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第二章:侵食する異音


 最初の怪異から、四日が経過していた。

 相馬の生活は、完全に昼夜が逆転していた。遮光カーテンを閉め切ったアパートの一室で泥のように眠り、夕方に起きてコンビニの弁当を口に運び、深夜に「グランドモール・カナタ」へ出勤する。かつて、きらびやかなスタジオで1分1秒の音に神経を研ぎ澄ませていた日々が、遠い前世のことのように感じられた。

 あの日、三階の衣料品フロアで聞いた「一歩遅れて聞こえる足音」のことは、無理やり脳の隅に押しやっていた。あの後、音響工学の専門書を読み返し、広大な吹き抜け構造における「一次反射音」と「時間遅延(タイムアライメント)」の関係についてノートに数式を書き殴った。すべては物理現象だ。そう自分に言い聞かせることで、辛うじて正気を保っていた。


 その日のシフトは、相馬が防災センターでのモニター監視、先輩の大滝が館内巡回という割り当てだった。

 午前二時。防災センターの中は、数十台の液晶モニターが放つ青白い光に満たされていた。壁一面に並んだ画面には、無人の通路、照明の落とされたエントランス、静まり返った搬入口などが、無機質な白黒の映像として映し出されている。


 大滝は一時間ほど前に「ちょっと回ってくる」と言い残し、いつものように黄色い耳栓を耳の奥深くへとねじ込んでセンターを出て行った。

 一人残された相馬は、デスクの中央にある「監視カメラ音声システム」のコンソールに目を向けた。この最新鋭の施設には、特定の重要監視区域に高性能の集音マイクが設置されており、防災センター側から現地の「音」をリアルタイムでモニターできるようになっている。

 元音響エンジニアの悪癖だった。相馬は無意識のうちに、コンソールのヘッドフォン端子に、私物のモニター用ヘッドフォンを差し込んでいた。スタジオ仕様の、音の解像度が極めて高い密閉型のヘッドフォンだ。


「……ザ、ザザ……」


 いくつかのチャンネルを切り替えてみる。聞こえてくるのは、空調の微かな風切り音や、ビルの高圧電気室から漏れる「ジー」という一〇〇ヘルツ付近のハムノイズだけだ。

 相馬が何気なく「地下一階・東側駐車場」の音声チャンネルを選択したときだった。

 ヘッドフォンから、それまでの環境ノイズとは明らかに質の異なる「音」が飛び込んできた。


 ——コツ。


 相馬の身体が硬直した。


 ——コツ。……コツ。


 規則的な、硬いものが床を叩くような音。コンクリートの硬質な床に、何かが衝突して生まれる高域の減衰が、ヘッドフォンを通じて鮮明に鼓膜を震わせる。

 相馬は即座に、地下一階の防犯カメラ映像を中央の大型モニターに拡大表示させた。

 画面に映し出されたのは、太いコンクリートの柱が整然と並ぶ、広大な地下駐車場だ。夜間はすべての侵入経路が遮断され、契約車以外の車は一台も停まっていない。蛍光灯の薄暗い光が、誰もいないアスファルトの床を虚しく照らしている。

 画面の中には、動くものは何もなかった。

 だが、音は聞こえ続けている。


 ——コツ。……コツ。……コツ。


 それは、まるで人間がヒールのある靴でゆっくりと歩いているようでもあり、あるいは、尖った骨のような何かが床を一定のテンポで叩いているようでもあった。


(どこだ? どこで鳴っている?)


 相馬はコンソールのボリューム(フェーダー)を徐々に上げていった。音の輪郭がさらにハッキリとする。その音には、地下駐車場特有の、壁が近いために起こる短く鋭い初期反射(アーリー・リフレクション)が含まれていた。間違いない。この音が鳴っているのは、間違いなくあの地下駐車場の空間内だ。

