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捨てられた令嬢と 怒れる隣国の使者

掲載日:2026/06/29

 結界の森は、長いあいだ、国境ではなく物語だった。


 アルベリア王国の東に横たわる森は、地図の上では隣国との境目に違いなかった。実際には、ほとんど誰も越えられない壁として扱われていた。


 猟師は入って三日後、同じ場所へ戻される。商人は荷馬車ごと眠らされる。学者は結界の外縁に立っただけで、自分の母語を忘れかけたという。森の向こうにある葦原皇国は、私たちにとって隣国というより、児童書の奥に描かれたおとぎの国に近かった。


 月のように白い肌。夜のような黒髪。絹を幾重にも重ねた衣。木と紙と香の匂いがする御殿。庭には水が流れ、季節ごとに花を眺め、食事には細い箸という棒を使い、手紙には歌を添える。葦原皇国は、そんな国として語られていた。


 不思議なのは、葦原皇国にまつわる児童書の作者が、どれもはっきりしていないことだった。

 古い写本にも、町の貸本にも、貴族の子供部屋に置かれる絵入りの本にも、似たような葦原皇国が描かれている。

 細かな作法や建物の造り、衣の重ね方、食事の席での振る舞いまで妙に詳しく、しかも本ごとに大きな食い違いがない。

 だから昔から、夢の中で森を越えた魔道士がいたのだとか、結界に飲まれながらも一度だけ向こう側を見た旅人がいたのだとか、いろいろな説が語られていた。どれも証拠はない。けれど、まったくの空想だけで書かれたにしては、どの物語も同じものを見ていた。


 葦原皇国から見たアルベリア王国も、きっと似たようなものだったのだろう。


 後に聞いたところによると、あちらにもアルベリア王国を描いた古い物語がいくつも残っていたらしい。

 石の城に住む王。鐘の音で祈る民。銀の器で食事をし、夜ごと火を灯し、音楽に合わせて男女が手を取る国。葦原皇国では、高名な陰陽師が式神を飛ばして森の向こうを覗いたのだとか、神隠しにあった子供が一晩だけ異国の城で眠ったのだとか、そんなふうに伝えられていたという。

 私たちが夢見の魔道士や迷い旅人を語ったように、あちらもまた、確かめようのない誰かの目を信じて、こちらを物語にしていたのだ。


 


 その結界が、ある年を境に緩みはじめた。


 はじめは、森で迷った旅人が、これまでとは違う場所へ抜けたという話だった。次に鳥が越えた。鹿が越えた。人も越えた。森はまだ深く、結界も完全には消えていない。それでも絶対の壁ではなくなった。


 両国の学者たちは文献と地図を抱えて大騒ぎし、神官は祈りを捧げ、商人は早くもそろばんを弾き、貴族たちは慌てて領地の古い記録と街道の様子を調べ直した。これまで身元の知れない旅人や病人として扱われていた者たちの中から、数名が隣国の民だと判明し、騒ぎはさらに大きくなる。


 隣り合っていながら何百年も手を取り合えなかったふたつの国が、いまさら初めましてと挨拶を交わすことになったのだ。


 婚姻の話が出るのは早かった。


 王族同士、あるいは公爵家同士で結ぶのが、最も分かりやすい。問題は、断絶が長すぎたことにある。

 互いの礼法も、言葉も、結婚観も、家というものの重さも、子の扱いも、祭事も、喪の作法も、すぐに飲み込めるものではない。作法の数々をお互いに擦り合わせする必要があった。こちらでは礼儀であれど、向こうでは無礼にあたる。同じ国でさえ問題が起こりがちなことを、数百年間絵本でしか知らない国を相手に問題なくこなせ、というのは、いかに高貴なお方々であっても難しいことでしょう。

 やんごとなき方々の身をいきなり差し出し、婚姻の席で取り返しのつかない無礼が起これば、隣国同士という近すぎる距離で、互いに悪感情を育てることになりかねない。


 物理的に近い国同士、敵対して得をすることなどひとつもない。互いの国力も、文化も、腹の内もまだ曖昧な今こそ、確かな繋がりが必要だった。


 なので、まずはお試しに、という話になった。


 たいへん失礼な言い方ではある。私の家は、その「お試し」にちょうどよかったらしい。


 ローレン男爵家は古くはあるものの、大きくはない。王家に近すぎず、遠すぎもしない。父は堅実で、母は礼儀に厳しく、私は学園を出たばかり。婚約者はおらず、結婚にはちょうどよい年頃だった。

 両国の交流のための、最初の婚約。その相手として選ばれたのが、葦原皇国から留学してきた中臣 秋親さまだ。


 秋親さまは、美しい人だった。


 アルベリアの人間には珍しい黒い髪。まっすぐで艶があり、光を受けると濡れているみたいに見える。肌は白く、目元は涼しく、背筋が伸びていた。葦原の衣を着て立っている姿は、それだけで絵になった。


 最初に紹介された時、私は素直に、まあ本当に物語の方みたい、と思った。口には出していない。幼いころなら言っていたかもしれないが、婚約者になる相手に向かって「物語の騎士みたいですね」はさすがに失礼だと分かるくらいには淑女ですので。


