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むかえにきたよ  作者: もこもこハダカデバネズミ


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ジャノメさんの怪

 その動画を初めて見た時、再生回数はまだ三万にも届いていなかった。


 投稿したのは『怪談検証チャンネル 夜行道』という三人組のYouTuberだ。当時の登録者数は十万人ほど。心霊系の視聴者にはそれなりに知られていたが、一般層にまで名前が通っているわけではない。廃墟へ忍び込んで騒いだり、心霊スポットで酒盛りをしたりする連中ではなく、インターネット上に出回る怪談や降霊術の由来を調べ、可能な限り元の形に近い方法で検証することを売りにしていた。


 彼らが動画で繰り返し口にしていた決まりは三つある。私有地には勝手に入らない。無関係な人間を巻き込まない。怪談に禁止事項がある場合は、どれほど馬鹿馬鹿しく思えても必ず守る。


 面白い映像を撮るためというより、自分たちが無事に帰るための決まりだった。彼らはホラーを愛していたが、犯罪や迷惑行為を楽しみたいわけではない。気の合う仲間と遊び、その様子を動画にしていたら、少しばかり有名になってしまった。そういう集団だったのだと思う。


 問題の動画につけられていた題名は、『【閲覧注意】雨の日に白い車へ現れる怪異“ジャノメさん”を呼び出した結果』。


 冒頭、メンバーの一人である石黒が、コンビニで売っている透明なビニール傘を差して画面へ現れる。雨はかなり強く、傘を叩く水音が絶えずマイクへ入り、石黒が口を開くたびに声の端を削っていた。


 場所は郊外にある閉店済みのファミリーレストランだった。道路から少し奥まったところに広い駐車場があり、店舗のガラスには内側から板が打ちつけられている。看板は外され、色褪せた支柱だけが空へ向かって残っていた。道路の向かいには、同じように閉店したコンビニの空き店舗。周囲に民家は少なく、深夜になれば大型車が濡れた道路を走る音と、川の流れと、雨しか聞こえない。


 敷地は所有者から許可を得て借りたものだった。撮影に使う白い乗用車は夜行道で所有している車で、レンタカーに障りが出たら申し訳ないからという理由で持ち込まれた。そういうところが、いかにも彼ららしい。


「今回検証するのは、“ジャノメさん”と呼ばれている怪異です。雨の日、白い車を持っている人間の前に現れ、運転手を事故に遭わせる、あるいは呪い殺すといわれています」


 石黒はスマートフォンに表示したメモを見ながら、集めた情報を読み上げた。


 ジャノメさんは一本足の男の姿をしている。もう片方の足が失われているわけではない。腰の付け根から折れ曲がり、地面へ着かないまま引き摺られている。頭部は車輪に潰されたように変形し、顔面の大半が削り取られている。顔があった場所には黒い穴が開き、その周囲を歯のようなものが囲んでいるため、遠目には巨大な目玉にも見える。


 雨の日に白い車のそばで手順を行うと現れ、車の持ち主か、その時に運転席へ座った人間を殺す。ただし、子供の泣き声を聞くと、その場を離れていく。


「そこで今回は、事前に用意した子供の泣き声を使います。ただし、これにも細かい決まりがあります」


 画面が切り替わり、黒地に赤い文字で禁止事項が表示された。


《泣き声を十秒を超えて再生してはならない》

《逃げるジャノメさんを追ってはならない》

《ジャノメさんが立ち止まっても、声をかけてはならない》 《車のエンジンが勝手に始動した場合、運転席に座ってはならない》


 後部座席にいた小山がカメラへ顔を寄せた。


「子供の泣き声が苦手なら、なんで十秒以上聞かせちゃ駄目なんですかね」


「苦手だからって、いくらでも使っていいとは限らないんじゃない?」


「虫除けスプレーみたいな? ほら、人間にも毒って感じ」


「怪異をアースジェット扱いするなよ」


 車内に笑い声が広がった。ふざけてはいたが、禁止事項そのものを軽く見ている様子はない。泣き声は十秒で自動的に止まるよう編集され、八秒のところには警告音が入っていた。怪異を追わないよう、車外へ出るのは石黒一人だけ。車の鍵は撮影責任者が預かり、たとえエンジンが勝手に始動しても、誰も運転席へ近づかない。


 怪談を扱う動画では、こうした確認場面は飛ばされやすい。実際、再生バーの山も怪異が現れる箇所だけ不自然に高くなっていた。けれど、あとから見返すと、この退屈な打ち合わせこそが、三人を生きて帰したのだと分かる。


 呼び出しの方法は単純だった。雨の降る日の午前一時から三時までの間、白い車を街灯の少ない場所へ停める。すべてのドアを閉め、エンジンを切る。運転席を空にしたまま、車外からワイパーを三回だけ手で動かし、フロントガラスを三度叩いて、「傘を忘れましたよ」と呼びかける。


 石黒は傘を置き、車の前へ立った。雨に打たれた髪が額へ貼りついている。ワイパーを三回動かしたあと、濡れた指の関節でガラスを叩いた。車内から仲間たちが手を振り、石黒も明るい顔で応じる。


 コン、コン、コン。


「傘を忘れましたよ」


 声は暗い駐車場へ吸い込まれ、すぐに雨音だけが残った。


 石黒は駆け足で後部座席へ戻った。固定カメラには、三人の乗った白い車と、黄色い街灯の光を斜めに横切る雨が映っている。濡れたアスファルトの上を水が流れ、低い場所へ集まって排水溝へ落ちていた。


 最初の数分間は何も起こらなかった。


「やっぱり今回も何も出ないんじゃない?」


「まあ、普通はそうだから」


「帰りにラーメン食おうぜ」


「この時間から?」


「夜に食うから美味いんよお」


 そんな話をしている間も雨は降り続けた。軒先からまとまって落ちた水が金属製の室外機へ当たり、甲高い音を立てる。遠くをトラックが走り去り、タイヤが濡れた道路を擦る音だけがしばらく残った。


 十五分ほど経った時、車のワイパーが動いた。


 ぎゅっ、と濡れたガラスを擦り、元の位置へ戻る。


 誰も操作していない。車の周囲にも、雨以外に動くものは見当たらなかった。ただ、水滴が払われてから再びガラスを覆うまでのわずかな間、細い指の跡が一本、内側からなぞったように残った。気づいたのは石黒だけだった。


 小山が何か言いかける。石黒はすぐに手を上げ、声を出すなと制した。


 三人は後部座席の中央へ身を寄せた。肩も膝も触れ合っているのに、互いの顔を確かめる余裕がない。呼吸音まで拾われるのではないかと思うほど、車内は静まり返っていた。


 ワイパーが雨水を押し退けたフロントガラスには、二本の黒い弧が浮かんでいる。


 その向こうに、人が立っていた。


 最初に見えたのは肩から上だけだった。濡れた黒い服を着た、背の高い男のように見える。首はひどく傾き、耳を肩へ押しつけるような角度で止まっていた。


 やがて、その体がゆっくり横へずれる。


 車体に隠れていた下半身が現れた瞬間、カメラの後ろで誰かが鋭く息を吸った。


 足は一本しかないように見えた。だが、右足も残っている。腰の付け根から外側へ折れ曲がり、太腿の途中から突き出した骨が、濡れたズボンの布を内側から持ち上げていた。膝から下は後方へ垂れ下がっている。