 しかし、カメラの死角をいくら探しても、画面には何も映らない。


「ザザッ……こちら大滝。相馬、そっちのモニターに異常はあるか?」


 腰の無線機から大滝の声が弾けた。大滝は現在、三階を巡回中のはずだった。

 相馬はヘッドフォンをずらし、無線機のトークボタンを押した。


「大滝さん、地下一階の駐車場です。音声モニターに、奇妙な足音のようなものが混入しています。カメラを見る限り、人影はありません」

「……あ? 足音? 俺の足音じゃないのか?」

「いえ、大滝さんは今三階ですよね。僕もここにいます。駐車場は完全に無人のはずです。ですが、何かが床を叩く音が、今も規則正しく聞こえてるんです」


 無線機の向こうで、大滝が不自然な沈黙を返してきた。ノイズに混じって、大滝の荒い息遣いだけが聞こえる。


「……相馬。さっきも言ったろ。夜のビルは変な音がするんだ。配管の熱膨張でコンクリートが弾ける『ウォーターハンマー現象』ってやつだよ。気にするな」

「違います、これは金属の膨張音なんかじゃない。完全に周期性のある……」

「いいから、気になるなら自分で見てこい。俺はもうすぐ巡回が終わる」


 ブツリ、と無線が切れた。

 相馬はヘッドフォンを外し、デスクに叩きつけた。プロの耳を、素人の「気のせい」という言葉で片付けられるのは、スタジオ時代から最も我慢ならないことだった。あの音がウォーターハンマーなわけがない。あれは、明確な「意思」を持って床を叩く音だ。

 相馬は防犯灯を掴むと、防災センターを飛び出し、地下一階へと続く階段を駆け下りた。


 階段室の重い防火扉を開けると、ひんやりとした地下の空気が相馬を包み込んだ。

 独特の、コンクリートと排気ガスの残り香が混ざった匂い。

 地下駐車場は、防災センターのモニターで見た通り、不気味なほど静まり返っていた。等間隔に配置された緑色の非常口誘導灯が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 相馬は防犯灯のスイッチを入れ、強力な光のビームで駐車場の奥を照らし出した。


「誰かいるのか!」


 声を大にして叫んでみる。


「誰かいるのか……いるのか……のか……」


 声はコンクリートの壁に激しく反響し、幾重にも重なって相馬の耳に戻ってきた。これだけ残響が激しい空間だ。もし先ほどの「コツ、コツ」という音がまだ続いているなら、肉眼でも位置を特定できるはずだった。

 しかし、相馬が駐車場に足を踏み入れた瞬間から、あの音はピタリと止んでいた。

 相馬は靴底を鳴らさないよう、忍び足で柱の陰を一つずつ確認していった。管理用の倉庫、電気室の扉、消火栓の裏。どこを見ても、不審者の姿はない。通気口から吹き出す空調の風が、時折ヒューヒューと頼りない音を立てているだけだ。


「……やっぱり、ただの音の迷い込み(クロストーク)か?」


 地上を走る車の振動や、上層階の排水の音が、建物の骨組みを伝って地下で増幅された可能性を、相馬は考え始めた。固体伝播音と呼ばれる現象だ。それなら、カメラに何も映らず、現地に来たら音が聞こえないことにも一応の説明はつく。 


「プロとして、情けないな」


 相馬は小さく息を吐き、緊張で肩が凝っていることに気づいた。これ以上ここにいても意味はない。大滝の言う通り、ただの建物のノイズだと思い込もうとした。

 相馬は翻り、地上へと続く階段の扉へ向かって歩き出した。

 その、わずか数歩目だった。

 背後の完全な暗闇——照明の届かない、駐車場の最奥部から、その「音」は聞こえてきた。


「……スゥ……」


 相馬の足が、凍りついたように止まった。


「……フゥ……」


 それは、人間の呼吸音だった。

 それも、ただの呼吸ではない。

 衣服が擦れるわずかな音。鼻腔を空気が通り抜ける摩擦音。肺が膨らみ、萎むときの、湿った細胞の動く気配。

 そのすべてが、あまりにも「聞き覚えのある」特徴を持っていた。

 相馬の頭脳が、その音のデータを瞬時に解析する。


(これは……俺の音だ)


 息を吸う秒数、吐き出すときのわずかな引っかかり、呼吸の深さ、リズム。それは、たった今まで相馬自身が、緊張の中で繰り返していた呼吸と、寸分違わぬ「完璧な模倣」だった。

 恐怖で全身の毛穴が開き、心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされる。

 相馬は、自分の呼吸を完全に止めた。

 だが。

 背後の暗闇からの呼吸音は、止まらなかった。


「……スゥ……」

「……フゥ……」


 相馬が息を止めているにもかかわらず、闇の中の「何か」は、相馬が先ほどまで立てていた呼吸のリズムを、そのままテープレコーダーのように再生し続けている。まるで、相馬健治という人間の「存在の音」を、じっくりと味わい、サンプリングしているかのように。


