9 姉の異変
「ハルーっ!」
ヒルダの声に振り返ると、姉が号泣しているのが見えた。
「良かった! ハルが連れて行かれなくて良かった!」
ヒルダは駆けてきた勢いのままハロルドに抱きついた。ハロルドも抱きつき返したけれど、姉の身体は不自然なほど小刻みにブルブルと震えている。
あの事件の後、警務隊の施設にしばらく入れられて自宅に帰ってきてからも、ヒルダは少し気落ちしているような様子はあったが概ねいつも通りだった。退院してきたハロルドの方が落ち込みが酷く、家族はハロルドばかり気にかけていた。
異変に気付いたのはヒルダが通う学校の美術の担当教師だった。
ハンターを目指していたヒルダは学校で剣術部に入っていた。部活は真剣ではなく模擬刀を使うのだが、ヒルダはその模擬刀を見ただけで顔色を悪くして、利き手が小刻みに震え出していた。それから絵画の時間に赤い絵の具を見ても同様の反応を示していた。
ヒルダが反応を示すのは剣を見た時と血に似た赤い液体状のものを見た時だけだ。事件後に登校して最初の部活動に参加した時に、自分の身体がおかしいことにヒルダ自身は気付いていたが、彼女はそのことを誰にも言わなかった。ヒルダは部活をしばらく欠席していたが、そのうちに辞めてしまった。家族はヒルダが剣術部を辞めたことを知らなかった。
自宅にあったシュバルツの剣は事件後誰も持ち出せない場所にしまって厳重に鍵をかけていたので、ヒルダが目にすることはなかった。
時々、ヒルダは食欲がないと言って食事を抜いてしまう時があった。それはたいていトマトジュースやケチャップがかけられた料理が食卓に並んでいる時だったが、家族は次の食事時にはケロッとした様子でヒルダが美味しそうに食事をしているのを見て安心し、細かな異変に気付く者は誰もいなかった。
学校の美術の時間がしばらくぶりに絵の具を使った授業内容に変わったところで、ようやくヒルダの異変に気付いて気にかける者が現れた。美術教師が全く筆を取ろうとしないヒルダを妙に思って近付けば、震えている利き手を隠すようにしてヒルダは俯き泣きそうになっていたという。
保健室へ連れて行って休ませると症状は落ち着いたし本人も大丈夫だと言っていたが、美術の時間になる度に同様のことが起こる。心配した美術教師が両親にヒルダの受診を勧めて、そこでヒルダの心因性の病気が発覚した。
原因はやはり、あの日ヒルダがスノウを斬ってしまったことだった。
ハロルドたちのすぐそばを護衛の何人かがそのまま走り抜け、エリックたちが消えた方向へ駆けていく。
ヒルダの病気のことは公爵邸に移ってから聞いた。ハロルドも一緒に暮らしていた頃は自分のことで精一杯で、ヒルダの異変には気が付かなかった。
ヒルダの身体の震えは利き手だけではなく全身にまで広がっている、遠くからでも傷付けてしまったスノウと、それからエリックを見たからかもしれない。護衛が腰に差していた剣を見てしまった影響もあるだろう。
辛いはずなのに、それでも姉は走って来てくれた。
斬られてしまったスノウは気の毒だが、あの件に関してヒルダは悪くなかったとハロルドは思う。ヒルダはただハロルドを守ろうとしただけだ。
もしあの時、最初にケントの声が聞こえたときにすぐに服を着ていたら、あの時、快楽に溺れずにエリックから離れることができていたなら、姉はこんなに苦しまずに済んだかもしれない。後悔はしてもし足りない。
「ハル、大丈夫? 何もされなかった?」
ケントが声をかけてくれる。
「セイレーネ嬢が病院からいなくなったって連絡を受けて、まさかと思って博士の所へ人をやったら、既にセイレーネ嬢の手引で逃げられた後だったって聞いて、慌てて君へ知らせようとしたんだけど…… こんなことになっていただなんて………… すまない、また君に辛い思いをさせてしまった。全部が後手後手だった。俺の責任だ」
ハロルドは震えるヒルダを抱きしめたまま首を振る。
「いいえ、ケント様は何も悪くありません。僕が自分から護衛の人を遠ざけたんです。護衛の人を叱らないであげてください」
「ハル、どうして……」
ケントが困惑気味な声をかけてくる。
