第四章:完璧な模倣
キィィィィィィィィィィン——!!
鼓膜を直接、極細の針で突き刺すような、殺意に満ちた高音が、四階アトリウムの全方位から炸裂した。
館内すべての業務用スピーカーが、突如として一斉に起動したのだ。アトリウムの壁面やガラス、天井を音が激しく往復し、マイクがスピーカーの音を再び拾って増幅する悪魔のループ——「ハウリング(フィードバック)」が引き起こされていた。
相馬は両耳を強く押さえ、その場にうずくまった。強烈な音圧が、内臓を直接掴んで激しく揺さぶる。プロとして無数の音を扱ってきた相馬ですら、これほど暴力的なハウリングは聞いたことがなかった。
だが、地獄はそこからが本番だった。
「……ザザッ、キ、キキ……」
空間を圧迫していた不快な高音が、一瞬にして別の「音」へと変貌を遂げる。
スピーカーから流れ出してきたのは、ホワイトノイズに塗れた、あまりにも聞き覚えのある環境音だった。
ササッ、ササッ。ナイロンジャケットが擦れる音。
ジャラ……、ジャラ……。真鍮の鍵束が跳ねる音。
コツ。コツ。コツ。人工大理石やタイルを叩く、安全靴のゴム底の音。
「これは……俺の、音……?」
それだけではない。スピーカーの音声は、相馬がこれまでにこの「グランドモール・カナタ」の中で立てた、あらゆる音のデータをシーケンサーのように繋ぎ合わせ、再生し始めたのだ。
『壁の反響のせいだ……』
『プロとして、情けないな……』
『大滝さん! 駐車場に、何かがいます!』
相馬自身の声だ。独り言、動揺した悲鳴、呼吸の乱れ、喉が鳴る微かな音。そのすべてが、完璧な音響バランスでマルチトラック再生されている。館内全体が、相馬健治という一人の人間を構築する「音」の濁流で埋め尽くされていく。
そして、アトリウムの対角線上、暗闇に沈む通路の奥から、それは現れた。
輪郭が定まらない、陽炎のように歪んだ「影」だった。
いや、それは物質としての影ではない。空間の空気が、そこだけ異常な密度で圧縮され、光を屈折させているのだ。それは、視覚化された「音そのもの」だった。
怪異は、スピーカーから響き渡る相馬の足音に合わせて、じわじわと、だが確実に距離を詰めてくる。
コツ。コツ。コツ。
スピーカーから足音が鳴るたびに、空間の歪みがこちらへ近づいてくる。
その時、相馬は自分の身体に起こった決定的な異変に気づき、戦慄した。
「あ、あ……」
声が出ない。
喉は確かに震えている。肺から空気も押し出されている。だが、口から外へ出た瞬間に、すべての音波が虚空へと消えてしまうのだ。
驚いて飛び退こうとしたが、床を蹴ったはずの彼の足からは、何の音も生まれなかった。衣服を激しくなすり合わせても、ナイロンが擦れる摩擦音すら立たない。
(音が、盗まれている……!)
大滝のメモの言葉が、脳内でリフレインする。
『奴がすべての音を真似し終えたとき、真似し終えた音は、本物を消す』
スピーカーから流れる「相馬の音」の音量が大きくなるにつれ、相馬の肉体から「本物の音」が剥ぎ取られ、喪失していくのだ。
このまま怪異が相馬のすべての音をサンプリングし尽くし、目の前に到達したとき、相馬という人間の存在自体が、この世から完全に「消去」される。
怪異の歪みは、すでに十メートル手前まで迫っていた。スピーカーから響く相馬の息遣いは、まるで巨大な怪物の咆哮のように館内を揺るがしている。
(どうする? どうすればいい? 音が立てられない。叫ぶことも、走って逃げる足音を立てることもできない!)