 男は左足だけで立っていた。


 体を沈め、跳ねる。


 どん、と裸足が地面を踏み、次に、ぺしゃ、と水を吸った皮膚がアスファルトから剥がれた。


 もう一度。


 どん。


 ぺしゃ。


 跳ねるたび、折れた右足の内部で骨同士が擦れているのか、雨音の底から、ぎち、ぎち、と小さな軋みが聞こえた。


 男は車の周りを回り始めた。顔をこちらへ向けたまま、一本足で少しずつ近づいてくる。喉からは、声とも呼べない音が漏れていた。


「ォ……ォォ……ァ……」


 呻いているようにも、遠くで誰かが泣き叫んでいるようにも聞こえる。音の高さは定まらず、息を吐くたびに喉の奥で肉が震えていた。跳ねるたびに体を深く沈めるため、近くにいるはずなのに顔はまだ見えない。カメラだけが正面を向き、三人は頭を下げて黙り込んでいた。


 やがて、男はフロントガラスの前へ出た。


 そこで初めて、頭部の全体が映った。


 顔は、ほとんど残っていなかった。


 額から顎まで平らに潰れ、その上から硬い地面へ押しつけられたまま引き摺られたように、皮膚も骨も削れている。鼻も瞼も唇もなく、顔面の中央には不自然に大きな穴が開いていた。穴は喉の奥まで続いているように黒く、その縁には大きさの揃わない歯が並んでいる。


 口が顔全体へ広がったようにも、巨大な眼球がこちらを覗いているようにも見えた。


 歯茎には細かな砂利や透明なガラス片が食い込み、雨水が流れるたび、赤黒い血が糸を引く。穴は呼吸に合わせて縮んだり開いたりし、そのたび縁の歯がかすかに噛み合った。


「ジャノメさんだ……」


 カメラ担当の濱田が呟いた瞬間、誰も触れていない車のエンジンが始動した。


 ヘッドライトが点灯し、男の全身を正面から照らす。


 黒く見えていた服は、血と泥で変色した灰色の作業着だった。背中や肩は広い範囲で擦り剥け、裂けた布の隙間から白い骨が覗いている。折れた足の付け根からは細い腱が何本も垂れ、跳ねるたびに濡れた糸のように揺れた。


 男は運転席側へ回り込もうとした。


 石黒が小山へ合図を送る。小山は震える指でスマートフォンの再生ボタンを押した。


『えーん! えーん!』


 幼い子供の泣き声が雨の中へ流れた。


 男の動きが止まる。


 顔の穴が、それまでよりも大きく開く。縁の歯が剥き出しになり、雨に濡れて鈍く光った。襲いかかろうとしているようにも見えたが、男は動かない。頭を少しずつ傾け、泣き声の方向を探しているようだった。


『えーん! えーん!』


 男は車から離れた。


 一本足で、暗い駐車場の奥へ跳ねていく。


 どん。ぺしゃ。

 どん。ぺしゃ。


 来た時よりも速かった。ほとんど駆けるような勢いで雨の中を遠ざかっていく。石黒たちには、子供の泣き声から逃げているように見えた。


 誰も追わなかった。


 カメラだけが遠ざかる背中を映し続ける。再生から八秒で電子音が鳴り、十秒きっかりで泣き声が途切れた。


 その瞬間、駐車場の端まで行っていた男が止まった。


 体は前を向いたままだった。首だけが、ゆっくりと後ろへ回り始める。もともと折れていたのか、動くたびに頸椎のあたりから、小枝を一本ずつ折るような音がした。


 やがて、顔の穴がこちらを向く。


「ォオ……ォ……ァァ……」


 次の瞬間、駐車場の街灯が一斉に消えた。


 映像はほとんど真っ暗になり、車のヘッドライトだけが斜めに降る雨を白く照らしていた。三人は悲鳴さえ上げなかった。固定カメラも照明もその場へ置いたまま後部座席から転がり出ると、近くへ待機させていた別の車まで走った。


 ドアが乱暴に閉まり、濱田が半泣きの声で「早く、早く」と繰り返す。エンジンがかかり、車はそのまま駐車場を出た。


 翌朝、彼らは日が昇るのを待って機材を回収しに戻った。


 白い車は昨夜と同じ場所に停まっていた。エンジンは切れ、すべてのドアに鍵がかかっている。窓を割られた形跡も、こじ開けられた跡もない。


 それなのに、運転席だけが水浸しになっていた。


 屋根や窓から雨が入り込んだわけではない。天井もドアの内側も乾いている。座面と背もたれだけが、人ひとり分の濡れた体を長いあいだ押しつけていたように、ぐっしょり水を吸っていた。


 フロントガラスの内側には、小さな両手の跡が残っていた。五歳ほどの子供が、車内から外を覗こうとして、背伸びをしながら手をついたような形だったという。


 動画の最後で、三人はスタジオに集まり、撮影した映像を見返していた。普段なら驚いた顔を何度も拡大し、派手な字幕や間の抜けた効果音を足して、多少強引にでも笑える形へ持っていく。だが、この回だけは編集も控えめで、三人とも画面を見たまま、なかなか口を開かなかった。机の上には飲みかけのペットボトルが並んでいたが、誰も手を伸ばさない。


「いままで、“何か出た”時は、大抵、不良か不審者でした。でも今回は、本当に何かが出たんだと思います」


 石黒はそう言って、一度視線を落とした。モニターには、雨の中で首を傾けた男の姿が静止している。編集で何度も見たはずなのに、正面から見続けることができないらしく、すぐに画面から目を逸らした。


「編集して初めて気づいた音も、かなりあります。現場では雨が強くて、あの呻き声も、骨が鳴ってるみたいな音も、ほとんど聞こえてませんでした」


 小山も普段より声を落としていた。両手を組み、親指だけを何度も擦り合わせている。


「逃げていくところを見た時、一瞬だけ、追ったらもっと撮れるんじゃないかと思いました。正直に言うと。でも、追わなくてよかったです。あそこで追っていたら何が起きたのか、今でも分かりません」


 ほかの二人は何も返さなかった。単に怖かったから逃げた、という話ではないのだろう。


「こういう動画を撮っているからこそ、ルールは守らないといけないと思います。理由が分からない禁止事項でも、昔からそう伝わっているなら、何かしら意味がある。こういう“駄目”には、駄目だと言われるまでに至った誰かの失敗が積み重なっている。事故かもしれないし、命に関わることかもしれない」


 石黒はゆっくりと言い切った。視聴者へ向けてというより、あの場で一瞬でも好奇心に引かれた自分たちへ、もう一度念を押しているようだった。


「全員、無事に帰れて、本当によかったです」


 隣に座っていた濱田が、ようやく少し笑った。ひどく疲れた顔だったが、その笑みで張りつめていた空気がわずかに緩んだ。


「しばらくは、安全な動画で心を癒やしたいですね」


「安全なやつって何?」


「コックリさんとか」


「キューピッドさまでもいいよな」


 三人は声を合わせ、ようやくいつもの調子で笑った。まだ少し力のない笑いだったが、編集で足したものではない。撮影後、初めて出たまともな笑い声だった。


 画面はそのまま暗転し、動画は終わる。





 コメント欄には、作り物だ、CGだ、車内に人を隠していたのだろう、という書き込みが大量についた。一方で、禁止事項をきちんと守ったことを評価する声も少なくなかった。


 その中に、当然のように、こんなコメントが混じっていた。



《十秒以上流したらどうなるんだろ》

《逃げるなら追っかけて正体見ればよくない?》

《泣き声をループさせたら無敵じゃん》

《誰かやってみて》



 それを読んだ一人が、当時高校二年生だった高瀬直人である。


 ここから先は、高瀬が残した動画と音声、警察の捜査記録、同級生の証言、彼の残した言葉、それから最後に訪ねたという霊能者の話をつなぎ合わせたものになる。


 高瀬は心霊現象を信じていなかった。


 怖くなかったわけではない。むしろ、かなりの怖がりだったらしい。ただ、それを周囲に知られるのが嫌だった。怪談を聞けば鼻で笑い、驚かされれば先に怒る。怖がっている自分を認めるくらいなら、怖がる人間の方を馬鹿にした方が楽だったのだ。