 物語の方みたいな人は、この国に来てからずいぶん持て囃された。


 学園では女生徒が遠巻きに眺め、舞踏会では夫人たちが珍しいお方だと囁き、商家の娘たちは黒髪を真似て染めようとした。秋親さまの国の言葉を一言でも覚えれば、異国の歌を手に入れたように喜ぶ人もいた。


 秋親さまは、はじめ戸惑っていた。やがて視線に慣れた。慣れたあとには、少しずつ背が高くなったように見えた。


 実際に伸びたのではない。増長したなあ、というのを淑女らしくまあるく言い換えただけである。私はそれを少し離れた位置から、困ったことだわ、と眺めていた。


 秋親さまを嫌っていたわけではない。婚約者として、手紙も書いた。言葉も学んだ。葦原皇国の礼法について教わる時間も作った。箸の持ち方はまだ少し怪しい。お茶をいただく時の手順は覚えた。葦原の言葉も、日常会話くらいなら分かる。たどたどしくても、天気と食事と道順、相手の体調を尋ねる程度ならどうにかなる。


 秋親さまも、こちら側の文化を一生懸命学んでいた。ひとつ気になったのは、アルベリアの本を少し変な読み方で覚えてしまったらしいことだ。



 アルベリアには、子供の躾に使う児童書がたくさんある。嘘をつく子供は舌が銀になって喋れなくなるとか、夜更かしをする子供は月に靴を隠されるとか、妹の菓子を盗んだ兄は夕食の肉が全部石になるとか、そういうものだ。

 大げさに書いて、子供に「そんなことをしてはいけません」と教えるための物語である。


 その中に、舞踏会で婚約を破棄する王子の話がある。


 王子は大勢の前で婚約者を責め、別の娘の手を取り、真実の愛だと叫ぶ。身勝手と虚栄と無知の罪を描いた物語だ。

 最後に王子は王位を失い、娘は修道院へ送られ、婚約者だった令嬢は誠実な隣国の王子に迎えられる。子供たちはそこで、約束を人前で踏みにじってはいけません、相手の名誉を傷つけることは自分の名誉も傷つけることです、と教わる。


 秋親さまは、それを恋愛の劇的な場面だと思ってしまったらしい。


 そうなるかもしれないと、薄々感じてはいた。私は父と母に相談し、王宮の担当官にも報告しておいた。証拠も集めた。

 秋親さまが特定の伯爵令嬢にばかり花を贈っていること、私宛ての手紙が減ったこと、周囲に「真の心」とか「運命」とか言い始めていること、例の児童書を何度も読み返していたこと。


 私が傷ついたからではない。両国の最初の婚約が、妙な形で壊れれば困る。本当に、男爵家の身分で背後にやんごとなき方々がついている任務なのだ。この重すぎる任務、私の方は誠実に積極的に臨んでおります! そういうアピールは家のためにも私のためにも必要なこと。秋親さまも、同じことだと思っていましたのに。



 秋親さまは、やはり、やった。


 王城の小舞踏会。銀の燭台が並び、弦楽がゆるやかに響き、夫人たちが扇を開いた夜。秋親さまは私を広間の中央に呼び出し、大勢の前で婚約破棄を宣言した。隣には例の伯爵令嬢がいて、彼は彼女の手を取り、真実の愛という言葉を使った。


 児童書の王子とほとんど同じだった。あまりにそのままで、私は少しだけ感心してしまった。異国の方なのに、ずいぶん熱心に読み込んだのね、と。


 場は凍りついた。何も知らされていなかったらしい令嬢の母親はその場で倒れ、父親は妻を抱き起こしながら、即座に娘との絶縁を宣言した。少なくとも娘の方は我が国の人間である以上、これがどれほど愚かで、どれほどありえない行いなのか、知らなかったでは済まされない。

 伯爵家がどの程度まで減罪されるかは分からない。一人娘をその場で切り捨てた判断は、多少なりとも考慮されるだろう。


 泣き崩れるべきかしら、と一瞬考えた。私には事前報告という強い味方があったし、そこまで悲しくもなかった。

 悲しみより先に湧いたのは、なぜこの人はここまで自分勝手なのだろう、という怒りだ。私たちはお互いに、国の希望を背負っていた。ある意味では、この世で唯一の同士と言ってもよかったはずなのに。


 私は礼儀どおりに背筋を伸ばし、秋親さまの言葉を最後まで聞いた。必要な返答だけをして、あとは王宮の方々にお任せする。

 大変な騒ぎではあったが、俯いて目元にハンカチをあてているだけで、涙脆いご婦人方の同情はたいそう強く買えた。難しい話し合いは、偉い方々へ丸ごとお任せできる。


 心が深く傷ついて、今は何も考えられませんわ。くすん。










 数日後、ローレン男爵家の応接室に、葦原皇国からの使者が来た。若い男が二人。


 ひとりは役人で、名を犬飼 景虎さまといった。大柄で、肩が広く、眉が太く、愛嬌のある顔をしている。黙っていれば近所の子供たちに懐かれそうな人だ。

 礼服をきちんと着て、腰に佩いた刀の柄に手を触れないよう注意している姿から、ただの気のいい人ではないと分かる。

 年は二十を少し越えたくらいに見えた。葦原皇国の人々は、なぜか皆、実年齢より若く見える。秋親さまもそうだった。犬飼さまも、本当は三十を越えているのかもしれない。分からない。役人としてここに来ている以上、少なくとも子供ではないはず。