相馬の天才的な聴覚が、狂気の中で必死に活路を探し求めた。
敵は音だ。音の怪異だ。ならば、音の特性で対抗するしかない。
奴は、俺がこれまでに立てた音を模倣して、俺を消そうとしている。
ということは、奴が「まだ模倣していない音」、この館のデータベースに存在しない未知の音をぶつければ、一時的にせよ、奴のシステムを混乱させられるのではないか?
だが、今の相馬には、自力でいかなる音を発することも許されていない。
使える音があるとすれば——。
相馬は、すぐ傍らに横たわる大滝の遺体に目を向けた。大滝の腰のベルトには、彼が命を落とす直前まで握り締めていた、無線機(インカムの親機)がぶら下がっている。
相馬は音のしない手足で大滝の元へ這い寄り、無線機をひったくった。そして、液晶画面の横にある「緊急警告音」のボタンを、全力で押し込んだ。
ピーーーーーーーーッ!!!
館内のスピーカーから流れる相馬の足音を切り裂いて、無線機自体から、最大ボリュームで悲痛な電子警告音が鳴り響いた。相馬がこの館で一度も鳴らしたことのない、純粋な矩形波の高周波。
「——ガ、ガガ、ギ、ジジッ!?」
効果は劇的だった。
スピーカーから流れていた相馬の音声トラックが激しく音飛び(グリッチ)を起こし、じわじわと近づいていた空間の歪みが、まるで強い打撃を受けたかのように激しくのたうち回り、その場に停止した。奴の「模倣のプロセス」が、未知の音の介入によってエラーを起こしたのだ。
(今しかない……!)
相馬は警告音を鳴らし続ける無線機をその場に投げ出すと、四階のキャットウォークを猛然と走り出した。足音も、衣服の擦れる音も一切しない。完全な「無音の疾走」で、彼は地下一階の防災センターを目指した。
猶予は数分もない。あの警告音のデータすらも、奴はすぐに学習し、模倣し尽くしてしまうだろう。奴が完全にエラーから復帰する前に、元音響エンジニアとしてのすべての知識を賭けた「最大最後の博打」を打つ必要があった。
防災センターに飛び込んだ相馬は、即座にメインコンソールの背後へ回り込んだ。
手元が狂うのを抑えながら、ラックにマウントされた業務用音響アンプと、館内放送システムの制御ユニットの配線を手当たり次第に引き抜いていく。
彼がやろうとしていること。それは、現代のヘッドフォンなどに応用されている技術——「アクティブノイズキャンセリング(環境音除去)」のシステムを、このグランドモール・カナタという巨大な空間全体を使って、手動で構築することだった。
音とは、空気の振動、すなわち「波」である。
山と谷を持つ音波に対して、まったく同じ形(波形)でありながら、山と谷が完全にひっくり返った「逆の波」を同時にぶつけると、波と波は互いを相殺し合い、理論上、空間からは完全に音が消滅する。
これを音響学の用語で「位相の反転(逆位相)」と呼ぶ。
(奴の本質が『音』そのものであるなら、その波形を完全に打ち消す逆位相の音をぶつければ、奴の存在そのものを根底から消滅させられるはずだ!)
だが、これは狂気の賭けだった。
通常、ノイズキャンセリングは耳元という極小の空間だからこそ精密に制御できる。これほど広大で、複雑な残響特性を持つモール全体で位相を完全に反転させるなど、スーパーコンピュータを使っても至難の業だ。
しかし、相馬には武器があった。
誰よりもこの館の残響時間を正確に把握している頭脳と、ミリ秒単位の音の遅延を聞き分ける、この呪われた「耳」だ。
相馬は、館内全体の集音マイクの入力を、ミキシングコンソールへと集約させた。液晶モニターには、今まさに四階から館内全体へと侵食を開始した「怪異の音波(相馬のサンプリング音声)」が、歪んだサイン波の塊としてリアルタイムで表示されている。
「……ギ、ギギ……ザザ……」
防災センターの天井のスピーカーからも、再び相馬の声が漏れ聞こえ始めた。無線機のアラート音が模倣され、奴がエラーから回復したのだ。
センターの防電扉が、外側から凄まじい風圧でミシミシと鳴り始める。奴が、すぐそこまで来ている。
相馬はコンソールの「フェーズ(位相反転)」スイッチを一斉にオンにした。
これで、マイクが拾った奴の音(原音)に対して、一八〇度反転した「逆位相の音」が、アンプを通じて館内すべてのスピーカーから出力される状態になった。
しかし、これだけでは足りない。空間の残響による「ズレ」がある。
相馬は、出力系統に組み込まれたデジタル・ディレイ(遅延回路)のつまみに手をかけた。
(ここから先は、マシンの計算じゃ追いつかない。俺の耳だけが頼りだ……!)