「守ってもらうばかりなのが嫌だったんです…… 僕だって、誰かを守りたかったんです……」
ハロルドはヒルダの身体に回した腕に力を込めた。そこに足が悪いせいで出遅れたらしき父のシュバルツと、結婚して首都にはいなかったはずの長女カミラがやってきた。
「ハル、いなくなったって聞いたから心配したじゃないか。とにかく無事で良かった」
「お父さん、ごめんなさい……」
「ヒルダちゃん、しっかりして、大丈夫?」
カミラがハロルドに抱きついて離れないヒルダに声をかけた。ケントが護衛に指示し、腰に下げた剣を鞘ごと抜いて背中側に隠させて、ヒルダから見えないようにする。
しばらくしてヒルダの震えが収まる。
「ごめん、もう大丈夫。大変なのはハルの方なのに、また私が迷惑かけちゃったね…… ごめんね……」
ヒルダが落ち込んだ様子でそう溢す。
「ヒルダお姉ちゃん、違うよ。お姉ちゃんが来てくれたから僕はここに留まれたんだ。お姉ちゃんは僕を助けてくれたんだよ」
たぶんヒルダが来てくれなかったら、自分はあのままエリックについて行っただろう。
しかしヒルダは緩く首を振る。
「そんなことはない。私にそんな力はない…… あの時だって…… 人を助けたかったのに、人を傷付けた」
ハロルドはヒルダの傷の深さを知った。姉はまだ、あの日に囚われている。
シュバルツが項垂れているヒルダを励ますようにその肩に手を置いた。
「自分を卑下するな。間違ったと思ったらやり直せばいい。一つ間違ったからといって全部が駄目になるわけじゃない。何度も言っているが、お前は価値ある尊い存在だ。父さんにとってお前は自慢の娘なんだよ。
俺はヒルダはよくやったと思う。本当なら俺があのクソ男をズタズタにしてやりたいくらいなんだからな」
「ちょっと、お父さん……」
カミラが過激発言をしそうになっているシュバルツを止めた。
「ハルちゃん、久しぶりね。なかなか会いに来られなくてごめんね」
「ううん。カミラお姉ちゃん、会えて嬉しいよ」
カミラが腕を差し出してくるので、ハロルドはその柔らかな胸に抱きついた。
カミラは列車で丸一日ほどかかる場所に住んでいるので、会うのは事件直後に駆けつけてくれた時以来だ。
「何かこっちに用事があったの?」
カミラは幼い子供がいることもあり、遠方はるばる実家に来るのは新年の挨拶のためや慰霊期など、何か用事がある時に限られる。
「それなんだがな、実はヒルダがカミラの所でしばらく暮らすことになった」
「えっ!」
青天の霹靂とはこのことか。
(ヒルダお姉ちゃんが遠くへ行ってしまう……)
「ほら、こっちは都会で便利だけどちょっとゴミゴミしてるし、うちは田舎だけどのんびりしてるから、静養するにはちょうどいいんじゃないかって。ここにいるよりも獣人に襲われる確率は上がるけど、近くに銃騎士隊の詰め所もあるし、私のムキムキ最強旦那が守ってくれるわよ」
カミラの夫は銃騎士隊員だ。
「じゃあお姉ちゃんは転校するの? でも、部活は?」
ヒルダはハンターになることを目指し、剣術が強い名門校に通っていた。確か剣の腕を買われて特待生枠で入ったような……
「部活は辞めた」
「えっ!」
ハロルドは再び驚いた。
「え、だって…… ハンターは……?」
ヒルダはハンターとして成功するのが幼い頃からの夢だった。本当は父と同じで銃騎士になりたかったそうだが、女はなれない。ならばハンターになって名を上げてやると意気込み、幼い頃からハロルドと一緒にシュバルツの特訓に耐えていた。ハロルドが嫌々特訓に参加していたのとは違い、ヒルダは意気揚々と日々の訓練をこなしていた。朝の走り込みに行きたくなくてぐずるハロルドを、ヒルダは何度も起こして引っ張るように参加させていた。
「ハンターは…… もういいよ。どっちみちこんな状態じゃ剣も握れないし、血を見て震えるだなんて、そもそもハンターには向いていなかったんだよ」
「そんな……」
ハンターは危険な職業だし母は反対していた。だけど、夢をそんな風に諦めてしまっていいのか?
「お姉ちゃんごめんね、僕のせいだ……」
「ハルのせいじゃないよ。むしろ早めに苦手なことがわかってよかったんだよ……」
そう言うけれど、ヒルダの表情はやはり冴えなかった。




