第五章:消えないノイズ
完全な「無音」が支配する防災センターの中で、相馬はただ朝を待った。
コンソールのインジケーターは、原音と逆位相の波形が完全に噛み合い、互いを相殺し続けていることを示すフラットな線を刻み続けている。計器の上では、この空間には一デシベルの音すら存在していないことになっていた。
その絶対的な静寂の中で、相馬の耳だけが、己の肉体が内側から発する微細な駆動音——血管を巡る血液の擦過音や、肺胞が膨らむ湿った音——を、かつてないほどの解像度で拾い上げていた。
午前六時。自動タイマーの作動によって、館内の基本照明が一斉に点灯した。
眩いばかりの白い光が、夜の間あのおぞましい怪異が蠢いていたアトリウムを隅々まで照らし出す。コンクリートの柱も、ガラスのキャットウォークも、何事もなかったかのように無機質にそこに佇んでいた。
相馬は強張った身体を極限の痛みを伴いながら動かし、防災センターの重い防火扉を開けた。
館内放送システムのアンプからは、相馬が設定した逆位相の出力が今もなお絶え間なく流れ続けている。一歩通路へ踏み出しても、やはり足音はしない。だが、それは四階で怪異に音を奪われたときのような恐怖の無音ではなく、空間の物理法則を自らの手で支配しているという、奇妙な全能感を伴う無音だった。
四階へ上がると、大滝はまだそこにいた。
直角に折れ曲がった首、見開かれたまま生気を失った瞳。耳から流れ落ちた血は、夜の間にすっかりと乾燥し、黒ずんだ染みとなって彼の衣服と人工大理石の床にこびりついていた。
相馬は震える手で、大滝の胸ポケットから私物のスマートフォンを取り出した。そして、音声が出ないことを確認しながら、警察への通報画面に「警備員一名死亡。至急、臨場を乞う」と文字を打ち込み、送信した。
数十分後、モールの外に何台ものパトカーと救急車のサイレンが響き渡った……はずだった。
しかし、相馬の耳にはそのサイレンの音すらも届かなかった。
彼が構築した「アクティブノイズキャンセリング」の領域は、外から侵入しようとするあらゆる音波をも、その境界線(境界)で冷酷に相殺し尽くしていたからだ。
警察官たちがガラス扉を叩き、館内に押し入ってきたとき、彼らは一様に奇妙な表情を浮かべた。誰もが口を大きく開けて何かを叫んでいるようだったが、その声は彼らの唇から離れた瞬間に虚空へと消えた。相馬は無言で彼らを大滝の元へと案内し、すべての事後処理が始まるのを見届けた。
現場の検証が一段落し、機材の電源を落とすよう警察官にジェスチャーで促されたとき、相馬は一瞬だけ躊躇した。
このシステムの電源を落とせば、再び「あの音」が戻ってくるのではないか。
しかし、太陽の光が完全に館内を満たした今、あの教団の狂気が生み出した残響の呪いも、光の中に溶けて消えたように思えた。相馬が意を決してコンソールのマスターインサートを解除し、アンプの電源を落とした瞬間
「——あ、おい! 聞こえるか!?」
という、警察官の野太い声が、あまりにも唐突に、爆音のように相馬の鼓膜を叩いた。
日常の音が、世界に戻ってきた。
パトカーの無線から漏れる雑音、警察官たちの足音、衣服の擦れる音。
相馬は、自分が辛うじて「こちらの世界」に踏みとどまれたことを確信し、その場に崩れ落ちるようにして安堵のため息をついた。
当然ながら、相馬はその日のうちに「東洋新警セキュリティ」に退職届を提出した。