 もうひとりは通訳で、名は藤波 雅臣さま。細身で、物腰がやわらかく、たいへん美しい人だった。

 秋親さまも美しい方ではあった。藤波さまはそれより整っている。顔立ちだけではない。姿勢やまなざし、口を開く前の静けさまで美しい。この方が秋親さまの近くにいたら、秋親さまもあそこまで思い上がらずに済んだのではないかしら、と少し思った。


 ふたりの前には、一抱えほどの木箱が置かれている。


 中身はないように見える。土産にしては物々しい。表面は丁寧に磨かれ、角には金具が打たれていた。箱の横には白い布が掛けられ、葦原皇国の紋が入っている。


 父も母も同席していた。実際に話を聞くのは、婚約を破棄された私であるらしい。犬飼さまはまっすぐ私の前で膝を折り、深く頭を下げた。





「この度は、うちの腐れ野郎が、とんでもねえ真似をしやがりまして申し訳なく思っとります」




 応接室の空気が、少し止まった。

 犬飼さまは顔を上げた。眉尻は下がり、たいへん申し訳なさそうである。今聞こえた音は、気のせいだったのかもしれない。腐れ野郎って同音異義語で別の意味があるのかも……。


 私も父も母も、護衛もメイドも、全員が頭の斜め上に『?』を飛ばしている。その隙に、通訳の藤波さまが、ほんの少しも表情を変えずに口を開いた。



「この度は、我が国の若輩が、ローレン男爵家ご令嬢に対し、到底看過できぬ非礼を働きました。まずはそのお詫びを申し上げたい、と申しております」



 犬飼さまは、そこでまた深く頭を下げた。大柄な体が畳まれるように低くなる。肩幅が広いせいで、頭を下げても存在感は大きい。その顔に浮かぶ申し訳なさは、言葉の乱暴さとまるで釣り合っていなかった。



「本来なら、俺みてえな口の悪い下っ端じゃなく、もっと上の、偉い、ちゃんとしたやつが来るのが筋です。家格だの面子だの儀礼だの、そういう面倒くせえものを全部きちんと積んだ上で、膝をついて床に額を擦りつけるべきでした。ですが、上の連中は支度だ文書だ先触れだと、とろくせえことを抜かしやがりまして。一番早くご令嬢の前に来て、頭を下げられるのが、この訳を通さなきゃ貴人の前に出るわけにいかねえような俺だけでした。ご覧の有様です。まともな謝罪の言葉ひとつ、自分の口で綺麗に並べられねえ。藤波の口を借りてでしかお詫びできねえ無作法、重ね重ね、どうかお許しください」



 藤波さまは、犬飼さまの言葉をひとつも遮らなかった。最後まで聞いてから、静かにまぶたを伏せ、同じ内容とは思えないほど美しく整った声で告げた。



「本来であれば、犬飼よりも高位の者が正式な使節として参上し、相応の儀礼を尽くした上で、ローレン男爵家ご令嬢へお詫び申し上げるべきところでございます。しかしながら、正式な手続きを整えるにはいささか時を要します。貴家とご令嬢に対する謝罪を一刻たりとも遅らせるべきではないとの判断から、最も早く参上できる者として、犬飼がこの場に罷り越しました。また、犬飼は貴国の言葉を十分に礼節ある形で扱うことが難しく、通訳を介してのお詫びとなっております。この無作法につきましても、どうかご寛恕賜りたい、と申しております」


 よく聞くと、意味としては確かに同じことを言っている。葦原皇国の通訳は、我が国よりもはるかに水準が高い。


 犬飼さまはこちらの言葉を話せるが、礼儀正しい共通語ではなかった。後で聞いた話だが、彼は正式な交流が始まる前に森を抜け、こちら側の山賊に捕まったことがあるらしい。そこで山賊たちの言葉を覚え、隙を見て逃げ、逃げるついでに賊を討ち倒したという。


 なんてこと、と思った。犬飼さま本人はその話を「ぶっ殺してやったぜ」と説明した。藤波さまは即座に「不逞の者どもを制圧し、自力で帰還したとのことでございます」と言い換えた。ぶっ殺すというのは、ぶっ殺すという意味でしかないのではないかしら。


 犬飼さまは、また頭を下げた。


「本来なら、あの馬鹿の頭を床に擦りつけて、てめえの口で謝れって言うところなんですが、あの糞虫、まだ自分が何をやらかしたか分かってねえ。頭の中に綿でも詰まってんのか、腐った粥でも詰まってんのか、開けて確かめたくなるほどでして」


 藤波さまは、静かに頷いた。


「本来であれば、当人自らがご令嬢の御前に罷り出て、心よりの謝罪を申し上げるべきところでございます。しかしながら、当人はなお事態の重大さを十分に理解しておらず、深い反省に至っていないため、現段階ではお目通りに値しない、と申しております」


 犬飼さまは悔しそうに唇を曲げる。私に対して怒っているのではない。それは表情で分かる。むしろ、私の前でこのような言葉を使わざるを得ないこと自体を恥じているようだった。大きな手は膝の上で握られ、拳が少し震えている。


