15 かくれんぼ 2
マクドナルドから逃げるために走ってきたせいで熱が籠もっているのか、アスターはシャツの首元を摘んで動かし、服の中へ風を入れようとしていた。
三番隊へ行ってしまったとはいえ、立場的には訓練生扱いなので、アスターは藍色の隊服ではなくハロルドと同じ訓練生用の黒い隊服を来ていた。上着は着たままだが、上部のボタンは外されていて、下の白いシャツを摘んで動かす隙間からアスターの鎖骨が見えた。
ハロルドは不躾にならない程度にアスターの首元に目を向けていた。
アスターは常に肌身離さず首からペンダントを下げていて、中には彼の亡くなった家族の写真が入っている。その写真をハロルドも見せてもらったことがあった。
ハロルドはペンダントの鎖が見える鎖骨の下のあたりに、赤い鬱血痕――キスマークが付いているのを目ざとく見つけた。ハロルドは以前エリックにつけられたことがあったから、そういうものだと知っていた。
アスターはゼウスの姉のアテナと付き合っている。きっと彼女との営みでつけたものだろう。
アテナはゼウスによく似た美しい女性だ。ゼウスと仲良くなってからアテナと会う機会は何度もあったが、彼女を実際に前にしたり水着姿の写真集などを見ても、ハロルドの情動は眠ったままだった。
時々、こうやって正常な男女の営みの片鱗を見ると、いつか自分もそっち側へ行けやしないかと思う時がある。姉はたくさんいるし、ハロルドが一生誰とも添わずに結婚しなくても、孫を見せてあげられなくても、両親はそんなに落ち込まないのではないかと楽観的に思う一方で、このままずっと一人かもしれないと思うと虚しく感じる。
一時期は女性を性的に見られないだろうかと卑猥な本を買って頑張ってみたこともあったが、アイシャとライシャに隠してあった本を発見されて騒がれたくらいで、自分としては訓練生たちが鍛錬中に汗を掻いて上半身裸になっている姿を見た方がドキドキする。
なので今もアスターと狭い場所で二人きりでいるのはドキドキしていた。アスターにはちゃんと恋人がいるし、自分も心はゼウスに捧げているつもりなので――ゼウスがそんなことを知ったらご遠慮申し上げられそうだが――万が一にでもおかしなことになるはずもないが、男だらけの養成学校はハロルドにとってはちょっとした天国だった。
常人とは違う強さを持つアスターは綺麗な顔立ちをしていて、人間ではあまり見ない血のような真っ赤な髪色をしている。
たぶんこの人も――――
アスターは報酬の愚痴を言いつつ、三番隊から離れることは本意ではないと言っていた。獣人を倒すことで人のために働けるのは嬉しいし、別に金のためだけにやっているわけじゃないと。
けれど貴族なのに貧乏なせいでデート代をいつも彼女のアテナに出してもらってばかりで、まるでろくでなしのヒモみたいだから、早く一人前に稼げるようになりたいんだとアスターは語った。
父親が一生懸命働いて残してくれた遺産はあることにはあるが、それは男爵領を買い戻すために貯めていた父のお金だから、あまり手はつけたくないとアスターは言った。
ハロルドは特に何も考えずに話の流れでアテナとの交際は順調かと質問を口にしていた。
「うーん…… 俺はもうずっと結婚してくれって打診し続けているんだけど、その度に無理だって断られるんだ」
幸せなノロケ話でも聞けるのかと思ったが、いきなり重い話になってしまった。
「えっと、あの、それは……」
何て言ったらいいのかわからなくて口ごもる。そんな話は初めて聞いた。
「ああ、でも仲が悪いとかじゃなくてさ。俺たちは最初っからそんなやりとりをするのが普通みたいな感じだったから。俺は結婚願望が強くてさ、叔父さんはいるけど家族はみんな死んでしまったから、できるだけ早く自分だけの家庭を持ちたいって思っているんだ。俺の求婚は交際当初から続いてるものだし、アテナも、俺の事は大好きだし気持ちは嬉しいけど、ハンターやってるうちは難しいかなって、毎回同じ会話の繰り返しだよ。
アテナは獣人に殺された両親や婚約者だった義理のお兄さんの仇を討つためにハンターになったんだ。それはゼウスも同じで、あの二人にとって獣人と戦い続けることは使命みたいなものなんだ。
アテナにはもう言うのはやめにしたけど、俺は本当の所はハンターなんて危ないことはやめてほしいと思っている。ゼウスもそれは同じみたいで、仇討ちは俺とゼウスでやるからハンターからは足を洗ってくれないか、って二人がかりで説得したこともあったけど、アテナは納得しなかった。
アテナはまだお義兄さんのことを忘れてないんだ。俺も獣人のせいで最愛の家族が死んだから気持ちはわかるし、最終的は、一生懸命頑張れ!って応援する側に回ったら、ゼウスには呆れられたよ。
