第三章:音の正体と「館のルール」
大滝の耳栓に付着していた血。そして、ヘッドフォンの奥から聞こえてきた、誰のものでもない歪んだ呼吸音。
あの夜以来、相馬の脳裏からは不穏なノイズが消えなくなっていた。元音響エンジニアとしての論理的思考は、すでに限界を迎えていた。あれは物理現象などではない。もっと悪質で、捕食的な「何か」がこのグランドモール・カナタに潜んでいる。
相馬は次の休日、取り憑かれたように施設の「過去」を調べ始めた。
新築の商業施設であるはずのこの場所が、なぜこれほどまでに歪んだ音響特性を持っているのか。地元図書館の郷土資料室や、ネットの黎明期から残るオカルト掲示板のログを漁り、相馬はついにひとつの土地の履歴に突き当たった。
「グランドモール・カナタ」が建設される前、この広大な郊外の土地には、ある新興宗教団体の広大な本部施設が存在していた。
団体の名は「共鳴ノ家」
一九九〇年代後半に社会問題を起こし、強制捜査の末に解散した謎多き集団だ。
資料に残された教団本部の設計図を見た瞬間、相馬は息を呑んだ。現在のモールの象徴である「四階ぶち抜きの巨大アトリウム」は、かつて教団の礼拝堂だった空間の骨組みをそのまま流用したものだったのだ。
そしてその礼拝堂の壁面は、現在のコンクリートとは異なり、全面が特殊な「超反響建材」で覆われていたという。
さらに、当時の元信者の手記とされるデータには、戦慄すべき「儀式」の内容が記されていた。
> 『我らは、防音と反響を極限まで突き詰めた「無響の聖堂」に集う。
> そこで一人が発した祈りの声は、壁と壁の間を無限に往復し、決して減衰することなく増幅される。
> 音が空間を埋め尽くし、やがて「自意識の音」を追い越したとき、聖堂そのものが祈りの声を完璧に模倣し始める。
> その模倣こそが、我らの希求する「神の御声」であり、その音に呑まれた者は、肉体のノイズから解放されて神へと昇華されるのだ——』
「神の音を聞く儀式……」
相馬はノートを持つ手を震わせた。音を限界まで反響させ、空間にそれを「模倣」させる。それは音響学的に言えば、空間そのものを巨大なサンプラー、あるいは遅延回路に変える狂気の試みだった。
教団は解散したが、その儀式によってこの土地の空間に染み付いてしまった「歪み」は、建物がモールに変わった今もなお、死なずに息を潜めているのではないか。
そして、その空間が今、新たなる「音」を求めて動き出している。
「……相馬、聞いてるか。俺は四階のレストラン街から回る。お前は二階のテナントエリアだ」
インカム(無線イヤホン)から大滝の声が聞こえる。いつもの、抑揚のない老人の声。しかし、その声の背景に混ざるホワイトノイズは、数日前よりも明らかに密度を増していた。
数日ぶりの夜勤。相馬は自前の耳栓をポケットに忍ばせていたが、それを使う勇気はまだなかった。音を遮断すれば、あの怪異がいつ背後に迫っているのかすら分からなくなる。
午前三時十五分。
二階の薄暗い通路を歩きながら、相馬は自分の鼓膜が捉えるすべての音に怯えていた。
ササッ、ササッ。ナイロンジャケットの擦れる音。
ジャラ……、ジャラ……。腰の鍵束が跳ねる音。
それらの日常の音が、吹き抜けを通じて四階まで昇り、歪んだ残響となって戻ってくる。
(真似されている。この空間に、俺の音が吸い取られている……)
そう直感したときだった。
ジ、ジジッ……。
耳に挿入したインカムのレシーバーから、鼓膜を直接針で引っ掻くような、激しいノイズが弾けた。相馬は思わず顔をしかめ、耳を押さえる。
「大滝さん? どうしました、感度が悪いです」
応答はない。ただ、激しい「ザザザザ」という砂嵐のような音が耳の奥で渦巻いている。
そして、そのノイズの向こうから、それは聞こえてきた。
「——あ。ああ。あああぁぁあぁあッ!!」
大滝の声だった。
だが、それは人間の喉から発せられる通常の悲鳴ではなかった。まるで、録音した悲鳴を何重にも引き伸ばし、ピッチを極限まで裏返したような、あるいはスピーカーが限界を超えて割れたときのような、金属質で、内臓を掻きむしるような絶叫。
「大滝さん! 大滝さん、しっかりしてください! どこにいるんですか!?」
相馬は二階のキャットウォークから吹き抜けの向こうを見上げ、同時に腰の無線機に叫んだ。
しかし、インカムからはただ、大滝の悲鳴が——いや、大滝の悲鳴を「何百倍にも増幅してループ再生しているような音」が、耳の奥を破壊せんばかりの音量で鳴り響き続けている。
相馬は狂ったように防災センターへと走り戻った。現地の状況を確認するには、監視カメラのモニターを見るのが一番早い。