「よりにもよって、異国のご令嬢相手に、大勢の前で婚約破棄だと。あの間抜け、物語の王子にでもなったつもりか。いや、王子に失礼だな。あれは王子じゃねえ。舞踏会の床に落ちた食いかすに足が生えて喋っただけだ。しかも喋る内容が全部汚え。踏んだら靴がかわいそうな類の生き物です」


「公の場において婚約の約を一方的に破棄し、さらにご令嬢の名誉を損なう振る舞いをしたことは、王侯貴族の礼法に照らしても、また人としての誠に照らしても、許されざる行為でございます。当人の未熟さは、もはや未熟という言葉では庇いきれぬ域にある、と申しております」


 父が口元を押さえた。

 咳かしら、と思うことにした。たぶん笑いを堪えたのだろう。母は扇を膝の上で閉じたまま、背筋をまっすぐにしている。母はこういう時、顔に出さない。立派だ。私も見習いたい。コツは相手の頭と肩の隙間から壁を眺める事だと教わったが、私はまだ上手くできない。


 犬飼さまは、今度は秋親さまだけでなく、相手の伯爵令嬢の方にも話を移す。


「あの尻軽の花瓶女も花瓶女で、他人の婚約者に手ぇ出しておいて、目を潤ませりゃ許されると思ってやがる。中身が空っぽだから花でも挿して飾るくらいしか使い道がねえ。いや花に悪いな。枯れ枝で十分だ。枯れ枝だってもう少し静かにしてる」


 藤波さまは、まるで詩を読むように声を整えた。


「また、当人と行動を共にしたご令嬢につきましても、既に婚約のある相手へ近づき、その立場を弁えぬ振る舞いを重ねたことは、決して軽いものではございません。涙や沈黙によって責任が薄れるものではなく、関係者すべてが相応の裁きを受けるべきである、と申しております」


「しかもあの二匹、よりにもよって貴国の子供向けの躾話を、恋の手本だと思いやがった。馬鹿にもほどがある。火事を見て暖炉だと思うようなもんだ。毒瓶のラベルに可愛い絵が描いてあったら飲むのか。崖から落ちたやつの話を読んで、よし俺も飛ぼうってなるのか。なるんだろうな、あの脳みそ干物野郎なら」


「加えて、貴国の児童向け教訓譚を正しく理解せず、戒めとして描かれた行為を模倣すべきものと誤認した点につきましても、弁解の余地はございません。文化を学ぶ姿勢を欠き、物語の意図を読み違えたことは、個人の軽率に留まらず、両国交流の場に泥を塗る行為である、と申しております」


 すごい。

 私は思わず藤波さまを見た。いまの「脳みそ干物野郎」が、「文化を学ぶ姿勢を欠き」になった。即座に美しく作り替え、罵倒の芯は失われていない。藤波さまはまるめているのではなく、綺麗に言葉を磨いている。


 犬飼さまは私の視線に気づいたのか、少しだけ肩を縮めた。大柄な方なので、縮めても縮めてもやっぱりまだ大きい。その仕草が絵本のくまさんのようで、私は怒る気になれなかった。

 私に怒る理由はない。犬飼さまは、どう見ても私のために怒ってくれている。



「それで、あの阿呆の家だが、親も親です。息子が異国で何をしてるか知らねえどころか、女に騒がれていい気になってるのを、皇国の誉れだなんだと抜かしてやがった。誉れなわけあるか。あんなもん誉れじゃねえ。家の玄関先に腐った魚を吊るして、いい匂いでしょうって言ってるのと同じだ。鼻が死んでる」


「当人の実家につきましても、息子の置かれた立場と責任を十分に理解せず、むしろ異国で注目を浴びていることを名誉と取り違えていた節がございます。家としての監督責任は重く、皇国においても厳しく問われるべきものと判断されている、と申しております」



「家ぐるみで目ぇ曇ってやがる。父親は面子だけで飯食ってるような老いぼれだし、母親は息子可愛さで鍋の蓋も開けられねえ。兄弟も揃って、うちの秋親は美しいから仕方ないだの、異国の娘が騒いだのだの、寝言を垂れてやがった。寝言なら寝て言え。起きて言うな。耳が腐る」


「一門ぐるみで目を曇らせております。家長は家の面目ばかりを重んじ、妻は息子可愛さに道理を見失い、兄弟に至っても、秋親の容姿を理由に責任を軽んじ、挙げ句の果てには異国のご令嬢に非があるかのような言葉まで口にいたしました。これは家門としての判断力を欠いたものと見なされており、当人のみならず、一族としても厳しい処分を免れない、と申しております」



「うちの国の恥です。恥って言葉じゃ足りねえ。あれは恥の皮をかぶった歩く粗大ごみだ。国境を越えた粗大ごみです。しかも勝手に踊るし喋る。迷惑極まりねえ。燃やすにも煙が臭そうだ」


「我が国の名を負って貴国へ参った者が、このような非礼を働いたことは、皇国としても深く恥じ入るところでございます。その存在そのものが、両国の信頼を損ねる重大な瑕疵となった、と申しております」