「ひっ……」 


 短い悲鳴が口から漏れた。

 相馬は振り返ることもできず、猛然と走り出した。背後で、自分の悲鳴と全く同じトーンの「ひっ」という音が、ワンテンポ遅れて追いかけてくるのが分かった。

 階段の扉を体当たりするようにして開け、心臓が千切れるほどの勢いで階段を駆け上がった。自分の足音が、階段室の中で何倍にも増幅されて頭上から降ってくる。そのすべての音のすぐ後ろに、何かがピタリと張り付いているような恐怖に、相馬は狂いそうだった。


 防災センターの扉をこじ開けるようにして、相馬は部屋に滑り込んだ。

 激しい呼吸のまま、デスクに両手を突いてへたり込む。


「おいおい、どうした相馬。幽霊でも出たか?」


 パイプ椅子に座り、お茶をすすっていた大滝が、怪訝そうな顔で相馬を見上げた。大滝はすでに巡回を終え、リラックスした様子だった。


「大滝さん……! 駐車場に、何かがいます!」


 相馬は激しく乱れた呼吸を整えようともせず、大滝の肩を掴まんばかりの勢いで捲し立てた。


「音なんです! 僕の呼吸の音を、全く同じリズムで真似する何かが、あの暗闇の中にいるんです! あれは絶対に建物のノイズなんかじゃない。僕の声を、僕の音を、完全にコピーして……!」


 相馬の必死の訴えを、大滝は冷めた目で見つめていた。そして、やれやれと首を振ると、耳に深く差し込まれていた黄色い耳栓を、ゆっくりと引き抜いた。


「相馬。お前、元は音の仕事をやってたんだろ? だから余計に敏感になってるんだ。いいか、何度も言わせるな。夜のビルは変な音がする。だがな、いちいちそれに付き合ってたら、この仕事は務まらんのだよ。気にするな。耳をすますな。それがここで生き残る……いや、長く働くコツだ」


 大滝の言葉は、どこか突き放すような、それでいて妙に冷徹な響きを帯びていた。


「でも、大滝さん! 実際に僕は聞いたんです! あれは……」


 相馬は次の言葉を失った。

 大滝の顔を間近で見た瞬間、相馬の鋭い視線が、ある「異常」を捉えたからだ。

 大滝が今外したばかりの、黄色いウレタン製の耳栓。

 その表面に、べっとりと、どす黒い赤色をした「何か」が付着していた。

 それは、明らかに乾燥しかけた血液だった。


「大滝さん、その耳栓……血が……」


 相馬が指をさすと、大滝は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐにいつもの、生気の乏しい笑みに表情を戻した。そして、血のついた耳栓を、汚れを隠すように素早くズボンのポケットに突っ込んだ。


「ああ、これか。気にするな。ちょっと耳の奥が荒れててな。最近、どうも耳鳴りが酷くて、つい深く突っ込みすぎちまうんだ」


 大滝はそう言うと、相馬から視線を外すように、再び何事もなかったかのようにモニターの画面へと目を向けた。

 だが、相馬は見てしまった。

 大滝が耳栓を外した側の左耳の穴から、一筋の細い血の跡が、首筋に向かってうっすらと流れ落ちているのを。大滝はそれに気づいていないのか、あるいは、気づかない振りをしているのか。


(大滝さんは、本当に耳が荒れているだけなのか……?)


 それとも、大滝の耳栓は、外からの音を遮断するためではなく、彼の耳の奥から「漏れ出そうとする何か」を、あるいは「内側から破裂しそうな何か」を、必死に食い止めるためのものなのではないか。

 大滝の横顔を見つめながら、相馬は激しい戦慄を覚えていた。

 防災センターの静寂の中、デスクの上に置かれた相馬のヘッドフォンから、まだ微かに「ザ、ザザ……」というノイズが漏れ聞こえている。

 そのノイズの底から、今度は相馬ではなく、大滝の「フゥ、フゥ」という老人の歪んだ呼吸音が、かすかに、そして確実に、誰のものでもない音として再生され始めていることに、相馬だけが気づいていた。


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