19 彼の選択
ハロルドは仕事帰りにアテナとゼウスの家に向かっていた。二人は都内の一軒家を借りて暮らしていた。
アテナはモデル業でお金も溜まったし、借家ではなくてちゃんと家を建ててもいいかもと言っていたそうだが、いつかアスターと結婚したら男爵邸に住むことになるはずだから、考えるだけだけで今はやめておく、と言っていたとゼウスからは聞いている。
アテナは、アスターと結婚するつもりはあったようだ。だったらせめて婚約くらいしておけば良かったのにと思ってしまった。
(そうすれば、アスター先輩は別れたりなんてしなかったのかな?)
仕事で少し遅くなってしまい、時刻は夕食時を既に過ぎたあたりだった。日を改めた方が良いだろうかと思いながらも、アスターのことを考えると、できるだけ早い方がいいと思った。
今日はゼウスが貴族邸に泊まりがけの護衛任務が入っているのも好都合だった。別れて落ち込んでいるアテナにアスターのことを聞くだなんて、ゼウスが知ったら激怒して全力で阻止されそうだと思ったから。
あたりはすっかり夜の闇に包まれている。
アテナは体調不良で休んでいるとアランが言っていたし、いきなり訪ねた所でそもそも応対してもらえるだろうかと思いながら戸を叩くと、中から出てきたのはアテナのハンター仲間である灰色の髪の美少年、ノエル・ブラッドレイだった。
「すみません、アテナは今あまり話ができるような状態ではないので……」
アテナに話があると告げると、やはり断られた。
アテナは何もやる気が起きない様子でずっと部屋に籠もっていて、時々泣いているらしい。
アスターとアテナの二人が別れたというのは本当のことのようだ。
ならばと、ハロルドはノエルにアスターの行き先を知らないかと尋ねることにした。
同じ年生まれのノエルとはかなり仲の良い友達である。ゼウスと知り合って以降、ゼウスと仲良くなるのが目的で彼の自宅へ遊びに行くと、アテナのハンター仲間であるノエルも家にいることが多かった。
ノエルとはどこか性質的に似通った部分があるように思えて、正直、ゼウスよりも親近感が湧いている。次第に心を開いて会話をするようになり、自然と仲良くなった。
夜に押しかけて不躾なことを聞いても、友人である彼ならばたぶん受け入れてくれるのではないかと思った。
しかし、髪色は違うが、彼の一番上の兄である二番隊長代行ジュリアス・ブラッドレイを幼くしたような美しすぎる少年の顔付きが、明らかに陰った。
ノエルは無言である。
ハロルドはとても悪いことをしているように感じながらも、アスターが銃騎士隊を辞めようとしているから、何とか説得してそれを止めたいのだと自分の意見を口にした。アスターは銃騎士隊にとっては必要な人で、仲間たちは皆彼が戻ってくるのを待っている、アスターがどこにいるのか知っているのなら教えてほしい、と。
ノエルは怒って玄関の扉を締めてしまうようなこともなく、ハロルドが話そうとするのを遮る真似もしなかった。ノエルは基本的には、とても優しい。
けれどハロルドが話し終えた後もたっぷりと沈黙を要してから、ノエルは口を開く。
「……私も彼と話をしましたよ。今回彼が銃騎士隊を辞めることについては、アテナは全く関係ありません。全ては彼の意志です。
彼はとても頑なでした。私の父や兄も銃騎士隊を辞めることについては思い留まるようにと何度も説得したそうですが、彼は頑として頷かなかったそうです。誰が説得しようとも、たとえ、彼の最愛の家族がもし蘇って銃騎士を続けるように説得したとしても、彼は自分の決断を覆しはしないでしょう。
彼は、もう獣人は斬れないと言っていました」
「…………それは一体…… アスター先輩に何があったの……?」
ハロルドは問いかける。ノエルの言い様では、ただの後輩の一人にしかすぎない自分がアスターを説得したところで、彼は戻ってこないかもしれない。ならば、なぜアスターが銃騎士隊を辞める決断に辿り着いたのか、そこのところをどうしても知りたかった。
ノエルは首を振る。
「……………………それはわかりません…… 彼がどこへ行ったのか、私やアテナはもちろんのこと、ゼウスも全く知りません。お力になれず申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ…… 夜分にごめんね」
「いいえ。おやすみなさい、ハル」
パタリと、扉が閉まった。
ハロルドはアテナたちの家からの帰り道を肩を落としながら一人で歩いていた。結局、アスターの居場所はわからなかった。しかも、アスターが銃騎士隊に戻ってくるのはかなり難しいだろうという話まで聞いた。
ノエルの話から思うことは、アテナと別れること以外で、アスターに何か重大なことが起こったのではないか、ということだ。
つまり、アテナと別れたことがきっかけでアスターが銃騎士隊を辞めたのではなく、それとは別の「何か」があったからこそ、アスターはアテナと別れて、そして銃騎士隊まで辞めようとしているのではないか。
もう獣人は斬れない――――
アスターが言ったというその言葉を、ハロルドは心の中で反芻する。
思い当たることがないわけではない。
もしかするとアスターは、自分がハロルドと同じ稀人であることを知ったのかも知れない……
「……ハル…………ハル!」
考え事に没頭しながら夜道を歩いていると、横から小声で自分を呼ぶ声がした。
ハロルドはハッとしてその聞き覚えのある声のした方を振り向いた。
ハロルドはそこにいる人物を見て、驚きすぎて一瞬固まった。
「ア――むぐっ」
思わずその人の名前を叫ぼうとすると、彼がとんでもない速さで飛んできてハロルドは口を塞がれ、そのまま抱えられて路地裏の暗がりへと連れ込まれた。
かなりの早業である。身体能力が高いハロルドに抵抗も許さずそんなことができてしまうのは、銃騎士隊員の中でも限られる。
「ばかっ……! あまりでかい声を出さないでくれ! できれば誰にも見つかりたくないんだ」
その人は少し焦ったような声を出すが、それも小声だ。
ハロルドは口を覆われたまま、自分を抑えている相手を見て目を白黒させていた。
声を出せないので、心の中でその人の名を叫ぶ。
(アスター先輩!)
渦中の人が、そこにいた。