相馬は、すでに音の出なくなった自分の喉から、必死に空気の振動を絞り出そうとした。だが音は出ない。代わりに、センターの扉の隙間から、空間の歪みが黒い霧のようになって部屋の中へと染み込んできた。
スピーカーから、最大の音量で相馬の過去の声が響き渡る。
『この館の音を真似させてはならない……本物を消す……!』
怪異の放つ原音と、アンプが出力する逆位相の音。二つの巨大なエネルギーが、防災センターの中で激突した。
空気の分子が異常な摩擦を起こし、空間がキリキリと鳴動する。つまみをミリ単位で動かすたびに、音が大きくなったり、あるいは不自然に歪んだりする。位相がわずかでもズレれば、逆に音は増幅され、相馬の鼓膜は今度こそ破裂するだろう。
「……く、あああ!」
心の叫びとともに、相馬は自分の聴覚のゲインを、限界を超えて引き上げた。
原音の「山」と、逆位相の「谷」が、完全に重なり合う瞬間を、脳内のミキシングシートの上で探り当てる。
一ミリ、いや、〇・一ミリ単位の微調整。
スピーカーから出力される逆位相の音波の遅延時間を、アトリウムの残響特性である「三・八二秒」の倍数に、完璧にシンクロさせる——。
「ここだ……ッ!!」
相馬は、コンソールのマスターフェダーを、限界まで押し上げた。
ドォォォォォォォォォン……!!!
地鳴りのような、凄まじい衝撃波が防災センターを吹き抜けた。
それは「大音量」による衝撃ではない。空間からすべての音が、強引に、暴力的に「引き抜かれた」ことによる、超真空状態のような空気の激変だった。
次の瞬間。
世界から、一切の「音」が消滅した。
それは、静かという表現が生ぬるい、完全なる「無」だった。
アンプのハムノイズも、空調の風切り音も、蛍光灯の微かな唸りも、そして、部屋を埋め尽くそうとしていた怪異の咆哮も。すべてが、相馬が放った「逆位相の壁」によって完全に相殺され、圧殺されていた。
防災センターの扉の隙間から侵入していた空間の歪みが、自らの存在を支える「音」という媒体を失い、ガラスが粉々に砕け散るように、音もなく霧散していくのが見えた。
相馬はコンソールにしがみついたまま、荒い息を繰り返した。
音が、聞こえない。
だが、それは怪異に盗まれたからではなかった。自分の呼吸に合わせて、ネイビーブルーのジャケットが、カサリ、と微かな、だが確かに「本物の音」を立てて擦れたのを、彼の耳が捉えたからだ。
「は……、はは……」
口から、掠れた声が出た。
自分の声が、自分の耳に届く。
勝ったのだ。相馬は、音の物理法則をもって、音の怪異を完全に打ち消したのだ。
館内全体のスピーカーが、互いの音を殺し合う「絶対の無音」を維持し続ける中、防災センターの液晶モニターに映る通路からは、あの不気味な空間の歪みは完全に消え去っていた。
相馬はその場にへたり込み、ただ、奇跡的に取り戻した自分の心臓の、ドク、ドク、という力強い鼓動の音に、静かに耳を傾け続けた。
朝の光が、ガラス窓の向こうから、ゆっくりとモールを照らし始めようとしていた。




