、自身が孕んでいる腹の子の父親であり、将来の夫になる予定の男に対して、絶望を交えながらそう呟いていた。
ハインツの身体から力が抜けた隙を突いたフランツは、そばまで来ていた馬車の馭者台に飛び乗った。
「フラァァァァァンっ!」
息子同士のキスというとんでもないものを見せつけられて呆然自失状態だったクラッセン伯爵は、フランツがこの場から逃げたことに気付いてハッとし、怒りの形相でフランツを呼んだ。
伯爵はフランツを追おうと走り出したが、馬車は速度を上げていて、伯爵の脚では到底追いつけそうにない。
「くたばれ! カスどもが!」
フランツは伯爵家がある方向を振り返ると、侮蔑のハンドサインと共に、嘲笑を響かせながら彼らにそう吐き捨てた。