 夜行道の動画も、よくできた演出だと思っていた。


 白い車なら、父親が所有していた。大きめのミニバンで、通勤にも家族で出かける時にも使われていた。高瀬は父親の鍵を持ち出し、雨の降る金曜日の深夜、友人三人と河川敷へ向かった。


 高瀬は免許を持っていなかったため、運転したのは年上の友人である森本。残る二人は高瀬と同じ高校の生徒だった。


 撮影された映像は、初めから笑い声で満ちている。


「午前二時十三分でーす。これからジャノメさんを呼びまーす」


「事故ったら高瀬の親父に殺されるからな」


「おばけより親父の方が怖い説あるだろ」


「泣き声でビビって逃げるんだから、余裕だって」


 廃レストラン横の川は雨で増水していた。街灯の少ない目立たない場所へ車を停め、ヘッドライトを消すと、数メートル先にいる友人の顔さえ見えない。暗闇の向こうから、濁った水が大量に流れていく音が聞こえていた。


 高瀬がワイパーを三回動かし、フロントガラスを叩く。


 コン、コン、コン。


「傘を忘れましたよー」


 言い終えたあと、全員が笑った。


 十分ほど待っても何も起こらなかった。雨粒が屋根や窓を細かく叩き、止まったワイパーの向こうを幾筋もの水が流れている。張りつめていた空気も次第に緩み、誰かが「やっぱり仕込みじゃん」と笑う。


 森本が後部座席から身を乗り出し、運転席へ移ろうとした時。


 どん。


 鈍い音とともに金属板が大きく沈み、天井の内張りが車内へわずかに膨らんだ。枝や石が落ちた音ではない。もっと重く、柔らかい。高いところから人間が膝を抱えて落ちてきたような衝撃だった。車体が一度深く沈み、遅れてサスペンションが軋む。


 誰も声を出せなかった。森本は身を乗り出した姿勢のまま固まり、ほかの三人も、いま頭上にあるものの重さを量るように天井を見上げていた。


 屋根の上から、濡れた布を引きずる音がした。何かがゆっくりと姿勢を変えている。


 やがて、最初とは少し違う場所が鳴った。


 どん。


 今度は真上だった。天井の鉄板が押し潰され、内張りが頭すれすれまで垂れ下がる。その直後、吸盤のようなものが金属から剥がれる音がした。


 ぺしゃ。


 一拍置いて、別の場所へ重みが落ちる。


 どん。


 ぺしゃ。


 何かが屋根の上で跳ねていた。


 ただ跳び回っているわけではない。一本の足で立ち、倒れかけるたびに大きく跳ね、無理やり体勢を立て直している。だから着地の間隔がひどく不揃いなのだ。


 衝撃のたびに車体が左右へ揺れ、窓枠が細かく軋んだ。天井の鉄板は少しずつ潰れ、丸いへこみが車内へせり出してくる。内張りの上で金属が裂ける音がした。細い亀裂から、黒い血に濡れた歯が一本ずつ押し込まれてく。


 森本が喉を潰すような悲鳴を上げ、反射的にキーへ手を伸ばした。


「待て! エンジン、勝手にかかるまで触るなって!」


 高瀬がその手首を掴んだ。声は震えていたが、恐怖だけではない。目は天井へ釘づけになり、頬が興奮で引きつっていた。


 本当に来た。自分たちが呼び出したものが、いまカメラのすぐ上にいる。


 その事実に頭を焼かれ、逃げるという考えが抜け落ちていた。


「来てる。絶対、屋根の上にいる」


 高瀬はスマートフォンを両手で構え、へこんだ天井へレンズを向けた。天井はぎしぎしと下がり続け、やがて最も深く潰れた場所から液体が垂れた。黒い染みが内張りへ広がり、粘ついた雫が糸を引いて落ちてくる。透明な雨水ではない。泥水より濃く、湿った土と腐肉、錆びた鉄を混ぜた臭いが車内に満ちた。


 一滴が高瀬の頬へ落ちた。反射的に拭い、ライトへかざす。指先には暗い血がまとわりつき、白い脂肪の粒と細い肉片が混じっていた。


 息を呑んだ瞬間、頭上で布の繊維がぷつぷつと切れた。濡れた染みの中央に裂け目が走り、その奥から白いものが覗く。


 初めは爪に見えた。だが、上下に不揃いに並び、どれも先が欠け、根元に黒い血がこびりついている。


 歯だった。


 屋根の上のものは、顔に開いた穴を鉄板へ押しつけ、そのまま車内を覗いていた。裂けた布の隙間から歯列が現れ、噛むたびに内張りを少しずつ巻き込んでいく。目も鼻もない。ただ口だけが天井へ張りつき、真下にいる高瀬へ向かって、ゆっくりと開閉していた。


「ォォォ……ァァ……」


 声に合わせて黒い液体が歯の間から滴り、高瀬のスマートフォンへ落ちる。彼はようやく身を引き、用意していた音源を再生した。


『えーん! えーん!』


 子供の泣き声が車内へ流れた瞬間、天井へ張りついていた口が大きく開いた。呻き声が途切れ、屋根の上にいたものが弾かれたように跳び退く。車体が大きく横へ揺れた。


 窓の外を黒い影が横切った。ヘッドライトの端へ入った時、その全身が一瞬だけ見えた。右脚は腰の付け根から外側へ折れ、膝から下を後方へ垂らしていた。突き出した骨と裂けた布が、跳ねるたびに揺れている。


 高瀬は迷わずドアを開けた。冷たい雨と腐臭が一気に車内へ吹き込み、隣にいた友人が慌てて腕を掴む。


「おい、追うなってあっただろ!」


「泣き声あるから大丈夫だって!!」


 高瀬が用意していたのは、夜行道が使った十秒の音源ではなかった。同じ泣き声が一時間、途切れずに繰り返されるよう編集された動画だった。再生画面には、まだ五十九分以上残っている。


『えーん! えーん!』


 暗闇の中を怪異が跳ねていく。泣き声を嫌がって逃げているように見えた。だが時折、顔の穴だけはこちらを向いていた。


 体は前へ進んでいるのに、首が一周近くねじれ、歯の並んだ穴だけが、高瀬の持つスマートフォンを見つめている。


 高瀬はカメラを構えたまま、その後を追った。ぬかるんだ河川敷を走り、水溜まりを踏み散らす。足元はほとんど見えず、草へ足を取られるたび画面が激しく揺れた。置いていかれることを恐れた友人たちも、罵声を上げながら後に続いた。


『えーん! えーん!』


 暗闇の向こうから、一本の足が地面を踏む音が返ってくる。


 どん。


 潰れた肉が泥から剥がれる。


 ぺしゃ。


『えーん! えーん!』


 どん。


 ぺしゃ。


 初めのうち、“ジャノメさん”は泣き声から逃れるように大きく跳ねていた。だが追いかけるうち、その間隔が少しずつ長くなった。跳ぶ高さも落ち、着地のたびに上半身が前へ崩れる。それでも止まらない。片足を泥から引き抜き、また跳ねる。