 藤波さまの声はずっと穏やかだった。穏やかなのに、内容は一切優しくない。犬飼さまの言葉は豪雨後の川のように勢いよく流れ、藤波さまはそれを透明な水路に移し替える。流れているものの温度は同じだった。罵倒の二重奏。


 秋親さまがこの場にいなくてよかった。いらしたら、たぶん泣いていたでしょう。泣くだけならまだよいけど、そこでまた、自分こそが悲劇の主人公なのだと思い直してしまうかもしれない。それは困る。あの方はもう、物語から少し離れた方がよい。

 そのような態度を取った瞬間、犬飼さまは口撃を攻撃に変えて、大変なことになりそうでもあった。外見だけでも分かる。犬飼さまは、とても強い“武士”のような方でいらっしゃる。賊を「ぶっ殺した」経歴もおありだという。秋親さまでは勝てない。

 刀を使わなくても、腕の太さが倍は違うし、藤波さまとの二対一。通訳の様子を見るだけで息がピッタリだとわかる。秋親さまなど右と左で挟まれてグチャッで終わってしまう……。


 私が『グチャッ』の秋親さまを想像していると、犬飼さまはそこでようやく木箱に手を置いた。大きな手が、箱の蓋をぼんと叩く。低く良い音がした。


「それで、五つほどになります」


「五つ、でございますか」


 秋親さまのせいで話を聞き逃してしまったのかしら。誤魔化すように首を傾げると、犬飼さまは真剣に頷いた。


「はい。あの馬鹿本人と、親父と、お袋と、兄貴と、ついでに寝言抜かした叔父。首を五つ、こちらの箱に詰めて持って参ります。ご令嬢にご覧いただいたあと、犬にでも食わせてください。場所を取るんで、先に挨拶に来ました」


 藤波さまが、まったく同じ姿勢のまま、ほんの少しだけ目を伏せた。


「当人ならびに責任を負うべき近親者につきまして、皇国では極めて重い処分が検討されております。もしご令嬢がお望みであれば、その結末をご確認いただけるよう手配いたします。また、その後の扱いにつきましても、貴家のご意向を最大限尊重したい、と申しております」


 いや、だいぶ違う。


 だいぶ違うが、意味としては同じなのだろう。重い処分とは首のことで、その後の扱いとは犬に食わせることなのだろう。


 私の頭の中に、家の犬たちの姿が浮かんだ。うちの犬は三匹いる。ミミとポーとDave the Magica(魔法のチーズ) Cheese (魔道士デイブ)Wizard。どの子も小型犬で、母の膝に乗るのが好きで、猫にも負けて転がされる。

 デイブに至っては泥に埋まりかけて泣いていた可哀想な子を、せめて名前だけは立派なものをと神話の登場人物に名を借りただけの、いちばん小さなかよわい白犬。秋親さまの首どころか、骨付き肉でも困ってしまう。魚すら焼いて解さないと食べない子達なのに。


「うちの犬は、小さい子ばかりですので」


 私はできるだけ穏やかに言った。犬飼さまが、はっとした顔になる。申し訳なさそうに眉を下げた。藤波さまは静かにこちらを見ている。


「食べきれないかと存じます」


 父がまた咳をした。今度は母が父を横目で見て、父は姿勢を正した。


 犬飼さまは、真剣に考え込んでいる。真面目な方なのね、葦原皇国の方はみんなそうなのかしら。秋親さまだけが軽薄気味だったのかも。



「小せえ犬か……。それは申し訳ねえ。では細かく刻むか、干すか、骨だけ砕くか、いや、そんなもん食わせたら腹壊すかもしれねえな。あんな馬鹿どもの肉で大事な犬が具合悪くなったら、死んでも死にきれねえ。死ぬのはあいつらだけでいい」


「大切に飼われている小さな犬たちに、穢れたものを触れさせるべきではないとのご配慮、誠にもっともでございます。ご令嬢のご懸念を受け、処分後の扱いにつきましては、改めて皇国側で責任を持って検討する、と申しております」



 犬飼さまは何度も頷いている。本気で犬の体調を心配しているらしい。いい人なのだと思う。言葉はとてもよくないけど、文化が違うとこうなってしまうのだろうか。


 やんわり断っただけでは、たぶん伝わらない。この方々は誠実で、怒っていて、結末を必要としている。

 私は、秋親さまを誰かを殺してほしいわけではなかった。彼が私を人前で傷つけようとしたことと、彼の首が私の人生に置かれることは、別の話だ。



「犬のことだけではございません。私の人生に、どなたかの死がつくのは嫌なのです。秋親さまがなさったことは、許されることではありません。

けれど、私がこれから先、結婚し、家を持ち、子を育てることがあったとして、その始まりに首が五つ並んでいたと思い出すのは、少し嫌です。私は、私の名誉を回復していただければ十分です。両国の間で、きちんと筋を通していただければ、それでよろしいのです」



 犬飼さまは、しばらく黙っていた。もともと表情の動く人なのだろう。太い眉が下がり、目が丸くなり、口元が少し開いた。やがて、胸の前で拳を握る。美しい物語を見た時のように、胸を打たれた顔だった。



「なんて優しい方だ……。あんな腐れ馬鹿に泥ぶっかけられて、それでも首はいらねえって言うのか。美しい上に心まで広い。あの糞野郎、なんでこんな方を裏切れるんだ。目ん玉ついてねえのか。ついてても節穴か。節穴でももう少しものを見るぞ」


「ご令嬢の寛大なお心に、深く感銘を受けているとのことでございます。ご自身が傷つけられたにもかかわらず、なお血による償いを望まず、両国の未来と名誉の回復を重んじられるお姿は、まことに気高く、美しく、尊いものだと申しております」



 犬飼さまは、うんうんと深く頷き、目尻に滲んだ涙を指先で拭った。

 泣いたの? それほど感動的だったの……? 葦原皇国では、侮辱に対するけじめとして、一族の首を並べるのが普通なの……?