会社側は、ベテランである大滝の急死(警察の公式発表では『急性内耳出血に伴うショック死』とされた)に動揺しており、現場に居合わせた相馬が精神的なショックを理由に辞職を願い出たことを、深く追及することなく受け入れた。
「相馬、災難だったな。ゆっくり休めよ」
かつての上司の哀れみのこもった言葉も、今の相馬の耳には、どこか遠くの出来事のようにしか響かなかった。
グランドモール・カナタでのあの悪夢のような夜から、一ヶ月が経った。
相馬は都内の古びた木造アパートの一室に引きこもり、最低限の貯金を切り崩しながら、ただ静かに毎日を過ごしていた。もう音楽業界に戻ろうという気力も、新しく別の仕事を探そうという意欲も完全に失われていた。
彼の生活からは、あらゆる「音」が極力排除されていた。
テレビは一切つけず、スマートフォンも常に完全消音モード。部屋の窓は二重サッシに改造し、外を走る車の音や通行人の話し声が入り込まないよう、徹底的な防音処置を施した。
夜間警備員を辞めてからというもの、相馬の聴覚はさらに異常なまでの過敏さ(ハイパーアカシス)を見せるようになっていた。
冷蔵庫のコンプレッサーが放つ、わずか数ヘルツの超低周波が脳を直接揺さぶるように聞こえる。水道の蛇口から滴る水滴の音が、まるで頭蓋骨の中で鳴り響く打楽器のように感じられる。
彼にとって、世界はあまりにも「うるさすぎる」場所になっていた。
だが、どれほど周囲の音を遮断しても、彼自身の肉体が立てる音だけは消すことができなかった。
歩くときの足音。衣服が擦れる音。そして、静寂の中で最も大きく自己主張を続ける、心臓の鼓動。
ドク。ドク。ドク。
それは、彼がまだ生きてここにいることの証明であり、同時に、あの夜の恐怖を呼び覚ます呪いのカウントダウンのようでもあった。
(でも、終わったんだ)
相馬は、ベッドの上で膝を抱えながら自分に言い聞かせた。
あのモールからは離れた。あの場所の特殊な超反響構造がなければ、あの怪異は存在できないはずだ。ここは、ただの平凡な、壁の薄い木造アパートだ。神の音を聞く儀式が行われた聖堂の跡地なんかじゃない。
物理的に考えて、怪異がここまで追ってくる理屈がない。
相馬は、机の上に置かれたかつての音響工学のノートを開き、そこに書かれた数式や波形のグラフを眺めることで、必死に自分の精神を安定させようとした。すべては波の干渉であり、空間の特性に依存する現象だ。あの怪異は、あのモールの空間そのものだったのだ、と。
時計の針が、深夜の二時を指そうとしていた。
外の通りからも完全に人通りが消え、アパートの周りは、相馬が望んでいた完璧に近い静寂に包まれていた。
相馬はノートを閉じ、電気を消してベッドに横たわった。
部屋の中は、完全な暗闇。
聞こえてくるのは、自分の静かな呼吸音と、胸の奥で規則正しく時を刻む鼓動の音だけ。
ドク。
ドク。
ドク。
(落ち着くんだ。もう、何も聞こえない。俺の音は、俺だけのものだ)
相馬はゆっくりと目を閉じ、深い眠りへと落ちていこうとした。
その時だった。
暗闇の中で、相馬の耳の奥の産毛が、不自然に逆立った。
元音響エンジニアとしての彼の本能が、脳の睡眠スイッチを強制的に叩き切る。
相馬は目を見開き、暗闇の天井をじっと見つめた。
静寂。
部屋の中には、何もない。自分の鼓動だけが響いている。
ドク。
……ドク。
(気のせいか……?)