センターの扉を蹴り開け、メインコンソールに飛びつく。相馬は震える手で操作パネルを叩き、大滝が向かったはずの「四階・中央アトリウム前」のカメラ映像を中央モニターに呼び出した。
「な……んだ、これ……」
画面を見つめたまま、相馬は息を吸うのを忘れた。
モニターに映る四階のキャットウォーク。薄暗い月光の差し込むその場所に、大滝はいた。
大滝は、静止していた。
彼は無線機を握り締めたまま、まるで時間が凍りついたかのように、直立不動の姿勢で真上を見上げていた。首が不自然なほど直角に折れ曲がり、顔は天井の暗闇をじっと見つめている。衣服の揺れひとつない。
だが、相馬の耳にあるインカムからは、今もなお「大滝の悲鳴」が、凄まじい音量と狂気的なランダム性をもって再生され続けているのだ。画面の中の大滝の口は、完全に閉じられているというのに。
映像(視覚)と音声(聴覚)の、絶対的な乖離。
その非現実的な光景に、相馬の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
「大滝さん……!」
相馬はインカムを耳から引きちぎって床に投げ捨てると、防犯灯を掴んで、大滝のいる四階へと全力で階段を駆け上がり始めた。
四階のアトリウムへ続く通路は、異常な「音圧」に満ちていた。
空気が細かく振動し、肌にピリピリとした山鳴りのような圧迫感を覚える。それは、巨大なウーファーの前に立ったときに感じる、あの重低音の壁に似ていた。
「大滝さん!」
通路を曲がり、アトリウムのキャットウォークへ飛び出す。
防犯灯の放つ白い光の束が、暗闇の中に佇む大滝の背中を捉えた。モニターで見た通り、大滝はまだ真上を見上げたまま、微動だにせずそこに立っていた。
相馬は慎重に、だが急ぎ足で大滝に近づく。
「大滝さん、無事ですか! 大滝さ……」
大滝の正面に回り込み、その顔を光で照らした瞬間、相馬は短い悲鳴を上げて数歩後ずさった。
大滝は、すでに事切れていた。
見開かれた両目は完全に光を失い、焦点はどこにも合っていない。そして何より異常だったのは、彼の両方の耳の穴だった。
大滝の耳から、どす黒い大量の血液が溢れ出し、顎を伝って制服の襟を深く染め上げていた。
その出血の仕方は、尋常ではなかった。外傷によるものではない。耳の奥、鼓膜のさらに向こう側にある内耳が、凄まじい「内圧」によって内側から爆発を起こし、 破裂したのだということが、医師でなくとも一目で分かった。彼の鼓膜は、外からの大音量によって破られたのではない。内側から外に向かって、突き破られていたのだ。
大滝の表情は、恐怖に歪んでいるというよりは、すべての「自己」を抜き取られた抜け殻のようだった。
相馬は恐怖で歯をガタガタと鳴らしながらも、大滝の制服のポケットから何かが覗いているのに気づいた。それは、大滝がいつも使っていた、あの血に汚れた黄色い耳栓……ではなかった。
くしゃくしゃに丸められた、警備日誌の裏紙だった。
大滝の冷たくなりかけた手からその紙を引き抜き、防犯灯の光の下で広げる。
そこには、大滝の震える筆跡で、鉛筆が芯の折れるほどの強い筆圧で書き殴られた「殴り書きのメモ」があった。
> 『この館の音を真似させてはならない。
> 奴は、聞いた音を少しずつ模倣する。
> 足音、衣服の擦れる音、呼吸の音、そして声。
> 奴がすべての音を真似し終えたとき、
> 真似し終えた音は、本物を消す。
> 音を立てるな。耳をすますな。
> 奴に、お前の音を完成させるな——』
メモを読み終えた相馬の脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡った。
一歩遅れて聞こえる足音。
自分と全く同じリズムの呼吸音。
大滝の悲鳴を再生し続けるインカムと、口を閉ざしたまま死んでいる大滝の肉体。
(そういうことか……!)
この館に潜む怪異の正体。それは、空間そのものに宿った「模倣の呪い」だ。館は、内部で発生した音を捕食し、それを完璧にコピーする。そして、その音の持ち主のすべての音を模倣し終えた瞬間、コピーが本物を駆逐し、本物の人間は「音を立てる権利」ごと、その存在を消滅させられるのだ。大滝は、自分の音が模倣され尽くすのを防ぐために、耳栓をし、自らの鼓膜が内側から破壊されるほどの「奴の音」に耐えていたのだ。だが、ついに耐えきれず、すべての音を真似されてしまった。
そのとき、相馬の背後の空間が、不自然に「歪んだ」
ジ、ザザ……。
アトリウムの天井に設置された、業務用の全指向性スピーカー。
通電などしているはずのないその機材から、一斉に、低く冷酷なノイズが鳴り響き始めた。
相馬はゆっくりと振り返り、天井を見上げた。
暗闇の奥から、何かが、相馬の立てた「ジャラ……」という鍵束の音を、正確にサンプリングして響かせ始めていた。