「本当にもったいねえ。あの馬鹿にはもったいねえ。豚に真珠どころじゃねえ。豚はまだ可愛いし食える。あいつは豚にも真珠にも失礼だ。泥沼に王冠を投げ込んで、沼が王になると思ってやがる。なるわけねえだろ。ただの汚え沼だ」


「秋親殿は、ご令嬢という得難い縁を賜りながら、その価値を理解することができませんでした。その愚かさは、いかなる言葉を尽くしても庇い立てできるものではない、と申しております」



「だいたい、婚約破棄するにしてもやり方があるだろうが。いや、するな。するなって話なんだが、百歩譲って何か事情があるなら、まず家に話を通せ。国に話を通せ。相手方に詫びろ。なのに広間で叫ぶ? 馬鹿か? 鐘楼から裸で飛び降りて俺は鳥ですって叫ぶ方がまだ迷惑が少ねえ」


「仮に婚約の継続が難しい事情があったとしても、正式な手順を踏み、両家と両国の面目を守る形で進めるべきでございました。それをせず、公衆の面前で一方的に宣言したことは、礼法を欠くのみならず、関係者すべてを軽んじる行いである、と申しております」



 犬飼さまは、しばらく私の顔を見ていた。首を望まないという言葉が、ただの遠慮ではないのかを確かめているようだ。

 怒りをぶつける相手を失った人の顔ではない。こちらの意向を聞き違えないよう、言葉の奥まで拾おうとしている顔だった。



「ご令嬢。あなたにこれ以上、あの馬鹿どもの汚え始末を背負わせるつもりはありません。首がいらねえなら、首は持ってきません。ただ、あいつらが何もなく許されることは絶対にねえ。そこはご安心ください。あの腐れども、泣こうが喚こうが、家の畳の下に潜ろうが、引きずり出します」



 その声には、私を安心させようとする気遣いと、加害者を逃がさないという固い決意が、どちらも入っていた。


 荒い言葉が並んでいるのに、不思議と私へ向けられた乱暴さはない。犬飼さまは、私が拒んだものを無理に差し出すつもりはないのだろう。拒んだことを理由に、彼らの罪を軽く扱うつもりもない。その線引きが、声の低さと伏せられた目元にはっきり出ていた。


 藤波さまは、犬飼さまの言葉が終わるまで一切遮らなかった。怒りを削らず、この部屋に通る形へ変えるために、ほんのわずか間を置く。彼は犬飼さまの方を見なかった。確認する必要がないほど、言葉の向かう先を理解しているのだろう。



「ご令嬢のお心をこれ以上煩わせることのないよう、処分そのものは皇国側で責任を持って執り行います。ただし、当人ならびに関係者が何の咎めも受けずに済むことは決してございません。その点はどうかご安心ください、と申しております」



 藤波さまの訳は、相変わらず美しかった。美しいだけではない。犬飼さまの言葉に含まれていた「あなたには背負わせない」と「あちらは逃がさない」のふたつを、どちらも落とさずこちらへ渡してくれる。


 彼の声で聞くと、荒縄のようだった犬飼さまの言葉が、公的な約束として結び直される。私はそこでようやく、この二人がただ謝りに来たのではなく、葦原皇国の意思を最短で届けに来たのだと理解した。


 犬飼さまは、頭を上げなかった。私の返事を待つより先に、まだ言うべきことがあるというように。私が望まなかった首の代わりに、彼は別のものを差し出そうとしている。処罰の報告ではなく、私と家と国が失ったものを取り戻すという約束だった。



「名誉は戻します。貴国にも、貴家にも、あなたにも、きっちり詫びを入れます。あの馬鹿が広間で撒き散らした汚泥は、一滴残らずこっちで舐め取る覚悟です」


 言い切ったあと、犬飼さまは一瞬だけ口を引き結んだ。自分の言葉がまた乱れたことを恥じたのかもしれない。


 私は不快には思わなかった。広間で起きたことを、何もなかったように柔らかい布で目隠しのように覆われる方が、たぶん嫌だった。


 あの夜、秋親さまが投げた言葉は、私だけではなく、ローレン家とアルベリア王国にも届いてしまった。ならば、その後始末もまた、私ひとりの気持ちだけで終わらせるものではない。



「ご令嬢とローレン男爵家、ならびにアルベリア王国の名誉が損なわれたままにはいたしません。皇国として正式な謝罪と補償を行い、今回の件によって生じた不名誉を可能な限り取り除く所存である、と申しております」