そう思った瞬間。
相馬の背筋に、氷水を直接流し込まれたかのような、凄まじい戦慄が走った。
違和感は、またしてもあの「時間差」として現れた。
自分の胸の奥で、心臓が打たれる。
ドク。
その、わずか〇・二秒後。
部屋の隅——遮光カーテンで完全に覆われた窓際の壁のあたりから、極めて微小な、しかし確実に「同じ形をした音波」が響いてきたのだ。
——ドク。
相馬は、ベッドの上で完全に身体を硬直させた。
息を止め、全神経を、その音が聞こえてきた壁へと集中させる。
(違う。ただの壁の反響だ。この狭い部屋だ、俺の鼓動の音が、遮音性の高い壁に当たって跳ね返ってきただけだ。そういう物理現象だ)
脳が、狂ったように言い訳を叩き出す。
だが、彼の優秀すぎる耳は、その言い訳を冷酷なまでに却下した。
木造アパートの、吸音性の高いクロスが貼られた石膏ボードの壁。そんな場所で、これほど低く、湿った、人間の内臓が発する音が、減衰もせずに鮮明に「反響」するわけがない。
それに、反響音であれば、原音である自分の鼓動と完全に「同時」か、あるいは測れないほどの超短時間(ミリ秒単位)で戻ってくるはずだ。
これほど明確に、人間の意志を感じさせるほどの「〇・二秒の遅れ」を持って聞こえてくるなど、絶対にあり得ない。
ドク。
……ドク。
胸の鼓動が高鳴る。恐怖によって、心拍数が跳ね上がっていく。
ドク、ドク、ドク、ドク。
それに追従するように、壁の奥からの音も、全く同じリズムで加速し始めた。
——ドク、ドク、ドク、ドク。
その音は、壁の表面から鳴っているのでは なかった。
壁の「向こう側」、あるいは、壁という物質の「内部の隙間」から、じわじわとこちらへ向かって染み出してきているようだった。
相馬は、あの夜の大滝のメモの言葉を、信じがたい恐怖とともに思い出した。
『奴は、聞いた音を少しずつ模倣する……奴に、お前の音を完成させるな』
(まさか……、あのモールで、奴はすでに……)
あのクライマックスの夜、相馬が放った逆位相の音波によって、怪異は確かに霧散したはずだった。
だが、奴は完全に消滅してなどいなかったのだ。奴は、相馬がこれまでに立てたすべての音——足音も、声も、呼吸も——を、すでに完璧に「サンプリング(模倣)」し終えていた。
残されていた最後のトラック。
奴がまだ模倣しきっていなかった、相馬健治という人間の、最後の、そして最も根源的な音。
それが、この「心臓の鼓動」だったのだ。
奴は、相馬の身体の奥深くで鳴り響くその音のデータを、あの夜、相馬自身の耳を通じて、あるいは彼の肉体に刻み込まれた残響を通じて、密かに持ち帰っていたのだ。そして、この一ヶ月の間、相馬が静寂を求めれば求めるほど、奴は相馬のすぐ傍らの暗闇で、その最後の音の波形を、じっくりと、完璧に補完し続けていた。
「ああ……、あああ……」
相馬の口から、掠れた絶望の喘ぎが漏れた。
声が出ないわけではない。だが、その声を発した瞬間。
『ああ……、あああ……』
今度は天井の換気口の奥から、一ヶ月前に彼が失ったはずの、あの「完璧な模倣の声」が、ワンテンポ遅れて響き渡った。
スピーカーなどないはずの、この古いアパートの空間そのものが、あのグランドモール・カナタと全く同じ「超反響体」へと変貌を始めていた。部屋の空気が、細かく、ピリピリとした異常な音圧を帯びて振動し始める。
(もう、機材はない……。逆位相を鳴らすアンプも、マイクも、ここには何もない……!)
対抗する手段は、完全に奪われていた。
スピーカーからではない。この部屋の壁、天井、床、そして相馬を取り囲む「空間そのもの」が、今や完璧に相馬の音を再生する巨大な装置と化していた。
ドク、ドク、ドク、ドク!
壁からの鼓動の音が、次第に大きくなっていく。その音量が、本物である相馬の胸の鼓動の音量を追い越そうとした、その時。
相馬の胸の奥で、明確な「喪失」が起こった。
心臓は確かに動いている。胸に手を当てれば、肉体が激しく脈打っている衝撃は伝わってくる。
だが、そこからは、何の音も生まれなくなっていた。
彼自身の胸からは、一切の鼓動の音が消え去り、ただ、壁の向こう側から響く「模倣された鼓動」だけが、この部屋の唯一の正解として、圧倒的な音量で鳴り響いている。
オリジナルが消え、コピーが世界を乗っ取っていく。
暗闇の中、アパートの壁面が、陽炎のようにグニャリと歪み始めた。
その空間の歪み(ノイズ)は、相馬がこれまでに人生で立ててきたすべての音の記憶を、大音量のオーケストラのように演奏しながら、ベッドの上の彼に向かって、じわじわと、完璧な足取りで近づいてくる。
相馬はただ、両耳を血が出るほど強く塞ぎ、二度と戻らない本当の静寂を求めて、音のない絶叫をあげ続けた。
部屋の壁からは、彼と全く同じトーンの、しかし彼のものではない絶叫の残響が、いつまでも、いつまでも遅れて響き渡っていた。