 どん、ぺしゃ、と続いていた音の間に、何かを引きずる音が混じり始めた。


 やがて高瀬は、男の姿勢が変わっていることに気づいた。指先が泥を掻き、何かを探すように地面を這っている。首の傾きも少しずつ戻り、顔の穴が前方を向き始めていた。


 忘れていた体の動かし方を、ひとつずつ思い出しているようだった。


『えーん! えーん!』


 ジャノメさんが止まった。


 高瀬も足を止めた。


 距離は十メートルほど。スマートフォンのライトが目の前の怪異の、濡れた背中を照らしている。服を着ていた。その服は背中側が大きく破れ、擦り減った肩甲骨と肋骨が露出していた。骨の隙間には泥と砂利が詰まり、残った肉へ食い込んでいる。


『えーん! えーん!』


 怪異の肩が上下した。


「ァ……ァ……」


 それまでの呻きとは違った。


 喉の奥で、音を言葉の形へ押し込もうとしている。


『えーん! えーん!』


「は……や……く……」


 高瀬の息遣いが止まった。


 怪異が、ゆっくりと振り返る。


 潰れた顔の中央にある穴が開き、奥に舌らしい肉が見えた。舌は中央から縦に裂け、黒い血を垂らしながら動いている。


「む……かえ……に……」


 泣き声は止まらない。


『えーん! えーん!』


 怪異の背筋が伸びた。


 折れていた首が、ばき、ばき、と鳴りながら正しい位置へ戻っていく。腰の付け根から外へ折れていた右足も痙攣し、突き出していた骨が肉の内側へ少しずつ引き戻された。


 元どおりになったわけではない。


 それでも怪異は、折れた足を引き摺りながら、二本の足で立った。


 顔の穴が高瀬へ向く。


「迎えに来たよ」


 はっきりとした、人間の男の声だった。


 若い男の声だった。


 



「迎えに来たよ」





 怪異は高瀬たちへ向かって歩き始めた。片足を引き摺るたび、折れた骨が肉の中でずれ、重い音を立てる。


 ずる。


 どん。


 ずる。


 どん。



「迎えに来たよ」



 高瀬はここでスマートフォンを落とした。以降は、友人が回していた別のスマートフォンの映像になる。


 泥の上に落ちた画面から、子供の泣き声が流れ続ける。


 四人は逃げた。足を滑らせ、互いの肩へぶつかり、誰かの靴が泥へ抜け落ちた。振り返る者はいない。背後から、折れた足を引き摺る音と、人間の声がついてくる。



「迎えに来たよ」



 白いミニバンへ戻り、四人は転がり込むように乗った。森本が震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。後輪が空回りして泥を跳ね上げ、車は斜面を滑りながら車道へ出た。


 高瀬は助手席で何度も後ろを確認していた。


 怪異は追ってきていない。


 しかし、河川敷へ落としたはずのスマートフォンから流れていた子供の泣き声が、なぜか車内で聞こえていた。


『えーん! えーん!』


 森本がカーオーディオの電源を切る。


 泣き声は止まらない。


 ボリュームを下げても、配線を抜いても聞こえた。初めはスピーカーから出ていると思っていた四人も、やがて声が車の後方から聞こえていることに気づいた。


 後部座席の、さらに後ろ。


 荷物を置くスペースだった。


『えーん! えーん!』


 誰も振り返らなかった。


 泣き声へ、男の声が重なる。


「迎えに来たよ」


 映像はそこで途切れている。


 四人は生きて帰宅した。


 少なくとも、その夜は全員生きていた。




 翌朝、高瀬の父親は自分の車の屋根に大きなへこみがあることに気づいた。車内には泥が落ち、天井の内張りも裂けている。息子を問い詰めたが、高瀬は河川敷で木の枝が落ちてきたと嘘をついた。


 父親は当然信じなかった。帰宅したらもう一度話をすると告げ、そのまま車で仕事へ向かった。


 出勤から二十分後、父親から母親へ電話がかかってきた。


「車の中に子供がいる」


 それが最初の言葉だったという。

 母親は、何を言われているのか分からなかった。


「直人なら学校に行ったわよ」

「違う。女の子だ。後ろで泣いてる」


 電話の向こうから、ワイパーの作動音が聞こえていた。


 ぎゅっ。


 ぎゅっ。


 ぎゅっ。


 その日は朝から晴れていた。


「路肩に停めて見てみたら?」

「停めた。誰もいない」


 父親の声は震えていた。


「でも泣いてる。バックミラーには映らない。後ろを見ても誰もいないのに、ずっと泣いてる」


 電話越しに、幼い声が聞こえた。


『えーん! えーん!』


 母親にも聞こえていた。


 その背後から、男の声がする。


「迎えに来たよ」


 父親が息を呑んだ。


「誰だ」

「迎えに来たよ」


 通話はそこで切れた。


 父親のミニバンは数分後、国道脇のガードレールへ衝突した状態で発見された。速度はそれほど出ておらず、車体の損傷も軽い。本来なら、運転手が死亡するような事故ではなかった。


 それにもかかわらず、運転席で発見された父親には顔がなかった。


 フロントガラスは割れていない。エアバッグも正常に作動している。車内に、人の顔を削ぎ落とせるような物は見つからなかった。


 父親の顔面は、額から顎まで広い範囲で削り取られていた。鼻骨と頬骨は細かく砕け、前歯も奥歯も大半が抜けている。両眼は眼窩から引き出され足元に転がっていた。


 車内は水浸しだった。座席も床も天井も濡れていたが、ドアと窓はすべて閉まっていた。事故が起きた時間、周辺に雨は降っていない。


 警察は、父親が走行中に何らかの発作を起こし、自分で顔を傷つけた可能性も調べた。しかし、爪の間に血液も皮膚片もなく、凶器も見つからない。損傷の形も、自分の手でつけられるものではなかった。


 葬儀の夜、高瀬は父親の部屋からワイパーの音を聞いた。


 ぎゅっ。


 ぎゅっ。


 ぎゅっ。


 恐る恐る襖を開けると、誰もいない部屋の窓を、黒いゴムのようなものが左右へ擦っていた。


 ぎゅっ。


 ぎゅっ。


 窓の外に、一本足の男が立っていた。


 部屋は二階にある。


 怪異は窓へ顔の穴を押しつけていた。穴の縁に並んだ歯がガラスを擦る。


 ぎり。


 ぎり。



「迎えに来たよ」



 高瀬はカーテンを閉めた。


 その夜から、雨の音が止まなくなった。


 外が晴れていても聞こえた。教室にいても、電車に乗っていても、風呂へ入っていても、頭の上で雨が降り続けている。耳を塞いでも変わらない。ザーザーという音に混じり、片足が地面へ落ちる音が少しずつ近づいてきた。


 どん。


 ぺしゃ。


 どん。


 ぺしゃ。


 振り返っても誰もいない。


 道路を白い車が通るたび、その窓に潰れた顔が映った。運転手の肩越しから穴を覗かせ、車が通り過ぎるまで高瀬の方を向いていた。




 一週間後、母親が死んだ。


 母は運転免許を持っていなかった。白い車を運転することはない。だから大丈夫だろうと、高瀬はどこかで思っていた。そう思いたかっただけかもしれない。


 その日、母親は父親の事故に関する説明を受けるため、保険会社の担当者が運転する車に乗った。


 白い乗用車だった。


 事故が起きたのは午後二時過ぎの交差点。赤信号で停車した時、後部座席の母親が急に窓の外へ顔を向けた。直前まで書類を膝へ置き、父親の死亡時刻について静かに質問していたという。ところが、何かの声を聞いたように話をやめ、歩道の一点を見つめた。