 その言葉を聞いて、胸の奥に残っていた小さな強張りが、ようやくほどけた。


 私は秋親さまの死を望まない。でも、何もなかったことにされたいわけでもない。


 この婚約は、ただの縁談ではなかった。王命であり、両国の未来に関わるものであり、私自身もまた、自分の人生をそこへ差し出すつもりでいた。それをあのような形で踏みにじられて、悔しくなかったはずがない。すぐには泣けなかった。怒るにも、場を選ばなければならなかった。時間が経ち、頭が冷えて、事態の形が見えてくるほどに、悔しさは少しずつ悲しみに変わっていった。


 私よりもずっと激しく怒っている犬飼さまが来てくれたことは、本当は少しだけ救いだった。


 こんなことを思うのは淑女らしくないかもしれない。あの方が秋親さまやその家の方々を容赦なく罵るたび、胸のどこかがすっとした。

 もっと言ってやってくださいませ! と心の中で野次を飛ばしていた私がいたことは、否定できない。視界の端にいる私付きメイドのリリーナは確実に拳を握って目を輝かせていた。拍手をしようとしていた使用人もいる。それはやめなさい。



 私は膝の上で重ねていた手を、静かに組み替えた。父も母も口を挟まない。これは私が受け取るべき謝罪であり、私が答えるべき場面なのだと、二人とも分かってくれていた。


 犬飼さまの低い姿勢と、藤波さまのお顔を順に見る。それから、できるだけまっすぐに微笑んだ。



「ありがとうございます。犬飼さま、藤波さま。葦原皇国の誠意は、十分に伝わりました」



 犬飼さまは、そこでまた少し困った顔をした。私が名前を呼んだからかもしれない。視線が一度だけ下がる。大柄な体に似合わず、なんだか少し可愛らしい仕草だった。


 応接室には、少しだけ落ち着いた空気が戻っていた。父が正式な文書のやり取りについて確認し、母が茶を勧める。犬飼さまはカップを両手で受け取り、ひとつひとつの動作を確かめるようにして口をつけた。


 あれほど口は悪いのに、所作には乱れがない。礼を知らない人ではない。むしろ、礼を知っているからこそ、自分の言葉がこの場にふさわしくないことを分かっていて、そのたびに申し訳なさそうな顔をしていたのだと思う。


 藤波さまは茶菓子をひとつ取り、母に礼を述べてから静かに口へ運んだ。指先の動きまで整っていて、食べるというより、人を魅せるための仕草に見える。


 秋親さまの美しさは、人の目を引くためのものだった。藤波さまの美しさは、近くにある空気まで自分側に寄せてしまうものなのかもしれない。


 ふと気づいた。犬飼さまの口の悪さは、我が国の賊から覚えた言葉がそのまま移ってしまったせいだという。ならば本来の犬飼さまは、藤波さまと同じように、もっと穏やかで丁寧な言葉を使う方なのかもしれない。逆に、藤波さまも今は我が国の言葉を選んで話しているだけで、母国語ではもう少しくだけた声を出すのだろうか。

 

 私はその様子を見ながら、考えていた。


 この婚約は失敗した。秋親さまは異国で自分を見失い、私は婚約者を失い、両国は最初の試みで大きく躓いた。そこで終わりにするには、結界の森の向こうとこちらは、あまりに長く離れていた。ようやく道ができたのだ。最初の石につまずいたからといって、道そのものを閉ざすのは惜しい。


 私は少し、知りたい。


 葦原皇国の人々は、書物の中では静かで、歌を詠み、花を眺め、香を聞く人々として描かれていた。目の前の犬飼さまは、山賊の言葉で私の元婚約者を罵倒し、木箱を叩いて首の数を告げ、私の犬たちの腹具合を本気で心配している。藤波さまは、その隣で罵倒を美しい言葉へ変えながら、怒りを一度も失わない。


「ひとつ、お願いがございます」


 私の言葉に、犬飼さまはすぐに姿勢を正した。藤波さまもこちらを向く。


「此度の婚約は、このような形で終わりました。ですが、両国を結ぶ婚姻そのものが不要になったとは、私は思っておりません」


 父がわずかに顔を上げた。母は動かない。犬飼さまは、何を言われるのか分からないという顔をしている。


 私はカップを置き、少しだけ姿勢を正した。こういうことを女の側から口にするのは、はしたないと思われるかもしれない。秋親さまの件でよく分かった。遠回しな言葉は、相手が都合よく受け取れば、それだけで面倒の種になる。


 今度は、誤解の入り込む隙がないように言った方がいい。私は犬飼さまとしっかり目を合わせ、自分がいちばん可愛く、可憐に見える角度を選んで微笑んだ。



「もし葦原皇国が、なおローレン家との婚姻を望んでくださるのであれば、今度はそちらから、夫となる方をお選びくださいませ。正式なお話は王宮と父を通していただきますけれど、私は待っております」