ただ、せめてハンターやりながらでも俺と結婚はできるだろって言ったんだけど、彼女の中でどうしても譲れない部分があるらしくてさ。今はアテナの気が変わるのを待っている感じかな」
話を聞いていると少しだけモヤモヤした。もちろん両親や婚約者のお義兄さんが亡くなってしまったことは悲しいことだし、仇討ちをして無念を晴らしたいと思う気持ちもわかる。けれど、今の話からするとアテナは仇を討つことを何よりも優先していて、アスターよりも亡くなった義兄のことを大切にしているように感じられた。
家族が全員息災でいるハロルドは、家族を失ったアテナやゼウスの気持ちを完全にはわからない。それによく知らないアテナの義兄よりも、身近にいるアスターに贔屓めな考えに陥っている自覚はある。それでも、アテナが今付き合っているのはアスターなのだから、もっとアスターの気持ちに寄り添って、今の人との未来のことの方を大事にするべきなんじゃないかと思ってしまう。
そう思いつつも、これは彼らの恋路には全然関係のないハロルドの意見である。自分の考えをそのまま言うことは憚られた。
「あの、その…… 亡くなったお義兄さんにヤキモチ焼いたりしないんですか?」
自分の考えを押し込めてそんな風に聞いてみると、アスターが一瞬だけ驚いたような顔をしてから、ちょっとだけ困ったように笑った。
ハロルドは何となく自分の考えを見透かされているような気がした。
「家族が大切なのはわかるからいいんだ。それにしょうがないんだよ。こういうのを惚れた弱みって言うんだ。俺の方がアテナよりも彼女に惚れてるんだからしょうがない。好きな子の願いは何でも叶えてあげたくなる。それがたとえ昔の恋人のためだとしても」
「……すみません、俺にはちょっとよくわからないです」
自分を犠牲にするなんてできない。
自分は、恋したエリックに自分の身体を差し出すことはできなかった。
封印したはずの恋心がチクリと傷んだ。
「……アスター先輩はすごいです。そんなに真っ直ぐにアテナさんを愛せているのが。二人は素晴らしいカップルです」
「いや、そんなに持ち上げるほどのものじゃないって。万事が順風満帆ってわけでもないんだよ。実は俺アテナとはまだ――――」
「見つけたぞ、アスタァァァァァッ!」
アスターが何かを言いかけた所で、扉が壊れんばかりの勢いで開けられ、獲物を捕獲して食い殺そうとする直前のような顔をしたマクドナルドが現れた。
「うわあああっ!」
「ひいいいっっ!」
ハロルドは恐ろしすぎる形相で仁王立ちしているマクドナルドを前にして思わず情けない声を出してしまった。
唯一の出入口はマクドナルドに塞がれていて逃げられない。
マクドナルドの手がアスターに伸びてきた。マクドナルドはアスターの顔面を鷲掴みにすると、そのまま片手だけでアスターの身体を宙に浮かせた。
おそらくアスターならばその状態からでも抜け出せるはずだが、彼はそうしなかった。
「隊長! 本当にすいませんでした! 許してください! 俺の顔面粉砕すれば気が済むのであれば喜んで!」
「謝るなアスター。お前の主張は当然のものだ。全ては部下の待遇面も気にかけてやれない、俺のような脳筋を上司に据えてしまったお前の不運だ」
(気にしてる! すっごい気にしてる!)
マクドナルドは口では許すみたいなことを言いながらも、アスターにアイアンクローをかましたまま下ろす気配はなく、額にも青筋が浮かんだままだ。やっぱり怒っている。
「オラァ!」
マクドナルドはそのまま鍛錬場の方へ向かって腕を振りかぶり、アスターを地面へ思いっきり放り投げた。
アスターは空中を移動する僅かな間に体勢を立て直し、身体を丸めるようにしながら地面に器用に着地した。
「アスター!」
「はいっ!」
「今からお前の給与面を交渉しに行ってやる! ついて来い!」
「は、はいっ! ありがとうございます隊長! 一生ついていきます!」
「当たり前だ! 貴様は俺の大事な部下なのだからな! 貴様の銃騎士人生は俺と共にあるッ! 三番隊から離れることなど絶対に許さん! 俺はお前を一生離さんから覚悟しろアスター! 命ある限り俺について来い!」
アスターは感極まった様子で、「もちろんです隊長!」などと言っているが、あまり暑苦しいのが好きではないハロルドは、彼らと距離を取り、巻き込まれないように黙って気配を消していた。
去り行く彼らの背中には、確かに師弟愛のようなものがあるように見えた。
何だかんだ言っても、アスターは自分の隊長を大切にしているのだ。
だからそんなアスターが、マクドナルドとの約束を反故にして銃騎士隊を辞め、恋人のアテナまで捨てて行ってしまう選択をするとは、この時のハロルドは全く思っていなかった。