 そこには誰もいなかった。


「娘が泣いてる」


 担当者は聞き間違いだと思った。声は小さく、独り言のようだった。


「危険ですから、ドアを開けないでください」


 返事はなかった。母親はロックされたドアの取っ手を何度も引き、窓へ頬を押しつけた。白目が見えるほど目を見開き、誰もいない歩道を必死に探している。


「外にいるの。娘が泣いてる」


 高瀬に姉妹はいない。母親が娘を産んだ記録もなかった。担当者がそれを知るはずもなく、家族を亡くしたばかりの遺族にありがちな精神不安だと思ったという。


 信号が青へ変わり、車が動き始めた瞬間、母親は自分でロックを外した。


 担当者が制止するより早くドアを押し開け、走り出した車から身を投げる。道路へ転がったところを、対向車線から右折してきた車にはねられた。

 頭部がフロントガラスへぶつかり、割れたガラスとともに反対車線へ投げ出される。そこへ二台目の車が進入し、胸の上を前輪で通過した。肋骨は内側へ折れ、肺と心臓を裂いた。


 三台目の車は避けきれず、車体下部へ髪と衣服を巻き込んだ。そのまま遺体を十メートル近く引き摺り、背中の衣服も皮膚も途中で裂けた。


 車が止まった時、遺体はうつ伏せのまま車体の下に挟まっていた。頭部は原形を失い、胸郭は潰れ、背中の広い範囲から脊椎と肋骨が露出していた。


 警察は、路面へ貼りついた衣服や肉片を一つずつ剥がして回収したという。


 その日の道路は乾いていた。雨も降っていなかった。それでも、事故現場の周囲だけが、誰かが大量の水を撒いたように黒く光っていた。


 目撃者によれば、母親は車から飛び降りたあと、逃げるでも助けを求めるでもなく、誰もいない歩道へ向かって両手を伸ばしていた。はねられる直前まで、その顔に恐怖はなかった。子供を見つけた母親の顔だった。


「待って。今、お母さんが行くから」


 そう叫んでいたという。


 救急隊が遺体を運び出し、警察が現場確認を始めた頃、道路の濡れていない部分に小さな足跡が残っていることに、一人の警官が気づいた。


 五歳前後の子供と思われる裸足の跡だった。歩道の端から始まり、車道へ入り、母親が最初にはねられた場所を通っている。血の上にも足跡は残っていたが、赤く染まってはいなかった。乾いた道路へ水だけを押しつけたように続き、最後の足跡は、潰れた母親の頭があった場所で止まっていた。


 そこだけ両足が揃っていた。


 子供が倒れた母親の顔を、すぐそばから覗き込んでいたような向きだった。


 そこから立ち去る足跡はない。警官が記録を撮ろうとカメラを構えるうちに、それも消えた。





 高瀬は、残された祖母と二人で暮らすことになった。


 祖母は孫を責めなかった。父親の車を勝手に持ち出したことも、河川敷で怪異を呼び出したことも、泣き声を流しながら追いかけたことも知らない。

 ただ、高瀬が夜になると耳を塞ぎ、雨も降っていないのに窓の外を気にし、家の前を白い車が通るたび吐きそうな顔をするのを見て、何か悪いものを連れて帰ったことだけは察していた。


「隠していることがあるなら、今のうちに話しなさい」


 そう言われても、高瀬は何も話せなかった。話せば祖母まで巻き込むと思ったのかもしれない。あるいは、口にした瞬間、父と母を殺したものが本当にこの家まで来ていると認めるのが怖かっただけかもしれない。


 祖母はそれ以上問い詰めず、仏間へ線香を上げ、家中の窓辺へ塩を置いた。知人の寺から借りた経典を毎晩読み、玄関には朝ごとに新しい盛り塩を作った。


 それでも、高瀬にだけ聞こえる雨は止まらない。夜になると天井を細かな粒が叩き、窓ガラスを水が流れる。耳を塞いでも、頭蓋骨の内側へ直接染み込むように降り続けた。


 ある夜、祖母が台所で夕食を作っていると、玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 包丁の音が止まり、祖母が手を拭きながらインターホンを確認した。画面には誰も映っていない。門灯の下に濡れた地面だけが見えたが、その日は朝から晴れていた。


 ピンポーン。


 高瀬は二階の自室にいた。椅子から立ち上がることもできず、階段の下から聞こえる祖母の足音を数えていた。


「どちらさまですか」


 返事はない。


 代わりに、玄関のすぐ外から子供の泣き声がした。


『えーん! えーん!』


 録音と同じ声だった。


 高瀬は全身の血が引くのを感じた。止めなければと思った時には、玄関の鍵が外れていた。


 祖母がドアを開ける。


 高瀬には女の子の姿など見えなかった。階段の途中まで這うように降り、手すりの隙間から見えたのは、開いた玄関と、その向こうに降り注ぐ雨だけだった。


 道路も隣家の屋根も乾いている。夜空には星まで出ていた。それでも、高瀬の家の玄関先だけに激しい雨が落ちていた。雨粒は地面へ当たって跳ね返らず、黒い染みになって敷石へ吸い込まれていく。


 祖母はその雨の中へ半歩出ると、腰を屈め、誰もいない低い場所へ手を差し伸べた。


「まあまあ、喉が痛いのかい。そんなに血を出して」


 その言葉を聞いた瞬間、高瀬は叫んだ。


「ばあちゃん、閉めろ!」


 祖母が振り返った。


 その背後に、ジャノメさんが立っていた。


 以前より背筋が伸びていた。千切れた足を引き摺ってはいるが、もう一本足で跳ねてはいない。肩の高さも腕の下げ方も、人間の立ち姿に近づいている。

 顔の穴から雨水を吐き、その奥に並ぶ歯をゆっくり動かしながら、祖母の肩越しに高瀬を見上げていた。


 首も、もう傾いていなかった。



「迎えに来たよ」



 幼い子供へ聞かせるような、ひどく優しい声だった。


 祖母は何が立っているのか理解できなくても、高瀬の顔を見ただけで危険を悟った。すぐにドアを閉めようとしたが、わずかに残った隙間へ怪異の腕が滑り込む。


 腕は人間のものより長く、肘から手首まで何度も折れ曲がっていた。車輪に巻き込まれ、轢かれるたび別の方向へ骨を砕かれたようだった。皮膚の下で尖った骨片が動き、腕を伸ばすたび、湿った枝を折る音が鳴る。


 祖母が体重をかけてドアを押した。怪異の腕は挟まれても止まらない。潰れた皮膚の裂け目から黒い血と雨水を流しながら、細い指を祖母の顔へ伸ばした。


 祖母は首を背けたが、親指が右目へ入り込んだ。眼球が大きく押し潰され、瞼の隙間から透明な液体が噴き出す。人差し指と中指は左の眼窩へねじ込まれ、柔らかなものを掻き分けるように奥へ進んだ。


