執筆者の解
【矢崎義之】がその部屋を訪れたあと、彼の姿を見た者は一人だけ確認されている。雑居ビルの一階にある古着屋の店員だった。
午後四時過ぎ、矢崎は一人で階段を下り、そのまま商店街の出口へ向かって歩いていったという。足取りはひどく遅く、何度も背後を振り返っていたが、誰かと一緒にいるようには見えなかった。
防犯カメラにも、矢崎以外の人影は映っていない。それを最後に目撃情報は途絶えた。自宅へは戻らず、スマートフォンも財布も見つかっていない。
駅や周辺道路の映像を確認しても、商店街を出たあとの足取りは分からなかった。警察は家族を相次いで失ったことによる自発的な失踪や自殺の可能性を中心に捜査したが、遺体も遺留品も発見されないまま、捜索は打ち切られている。
それからしばらく経った日の午後、雑居ビル三階の古い扉が勢いよく開いた。赤い紐に下がった銀の鈴は、今回はけたたましいほどよく鳴った。
「おばーにゃーん、いるー?」
入ってきたのは十代後半ほどの少女。肩にかかる髪をひとつに緩く結び、制服の上から大きめのカーディガンを羽織っている。
片手にはアニメのキャラクターが大きくプリントされたコンビニの菓子、もう片方には、同じキャラクターの缶バッジを隙間なく並べた大きな鞄を提げていた。
窓際のソファでは、桃色のロリータドレスを着た女が、白いうさぎのぬいぐるみを膝へ乗せて紅茶を飲んでいた。転がるように駆け寄ってくる少女の鞄へ目をやり、片方の眉をわずかに上げる。
「この前見た子と違うね」
「箱推しだから日替わりなの! 昨日はリューヤくんで、今日はトモマサくん!」
「節操がないこと」
「博愛主義でごめんね♡ はいばあちゃん、お土産。期間限定のいちご味」
少女は菓子袋を机へ置くと、女の向かいにある椅子へ座った。かつて高瀬が腰掛けたものと同じ椅子だった。
少女の名前は宮三みゃおという。霊能者の孫娘だった。息子とは婿入りを機に疎遠になったが、みゃおだけは小学生の頃から父親に隠れて通うようになった。孫と言うだけで生きているだけでも可愛いのに、懐いてくるものだから際限がない。
いつになるかわからないが、もし死ぬ時が来たら手持ちのビルの1つ2つ3つ4つは贈与税の諸々と折り合いをつけて相続させてやりたいくらいには可愛い。
みゃおは鞄からタブレット端末を取り出し、机の上へ置いた。画面には新聞記事、事故記録、動画から切り抜いた画像、失踪者を捜す告知、閉鎖された矢崎のSNSアカウントが、数十個のタブに分けて開かれていた。
「この前の子、いなくなったんでしょ」
「そうだねえ」
「殺されちゃった?」
「人を訪ねてきて、最初に聞くことがそれかい」
「だって気になるじゃん。警察の記録だと、ここから一人で帰ったことになってる。でも、ばあちゃんのところに来る前までの情報はかなり集められたのに、ここから先がすっぽり抜けてるんだよね」
「抜けたままにしておけばいいじゃないか」
「やぁだ。気持ち悪い」
「怪異の話を集めて喜んでいる子が、何を今さら」
「違うの。途中で終わってる話が気持ち悪いの。ミステリー騎士の動画も保存したし、河川敷の映像も音声も残ってた。お父さんとお母さんとおばあさんの事故は、多少伏せられてるけど公的な記録で追えるっしょ? 友達の事故や失踪も、名前と場所を変えれば使える。でもさ」
みゃおは画面を指で滑らせ、何ページも連なった原稿を女へ見せた。そこには矢崎の家族が死んだ順番、友人たちの最期、怪異の由来、ミステリー騎士が守った禁止事項まで、細かな時系列で整理されていた。女は一目見ただけで顔をしかめた。
「ずいぶん調べたね。悪趣味な子」
「マメなの! でもさあ、こういう情報とか動画とかは見れても、本人の気持ちとか、その時どう思ったかは本人に聞かなきゃ分かんないじゃん!」
「分からないままで書けばいいだろう。想像しなさいな」
「無理。知ってるふりして勝手に気持ちを書くとファンタジーになっちゃうし。屋根の上にあの……パパさん? が来た時、本当に怖かったのか、撮れ高が欲しかったのか、友達の前で格好つけたかったのか。追いかけたあとで後悔したのはいつなのか。自分のおばあちゃんとはどういう別れ方をしたのか、目の前で連れていかれたの? それとも知らないうちにやられたの? そういうの、記録には残らないでしょ」
「だからって本人へ聞くのかい」
「いるんでしょ」
