17 不穏な影 2
ハロルドが名前を呼んでも、エリックは黙ったままで距離を詰めてくる。手枷を用意していたような男だ。目的が何なのかなんて知れたこと。またハロルドを捕まえるつもりだったのだろう。警戒しながらも、ハロルドは迎え撃つようにその場に佇んで動かなかった。
もしエリックが何か仕掛けてきても、確実に勝てる自信があった。あの時とは違う。
「わかっていたよ。僕が年を取るように、君だって段々大人になっていくんだ。色んな人と出会って、いつか僕以外の誰かを一番に大切に思うようになるかもしれないとは思っていた。人の気持ちは移ろうものだからね。そばにいなかったから余計だろう」
やはり聞かれていたか。
エリックはギリギリ手を伸ばせばハロルドに触れられる距離で足を止めた。
「今更…… 何しに来たの?」
ハロルドの声は冷たかった。この人は自分の中では終わった人だ。他に好きな人ができたことを責められる謂れはなかった。
「今更じゃないよ。本当は何度も会いに来ていた。
君が姿を見せるなと言ったから、君には気付かれないようにしていたんだ。
僕はずっと思っていた」
「……」
エリックの手が伸びてきて、薄茶色に染めた髪を梳きながら指でハロルドの頬に触れた。
ハロルドはその手を振り払わなかった。
「…………では、どうして……? 今日に限ってはどうして俺の前に姿を見せたの?」
質問をしたのは、エリックと別れると決めた時に置き去りにしてきた恋心が刺激されたからだった。
落とした手枷からもしやと思ったが、あの時点ではハロルドはエリックの姿を見ていない。落とし主に心当たりがあったとしても、確証はなかった。あのまま完全に姿を消してしまっても良かったはずだった。
けれどエリックはハロルドの前に姿を現した。
少しだけ、ほんの少しだけ、ハロルドは期待してしまった。この人と一緒に歩む未来もあるのだろうかと。自分が同性愛者だと気付いていないゼウスよりも、エリックの方がより抵抗なく自分と恋人になってくれるだろう。
一度は愛した人を前にして、封印していた彼への思いがほんの少しだけ顔を出す。
ただ、その思いとは裏腹に、悲しそうにこちらを見つめるエリックの目が、全てを物語っているような気もした。
「君が、夢を追いかけていたから。君の夢を応援したかった。邪魔したくなかったんだ。でも、今日でその夢も叶ったから…………
銃騎士隊の服を着て歩くハロルドはとても立派だったよ。だからもうここらへんでいいんじゃないかなと思った。
本当は、今日君を攫うつもりだった。だけど、君はもう新しい人を見つけていたんだね」
寂しそうに笑うエリックを前にして、ハロルドはエリックの心情を知った。
エリックはハロルドを好きだと言う。確かにそういう思いは感じるけれど、他の誰かを押しのけてまで手に入れたいと激しく願うような情熱に満ち溢れた思いではない。
エリックはハロルドに誰か良い人が現れればすぐに身を引いてしまう程度の思いしかない――――ハロルドは、そう思った。
「どちらにしろ、リックとは一緒になれないよ。俺はリックの研究に協力できないから」
せめてもの強がりで、自分だってエリックを強く求めているわけではないと示すために、昔別れを決めた直接の原因だった事柄を話す。
するとエリックは、首を振った。
「あれはもういいんだ。あれはもう終わったことだから。
君の子種欲しさに僕が君に愛を囁いているだなんて思われたくなくて、全部終わらせてきた。もう君の精子は必要ない。君の同意なく無理矢理精子を吐き出させるようなことはしないつもりだった。愛する君を研究材料にしようとした僕が愚かだった。本当にごめんね」
ハロルドは目を見開いた。ちゃんと謝ってくれた。あの日のことを……
「俺は…… もうあのことはいいんだ。途中からは自分から望んでいたから。だからその謝罪は、俺の姉に直接言ってほしい」
「わかった」
そう言って、エリックはハロルドの頬をもう一撫でしてから、一歩距離を取った。
「ごめん。未練たらしくしてすまなかった。もう本当にこれっきりだ」
「うん……」
エリックがそう決めたのなら、自分から縋り付くことなんてできなかった。
「一つだけ聞かせてほしいのだけど、あの少年とは好き合う者同士になれたのかな?」
ハロルドは首を振った。もしかしたらゼウスと恋仲ではないと知って、エリックが考えを変えやしないかと少し思ったけど、期待は裏切られた。
「そうか。でも諦めるな。不可能と思われることでも、常にどこかに突破口はあるはずだから」
エリックは、本当にハロルドを諦めることに決めたようだった。
「さよならハロルド。僕は君の幸せを心から願っているよ」
いつかの時と、別れを告げる方が逆になった。
踵を返して夜闇の中に消えていくエリックを、ハロルドはただじっと見つめていた。
駆け出してその背中に縋り付きたい衝動を、ゼウスの姿を思い浮かべることで耐える。
しばらく立ち尽くした後にハロルドは気付く。
「あ…… 忘れた……」
拾った手枷を返すのを。
後日――――
あくまでもオトモダチだとヒルダが宣う年上教師とのデートを楽しんでいた彼女の元にエリックがいきなりふらりと現れて、あの事件のことを謝罪したらしいが、「絶対に許さない! ちゃんと刑務所に入ってハルにしたことを償え!」と叫ぶヒルダがエリックを捕まえようとして一悶着あったという。
ヒルダが変質者が現れたと警務隊を呼んで大騒ぎになったそうだが、結局エリックにはまんまと逃げられてしまったそうだ。
ハロルドは、もう二度とエリックと会うこともないだろうと、自分の初恋を弔って綺麗さっぱり忘れようとしていたが――――
しかし、この話はここでは終わらなかった。