 そこで一度言葉を切った。犬飼さまの太い眉が、わずかに動く。私はその反応を見届けてから、もう少しだけ笑みを深めた。



「私の好みとしては、大柄で、眉が男らしく、誠実に怒ってくださる方がよろしいですわ」



 犬飼さまの目が丸くなった。愛嬌のある顔が、みるみる赤くなっていく。耳まで赤い。


「それは……その、俺、いや、私どもに、そのような、ありがてえ、いや、ありがたいお言葉を」


 言葉が乱れた。罵倒ではない時の方が、むしろ話しにくそうだった。藤波さまが訳そうと口を開く。


「ご令嬢の寛大にして未来を見据えたお言葉、我ら一同、身に余る光栄に存じ……」


「待て」


 犬飼さまが、はじめて藤波さまの方を見た。


 それまで、ふたりは会話らしい会話をしなかった。犬飼さまが話し、藤波さまが訳す。それだけだった。今、犬飼さまは軽く肘で藤波さまを押した。強くはない。親しい者同士の、少しだけ乱暴な合図だ。


「私の言葉で言わせろ」


 藤波さまは、一瞬だけ目を丸くしたあと、口元をゆるめた。

犬飼さまは私に向き直る。まだ赤い。背筋を伸ばし、深く頭を下げる。今度の言葉は、こちらの国の言葉ではなかった。葦原皇国の言葉だった。


「お待たせは、いたしません」


 私は、その意味が分かった。日常会話くらいなら、葦原皇国の言葉を喋れる。伝える隙が、これまでなかった。犬飼さまは私が理解しているとは思っていないのだろう。だからこそ、母国語で、通訳を挟まずに言ったのだと思う。


 藤波さまが、やわらかく訳した。


「お待たせはいたしません、と申しております」


 犬飼さまは、また肘で藤波さまを押した。


「だから、今のは私の言葉でいいって言っただろ。私が言わないと意味がないだろう、女性にだけ言わせるのは男が廃る」


「はい。ですが、職務ですので」


「今だけ休め」


「休めません。ちゃんと言葉を学び直さなかった貴方が悪い」


「こんなことになるとは思ってなかったのだ。私だって後悔している」


 そのやり取りも葦原の言葉だった。私は聞き取れたけれど、聞き取れていないふりをした。なんとなく、その方がいい気がして。


 犬飼さまは、急に落ち着きをなくした。視線が右へ行き、左へ行き、藤波さまの方へ逃げかける。藤波さまは助け舟を出す気配もなく、涼しい顔をしている。仕方なくこちらへ戻ってきた目と私の目が合うと、犬飼さまはばっと下を向いた。耳まで赤い。ずいぶん初々しかった。先ほどまで首を五つ持ってくる話をしていた人と同じ方とは思えない。人というものは、怒る時と照れる時で、こんなにも違う顔をするのね。


 応接室の隅には、首を入れる予定だったらしい空の木箱が置かれている。茶菓子の皿には砂糖菓子がふたつ残っていた。先ほどまで処分と謝罪の話をしていた部屋とは思えないほど、空気は妙に穏やかだ。誰も、何も終わったとは思っていなかった。


 父は何かを考える顔をしていた。たぶん、王宮へ出す書状の文面と、葦原皇国側へ確認すべき手順を頭の中で並べている。母は微笑んでいた。あの顔は、きっともう次のドレスのデザインを考えている。私の新たな婚約のお披露目会のためのものだ。母はこういう時、たいへん気が早い。その気の早さを咎める気にはなれなかった。私も少しだけ、そのドレスがどんな色になるのか楽しみになっていた。


「では、お待ちしておりますね」


 犬飼さまは、額にうっすら汗を浮かべながら、何度も頷いていた。何か言わなければならないと思っているのに、何を言えばいいのか分からないという顔だ。私のひと言に返事をするだけで精一杯になっている。


 藤波さまが、今度は何も訳さない。その沈黙を、少し嬉しく思った。職務を忘れたわけではないのだろう。今の犬飼さまの赤面や頷きまで、美しい言葉に整える必要はないと判断したのだと思う。


 通訳されなかったことで、かえって犬飼さま自身の反応がそのまま私の前に残った。言葉になる前の照れや戸惑いは、たぶん、どの国でもあまり変わらない。


 葦原皇国の言葉で、通訳を挟まない犬飼さまは、どのように話すのだろう。罵倒ではなく、謝罪でもなく、役目としての言葉でもない時、どんな声で礼を言い、どんなふうに笑うのだろう。


 私に向ける言葉は、やはり少し不器用なのかもしれない。その不器用さのまま語られる言葉なら、私はきっと、聞いてみたいと思う。


 結界の森は、まだ完全には消えていない。けれど道はできた。


 今の私は、その道の向こうから来る次の言葉を、少し楽しみにしている。



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両国の関係に亀裂をいれることを望まず無礼者にさえ慈悲をかける優しい令嬢に感謝しつつも 自国の為にもこの二人が恥を生かしておく訳がない。 色々と事が収まり次第、即刻消すだろうね笑
ん? 葛篭には首が五つ入っているのではなく、これから葛篭に首を入れる所存、と言う決意表明なの? せめて国に居る馬鹿家族の分の首は、葛篭に入れて持って来て謝るべきじゃ無いかな? どうせなら加害者本人たち…
めちゃくちゃ好きです〜! ご令嬢可愛いし翻訳力がすごい……粗野な言葉が瞬間的に雅になっていくのっていいですね、その場にいたら耐えられなかった気がする…… あちらの国の馬鹿の首をどうするか会議もみたくな…
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