女は紅茶のカップを置いた。陶器と受け皿が触れ、小さく硬い音を立てる。みゃおの背後には、誰もいなかった。少なくとも、みゃおにはそう見えている。けれど女の目は、少女の肩越しにある部屋の隅へ向いている。そこには日光が届かず、昼間でも黒い影が溜まっていた。床には濡れた靴で歩いたような染みが一つだけ残り、乾くことなく鈍く光っている。
「いるよ」
「やっぱり!」
「喜ぶことじゃない。あの子は、まだ自分がどこにいるのかも分かっていない。自分が死んだことも、半分程度しか理解していないよ」
「半分分かってるなら、半分ずつ聞けばいいじゃん」
「なんて傲慢な子だこと」
みゃおは立ち上がると女の隣へ移動し、ソファの肘掛けへ腰を乗せた。甘えるように肩へ額を擦りつける。膝の上のうさぎが押し潰され、首の鈴が小さく鳴る。
「お願い、ばあちゃん。矢崎くんに聞いて。私が質問するから通訳してよ」
「嫌だよ。死んだばかりの人間はめんどくさいんだ」
「ねーえー。おーねーがーいー! 面白くするからあ! 個人名は変えるし、事故の細かいとこも変える。矢崎義之は別の名前にするし、ばあちゃんも若くて綺麗な謎の霊能者として出すからあ!」
「そこは事実じゃないか」
「自分で言うんだ」
みゃおは笑い、女の肩へ両腕を回した。
「ばあちゃん大好き!」
「はいはい。そんなにくっつくんじゃないよ。紅茶がこぼれるだろう」
「やってくれる?」
「ばあちゃんは孫のわがままには勝てないからね。しかたない」
「やった!」
女は呆れたように息を吐くと、膝の上にいた白いうさぎのぬいぐるみを両手で持ち上げた。
青いガラス玉と赤いボタンを、自分の顔の前へ掲げる。みゃおには何も見えない。だが女の目には、部屋の隅で膝を抱える少年の姿が見えていた。全身が濡れ、髪から絶えず黒い水を滴らせている。
両手で耳を塞ぎ、俯いたまま、聞こえないはずの雨から逃れようとしていた。女はうさぎの目を通してしばらく眺めたあと、静かに呼びかけた。
「矢崎義之くん」
部屋の隅にいる少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「こちらの騒がしい子が、お前さんへ話を聞きたいそうだよ」
「騒がしいは余計だよ、ばあちゃん。まず、河川敷へ行った時のことから聞いて。動画を撮って投稿するつもりだったのか、それとも友達同士で見るだけだったのか。あと、ミステリー騎士の動画にコメントしたかどうかも」
「一度に聞くんじゃないよ。死人は生きている人間と違って、記憶の順番がこんがらがってるんだから」
「それも書いとく。聞き取りは供述が前後する場合があります、って」
「書かなくていい」
「えー……。モキュメンタリーなんだから、取材過程もそれっぽくしたいのにぃ……」
「全く、変な趣味を持っちゃってまあ……」
「知ってる。ほら、早く始めよう。今日中に初稿を完成させたいから」
女はうさぎを掲げたまま、空いている手でみゃおの額を軽く小突いた。
「ほら、今からやるから筆持ってきなさい」
「ボイスレコーダーあるから大丈夫」
「こういうのはうまく録音できないものだよ」
「いーん、手間がかかるぅ……」
みゃおは露骨に頬を膨らませたものの、文句を言いながらも女の隣から離れようとはしなかった。むしろソファの肘掛けからずり落ちるように身を寄せ、女の肩へ頭を預ける。
缶バッジで埋め尽くされた鞄が床へ落ち、いくつもの同じ顔が一斉にこちらを向いたが、みゃおは気にも留めず、もっと撫でろと催促する猫のように、黒髪の下へ額を押し込む。
「人に頼んでおいてなんて失礼な子よ。孫じゃなかったら許さなかったよ」
女は口では呆れながら、空いた手をみゃおの頭へ置いた。幼い頃から何度もそうしてきたのだろう。髪を乱さないよう、頭の形に沿ってゆっくりと撫で、耳の後ろへ流れた一房を指先で整える。その手つきは、膝のうさぎを扱う時よりもずっと慣れていて、優しかった。
「ごめんねばあちゃん、可愛いから許してね」
反省した様子もなく目を細め、撫でる手へ自分から頬を擦り寄せた。女はまったく、仕方のない子だと言いたげに眉を下げる。
「可愛く産んでくれたママに感謝しな」
女の指が、みゃおの髪をもう一度ゆっくりと撫でる。その向こう、誰の目にも留まらない部屋の隅で、闇よりもなお深い黒が、一度だけ身じろぎしたのをうさぎだけが見ていた。