 祖母の悲鳴が家中を震わせた。爪を立てて腕を掻きむしっても、怪異の指は止まらない。頭蓋の中へ入り込み、ゆっくりとかき回す。


 祖母の後頭部が内側から押され、鼻と耳から血に混じった淡い桃色の液体が溢れる。


 怪異が手を引くと、潰れた眼球と細い神経、その奥から掻き出された脳の一部が指へ糸のように絡んでいた。


 祖母は膝から崩れたが、まだ死んでいなかった。目のあった場所から血を流し、喉の奥で空気の漏れる音を立てながら、手探りで廊下を這おうとする。


 怪異は祖母の白髪を掴み、そのまま玄関の外へ引き摺り始めた。


 高瀬は階段を駆け下りることができなかった。


 祖母を助けなければならない。自分が呼んだものだ。父も母も、いま祖母が殺されているのも、すべて自分のせいだった。


 それなのに、高瀬の体は祖母へ向かわず、二階へ戻ろうとした。


 目が見えなくなった祖母が床を這い、血まみれの手を何度も宙へ伸ばしている。それを見ながら、高瀬は後ずさった。


 怪異の顔の穴がこちらを向いた瞬間、耐えきれず自室へ駆け戻り、ベッドと壁の隙間へ潜り込んだ。両手で口を塞ぎ、息を殺し、膝を抱えて震えた。


 階下では祖母の爪が床板を掻いていた。玄関から外へ、重いものを引き摺る音が続く。



「逃げろぉ! なおとおおぉ! にぃげろぉおお!!」



 潰れた喉から絞り出された祖母の絶叫が聞こえた。


 窓から外を覗くと、引き摺り出されていく祖母の姿が見える。これほど声を上げているのに、誰も気づかない。見えていないようだった。



 怪異は道路の上へ祖母を横たえた。


 ほどなくして、白い宅配車が角を曲がってきた。


 運転手は急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。


 タイヤが祖母の頭を踏み潰す音がした。



 初めに骨の折れる乾いた音がして、その直後、濡れたものが押し広げられる鈍い音が続いた。


 怪異は道路脇へ立ち、高瀬を見上げていた。


 何を言っているのか、聞こえなくても分かった。




 高瀬は家族を失った。


 同じ夜に儀式へ参加した友人たちも、すでにどこにもいない。



 森本は運転中にセンターラインを越え、対向してきた白い軽自動車と正面衝突した。胸をハンドルと潰れた車体の間へ挟まれ、下半身は折れ曲がった運転席の下へ押し込まれていた。骨盤は割れ、両脚は膝から逆向きに曲がってアクセルペダルの奥へ食い込んでいた。


 それでも、救助隊が到着した時には意識があった。


「後ろに女の子がいる。早く出してやってくれ」


 森本は隊員の腕を掴み、何度もそう訴えた。後部座席はほとんど潰れておらず、ドアも問題なく開いた。中には誰もいなかった。ただ、座席だけがひどく濡れ、中央には小さな子供が座っていたような窪みが残っていた。


 油圧器具で車体を切断している最中、森本が急に暴れ始めた。動かせるはずのない腰を浮かせ、胸を挟まれたまま背を反らし、顎が外れそうなほど口を開いた。喉の奥で、水を掻き混ぜるような音がした。


「迎えに来たよ」


 森本の声ではなかった。


 死ぬ直前まで、誰もいない後部座席を指差していたという。



 もう一人は、自宅近くの月極駐車場で見つかった。何年も放置されていた、所有者不明の白い乗用車の運転席だった。


 車は内側から施錠され、窓もすべて閉まっていた。それにもかかわらず、車内だけが激しい雨にさらされたように濡れている。遺体はドアへ背中を押しつけ、逃げようとした姿勢で固まっていた。両手の爪はすべて剥がれ、窓には血のついた指跡が幾重にも残されていた。


 乾いたフロントガラスの上では、ワイパーだけが動き続けていた。



 最後の一人は行方不明になった。


 玄関には鍵がかかり、窓もすべて内側から施錠されていた。床には、小さな裸足の足跡と、片足を引き摺ったような濡れた跡が残されていた。その横を、寝室から伸びた太い血痕が玄関まで続いていたが、扉の手前で途切れている。


 スマートフォンはベッドの下から見つかった。画面は割れていたが、数分間の音声が残されていた。


 録音は激しい雨音から始まる。室内で録られたはずなのに、雨粒は屋根ではなく、スマートフォンのすぐそばを叩いているように聞こえた。


「迎えに来たよ」

「俺じゃない。俺じゃない。来ないで」

「迎えに来たよ」

「俺は追ってない。高瀬がやったんだ。俺じゃない」


 何かが床へ倒れた。


 そのあと、車のエンジン音がする。タイヤがゆっくり回り、柔らかいものへ乗り上げた。硬い音とともに回転が止まり、エンジンだけが空ぶかしされる。やがて車は同じ場所を前後し、何度も何かを踏み直した。


 録音が切れる直前、泣き叫んでいた声が、子供をあやすような穏やかなものへ変わった。


「迎えに来たよ」





 一人きりになった高瀬は神社や寺を回り、除霊師や占い師にも相談した。塩も札も数珠も役には立たなかった。清められたはずの札は朝になると濡れ、赤黒い指の跡がついていた。


 怪異は日に日に近づいた。


 初めは雨音だけだった。


 次に足音が聞こえた。


 そのあと声が聞こえるようになり、最後には姿が見え始めた。


 部屋の廊下の端に立っている。街頭スピーカーから、あの声で「迎えに来たよ」と囁かれる。夜、布団をかぶると、その中から子供の泣き声がした。


『えーん! えーん!』


 耳を塞いでも意味はない。


 音は外から入ってくるのではなく、歯の根元から頭蓋骨へ響いていた。頭の内側を、濡れた指先で何度も叩かれているようだった。


 どん。


 ぺしゃ。


 どん。


 ぺしゃ。


 近づいてくる。



 まともに眠れなくなった高瀬に、諸々の手続きを手伝っていた親戚が、一人の霊能者を紹介した。本当にそういうものを信じていたわけではないのだろう。ただ、不幸が重なりすぎた若い親戚を放っておくのも寝覚めが悪かったのだと思う。


 高瀬の人生を背負うほどの手間はかけられない。それでも知人を紹介するくらいの優しさなら与えられる。「占いとかよく当たるよ」と言っていたので、占いも除霊も、オカルトという一つの箱へまとめている人だったのかもしれない。


 その女は、駅前の古い商店街にある雑居ビルで相談を受けていた。


 飲食店と古着屋の看板に挟まれた細い階段を三階まで上がっても、事務所らしい表札は見当たらない。突き当たりに古びた木の扉があり、色褪せた赤い紐で、小さな銀の鈴が一つ下げられているだけだった。


 高瀬が扉を押し開けても、鈴は鳴らなかった。


 部屋には甘い紅茶と、長く閉め切った家に染みつくような古い香水の匂いが満ちていた。何十年も同じ午後が続いているような、薄暗い部屋だった。


 窓際のソファに、ロリータファッションの女が座っている。


 年齢は分からない。顔立ちだけなら二十代前半にも見えた。肌は蝋のように白く、艶のある黒髪を顎の下で緩く巻いている。桃色のドレスには白いレースが幾重にも重なり、胸元には大きなリボンが結ばれていた。可愛らしい服装のはずなのに、向かいへ座ると、ずっと年上の女性を前にしているような気持ちになった。


 女の膝には、白いうさぎのぬいぐるみが乗っていた。


 長い年月のうちに布地は薄い灰色へくすみ、耳の先や腹のあたりは何度も撫でられたように毛が寝ている。片方の目には澄んだ青いガラス玉が嵌められ、もう片方には大きさの合わない赤いボタンが黒い糸で縫いつけられていた。首には細い金色の鈴が下がっていたが、高瀬が部屋へ入ってから一度も鳴っていない。


 女は高瀬の姿を認めると、驚くでも警戒するでもなく、困った子供がようやく帰ってきた時のように、少しだけ眉尻を下げた。


「まあ、ずいぶん濡れてきたね」


 外は朝から晴れていた。雲一つない空で、駅からここまで歩く間にも雨は降っていない。高瀬の服も靴も乾いていた。


 それでも女は、肩から水を滴らせ、足元へ黒い水溜まりを作っている人間を見るように、高瀬の全身を眺めた。


「そこへお座り。床が濡れるのは構わないよ。どうせ、この部屋の床じゃないからね」


 意味を聞き返すことはできなかった。


 女が示した椅子へ腰を下ろす。座面がわずかに沈み、どこか遠くで古い家の床板が軋む音がした。目の前の床は乾いたままだったが、高瀬の靴の周りだけ、空気が冷たく湿っているように感じられた。


 女は気に留める様子もなく、ぬいぐるみの折れた耳を指先で撫で、形を整えながら待っていた。何から話せとも、急げとも言わない。


 その沈黙に耐えきれなくなり、高瀬は自分がしたことを初めから話した。


 夜行道の動画を見たこと。父親の白い車を勝手に持ち出したこと。駄目だと言われたことをやったこと。怪異が少しずつ動きを変え、やがて人間の言葉を話し始めたこと。


 父親と母親が死に、祖母が目の前で連れていかれ、友人たちも一人ずつ異様な死に方をしたこと。


 話しているうちに声が何度も詰まり、途中からは何をどの順番で口にしたのか、自分でも分からなくなった。


 女は一度も遮らなかった。驚きも責める言葉もなく、膝のうさぎの背を一定の速さで撫でながら、最後まで黙って聞いていた。青いガラス玉と赤いボタンだけが、瞬きもせず高瀬を見ている。


 すべてを話し終えた頃には、喉がひどく乾いていた。高瀬は椅子から滑り落ちるように膝をつき、床へ額が触れそうなほど深く頭を下げた。


「助けてください」


 女は返事をしなかった。


 紅茶の湯気だけが細く立ち上り、古い時計の針が動く音が、やけに大きく部屋へ響いていた。


「お金なら働いて払います。何年かかっても払います。俺が悪かったんです。もう二度としません。だから、あれを消してください」


 女が小さく息を吐いた。


 呆れたようにも、可哀想なものを見るようにも聞こえた。


「消すのは無理だねえ」


「封印でも何でもいいです」


「封印なら、もともとかかっていたよ」


 高瀬は顔を上げた。


 女は相変わらず穏やかな顔をしていたが、うさぎを撫でていた指だけが止まっていた。


「子供の泣き声が封印なんですよね。聞かせれば逃げるんだから」


「違うよ」


 女はうさぎのぬいぐるみを両手で持ち上げ、自分の顔を隠すように目の前へ置いた。くたびれた白い耳の間から、黒髪と額だけが覗く。


 青いガラス玉と赤いボタンが、正面から高瀬へ向けられた。


 生き物の目ではないはずなのに、その瞬間、見られているという感覚が急に強くなった。うさぎが見ているのは高瀬の顔ではない。肩の後ろ、背中へ貼りついた何か、あるいは高瀬の中へ入り込んだものを覗いているようだった。


「何をしてるんですか」


「この子の目で見るのさ。直に見ると、分かりすぎて面倒だから」


 女はそれきり黙った。


 うさぎの向こうに隠れた表情は見えない。部屋の古い時計が規則正しく秒を刻む。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 高瀬は動けなかった。呼吸をするたび、湿った土の匂いが肺へ入ってくるような気がする。


 いつの間にか、シャツが肌へ冷たく貼りついていた。足元を見ても水はない。それでも椅子の下から、雨樋を流れるような細い水音が聞こえていた。


 女はうさぎを掲げたまま、わずかに首を傾けた。その動きに合わせるように、赤いボタンが一度だけ鈍く光る。


 やがて、首に下がっていた金色の鈴が、揺れもせず鳴った。


 ちりん。


 窓は閉まっている。空調も止まり、カーテンも紅茶の湯気も動いていない。


 女はすぐにはうさぎを下ろさなかった。青い目と赤い目を高瀬へ向けたまま、何かを確かめるように長く息を吸う。それから、うさぎの向こうで、ひどく静かな声を出した。


「この人の名前は坂口翔吾。死んだ時は二十六歳だった。奥さんは、娘を産んだ時に亡くなっている。難しいお産だったんだね。赤ん坊は助かったけれど、お母さんは大量に血を失って、夜が明ける前に死んだ」


 女は見えているものを一つずつ確かめるように、誰かの記憶を代わりに語った。


「周りからは、ずいぶん言われたようだよ。若い男一人に赤ん坊を育てられるわけがない。再婚した方がいい。施設へ入れた方がいい。実家へ渡せ。男親には娘の気持ちは分からない。まあ、人は好きに言うものだからねえ。手を貸さない人ほど、口だけは働き者だ」


 うさぎの頭が、女の手の中で少し傾いた。


「それでも翔吾さんは、梨花ちゃんを一人で育てた。夜泣きのひどい子だった。抱いて歩いていないと眠らなくて、夜中に団地の廊下を何度も往復した。ミルクを飲ませた直後に吐かれて、二人分の着替えをすることもあった。熱を出せば夜間の病院へ走り、保育園から呼び出されれば職場で頭を下げた」


 女の口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。


「梨花ちゃんが初めて“おとうさん”と言った時、録音しようとしたけれど間に合わなかった。それから何日もスマートフォンを構えて待っていたのに、構えると何も言わない。子供はそういうものだね。かわいかったねえ」


 高瀬は黙って聞いていた。


「梨花ちゃんは五歳になった。優しい子だったよ。父親が疲れていると、自分の靴を自分で揃えた。晩ご飯が買ってきた弁当でも、お父さんと一緒だとおいしいねと言った。ほかの家にはお母さんがいると知っていたけれど、自分は寂しくない、お父さんがいるから大丈夫だと、保育園の先生に話していた」


 女はそこで少し黙った。


「親の欲目もあったろうけど、本当に良い子だった」


 窓の外から雨音が聞こえ始めた。


 初めは遠かった。


 女が話を続けるうちに、雨はすぐ近くまで寄ってきた。


「事故の日は朝から雨だった。二人は梨花ちゃんの誕生日を祝うため、駅の向こうにあるレストランへ行った。翔吾さんは娘に小さな白い傘を持たせていたけれど、自分の傘を電車へ忘れてしまった。帰る頃には雨がひどくなっていた」


 女は、そこに親子がいるかのように会話を口にした。


「パパの傘無いよ、忘れちゃったの?

そうみたいだ、そこのコンビニで買ってくるから、濡れないようにお店の中で待ってるんだよ。窓際の席なら、お父さんのことが見えるだろ? ほんの少しの間だから、良い子にして待ってなさい

はあい! ケーキたのんでいーい?

いいよ。梨花はいつも良い子だから、特別だ

やったー!」


 部屋の外で雨が激しくなった。


 ザーザーと窓を叩き、屋根を叩き、道路を流れていく。高瀬が後に残した音声には、この時の雨音も入っている。


 実際に雨が降っていたのかは分からない。気象記録では、その時間、周辺に降水はなかった。


「翔吾さんは道路の向かいにあるコンビニへ行った。透明傘を一本買い、横断歩道を渡ろうとした。信号は青だった」


 女の声が少し低くなる。


「右から白い車が来た。運転していたのは若い男だった。雨なのに速度を落としていなかった。タイヤが水の上へ乗り、車体が滑った。慌ててハンドルを切ったけれど、もう間に合わなかった」


 部屋の中で、タイヤの鳴く音がした。


 ギューーッ。


 高瀬が肩を震わせる。


「最初に、翔吾さんの右足へ車体が当たった。膝から下が車の下へ巻き込まれ、股関節が外れた。骨盤も割れて、大腿骨が肉を突き破った。それでも、すぐには死ななかった」


 硬いものが道路へ擦れる音が、雨に混じる。


 がり。


 ごり。


「体が車の下へ入り、道路を引き摺られた。濡れた道路は滑りやすいけれど、人の皮膚にとっては粗いやすりと変わらない。背中の服が破れ、皮膚が剥がれた。肩甲骨の表面が削れた。顔の右側を道路へ押しつけられていたから、頬と唇がなくなった。歯も何本か折れた」


 女の声は静かなままだった。


 だからこそ、高瀬の頭には光景が細部まで浮かんだ。


「白い車は、そのままレストランのショーウィンドウへ突っ込んだ。翔吾さんは車体の下に挟まれたまま、まだ意識があった。顔を上げることはできなかったけれど、残っていた目で店の中を見た」


 ガラスが砕ける音がした。


 ガシャン。


 細かな破片が床へ降り注ぎ、しばらく転がり続ける。


「窓際にいた梨花ちゃんへ、割れたガラスが降りかかった。大きな破片が首に刺さり、喉を横から切った。皮膚だけじゃない。気管も食道も声帯も切れた」


 子供の悲鳴が聞こえた。


 高い声は途中で途切れ、空気が漏れる音へ変わる。


 ひゅう。


 ごぼ。


 ひゅう。


「梨花ちゃんは、お父さんを呼ぼうとした。けれど、口が動くだけで声は出なかった。切れた喉から、空気と血が泡になって漏れた」


 女はうさぎの耳を撫でた。


「翔吾さんには、それが泣き声に聞こえた」


「声は出てないんですよね」


 高瀬が初めて口を挟んだ。


「ああ。もう音にはなっていなかった」


「じゃあ、どうして」


「父親だからさ」


 女は簡単に答えた。


「娘が泣いている。早く迎えに行かなければならない。店で待っていなさいと言ったのは自分だから。良い子にしていろと約束させたから」


 うさぎの首の鈴が、もう一度鳴る。


「運転手は車から降りた。自分が何をしたかを見て、逃げようとした。けれど、車の下には翔吾さんが挟まっていた。前へ進めば店の中へ入り込む。だから、いったん車をバックさせた」


 エンジンが唸る。


 タイヤが空回りし、何か柔らかなものへ乗り上げる。


「後輪が翔吾さんの頭を踏んだ。顔の骨が潰れ、残っていた目も飛び出した。頭皮がタイヤへ巻き込まれ、顔面の皮膚が剥がれた」


 高瀬は両手で耳を塞いだ。


 それでも音は止まらない。


「運転手は何度もアクセルを踏んだ。逃げたかったからねえ。人を轢いたことより、自分が捕まることの方が怖くなった」


 骨の砕ける音が続いた。


 ごり。


 ばり。


 ぐしゃ。


「それで、顔がなくなった」


 女は淡々と言った。


「翔吾さんが最期に見たのは、ガラスを浴びて倒れる娘だった。最期に聞いたのは雨と、車のエンジンと、周りの悲鳴。それから、実際には聞こえていなかったはずの梨花ちゃんの泣き声だった」


 部屋のどこかで、子供が泣いた。


『えーん! えーん!』


 高瀬は椅子から立ち上がろうとした。


「座っておいで」


 女が言う。


 強い口調ではなかったが、それでも高瀬の体は動かなくなった。


「死んだあとも、あの人は娘を迎えに行こうとした。雨が降るたび、白い車を見るたび、事故の日へ戻る。白い車の運転手を殺すのは、自分たちを轢いた男と区別できないからだよ。顔がなく、目もない。唯一焼きついた白い車だけを、もう存在しない目玉が見せ続ける。だから、どの白い車も、あの日の車に見える」


「じゃあ、子供の泣き声が弱点なのは……」

「弱点じゃない」


 女はうさぎを膝へ戻した。


「泣き声の方へ向かっていたんじゃない。泣き声を聞くと、娘を待たせたあの店へ戻ろうとするんだよ。声がどこから聞こえているかなんて、もう分からない。梨花ちゃんはあの窓際で待っている。その記憶だけが残っていた」


 高瀬の唇が震えた。


「逃げてたんじゃない?」

「お前さんたちには、そう見えただけさ」


 女は高瀬を見た。


「どこかに泣いている梨花ちゃんがいると思って、探しに行こうとしていた」


「俺は、ずっと聞かせた」


「ああ」


「だから、あいつは……」


「一瞬ではなく、ずっと坂口翔吾へ戻ってしまった」


 窓の外の雨が強くなった。


「怪異だった頃は、事故の日を繰り返すだけだった。白い車を見つけ、運転手を殺す。子供の泣き声がすれば、娘を迎えに行こうとして離れる。そこに考える力はなかった。人間だった頃の記憶が、壊れた機械のように同じ動きを繰り返していただけだよ」


 女は少しだけ眉を寄せた。


「お前さんは、この人へ長く泣き声を聞かせた。自分が誰だったか思い出させた。娘を愛していたことも、娘を待たせたことも、目の前で死なせたことも、自分が迎えに行けなかったことも、全部だ」


「だったら、話せば分かるんじゃないですか」


 高瀬は縋るように言った。


「人間に戻ったなら、話せば……」


 女は悲しそうに首を振った。


「人間へ戻ったから、話せば分かると思うのかい」

「娘を探しているだけなら、死んだって教えればいい。梨花ちゃんがどこにいるか教えれば……」


 女は返事をしなかった。


 高瀬の背後で、水滴が床へ落ちた。


 ぽた。


 ぽた。


 高瀬は振り返れなかった。


 女の視線だけが、高瀬の肩を越え、その後ろへ向いていた。


「あの人を終わらせる方法は、ひとつだけだった」


 女は言った。


「梨花ちゃん自身が、「お父さん、ここにいるよ」と伝えること」


 高瀬は息を吸った。


「だったら、教えてください。そこにいるなら、あいつに教えてください」


「これまでにも教えた人はいるよ」


「それなら、どうして止まらないんですか」


「この人には見えないからさ」


 高瀬の背後から、濡れた呼吸音がした。


 女はうさぎを持ち上げる。


「梨花ちゃんは、ずっと父親の隣にいる。小さな手で翔吾さんの手を握ろうとしている。お父さん、ここにいるよ。手をつないで。そう言って泣いている」


 うさぎの青い目と赤い目が、高瀬の後ろを見ていた。


「でも、梨花ちゃんの喉は裂けている。声帯が切れているから、声が音にならない」


 高瀬の肩のすぐ後ろで、歯が鳴った。


 かち。


 かち。


「翔吾さんには顔がない。目もない。だから、娘がすぐ横にいても見つけられない。はじめから無理な話だったんだ。だから、狂わせたままの方が安全だった」


 男の声がした。



「迎えに来たよ」



 右耳のすぐそばだった。


 高瀬は椅子の上で震える。


「あなたには見えるんですか」


 掠れた声で尋ねる。


「どうして、そこまで分かるんですか。昔のことも、あいつが考えてることも」


 女は高瀬の背後を指差した。


「そこにいるからだよ」


 高瀬の首筋へ、濡れた息が触れた。


「見えるから分かる。けれど、本人がいちばん聞きたい声だけが聞こえない。ほかの誰が“梨花ちゃんは隣にいる”と教えても、もう信じられないんだよ。娘の声でなければ駄目なのさ」


 背後で、穴の縁に並んだ歯が擦れた。


「しかも、今のあれは、ただ娘を探している怪異じゃない。お前さんが人間へ戻してしまった。考える力も、憎む相手を選ぶ力も取り戻した」


 女は高瀬を見つめた。


「娘の泣き声を玩具にした人間を、自分の意志で殺しに来ている」


「助けてください」


「無理だよ」


「何でもします」


「もう遅いねえ」


「死にたくない」


 高瀬の肩へ、濡れた手が置かれた。


 爪の剥がれた指が、服の布越しに肩の肉へ食い込む。


 女は白いうさぎの頭を撫でた。


「ご愁傷さま」


 高瀬の背後で、潰れた顔の穴がゆっくりと開いた。




「迎えに来たよ」




 女は、泣き疲れた子供へ話しかけるような声で言った。


「代金は要らないよ。もう無理だから」













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