第一章:静寂と「不自然な足音」
耳が良すぎるということは、時に呪いと同じ意味を持つ。
相馬健治は、自分の左耳の裏を無意識に指先でなぞった。三十二歳。ほんの数ヶ月前まで、彼は都内の有名なレコーディングスタジオでミキシングコンソールを前にしていた。
アーティストが発するミリ秒単位のピッチのズレを見抜き、ドラムのキックに含まれるわずかな低域の濁りを聞き分ける。それが彼の仕事であり、誇りだった。
しかし、その鋭すぎる聴覚と、音に対する一切の妥協を許さない偏屈な職人気質が、彼の足元をすくい去った。
「相馬くん、今のテイクで十分だよ。リスナーはそこまで求めてない。流行りのサブスクで、スマホのスピーカーで聴かれる音楽なんだからさ」
スタジオのソファーにふんぞり返った所属事務所の社長の言葉に、相馬の細い眉が跳ね上がった。その隣では、今をときめく十代の看板ソロアーティストが、面倒くさそうにスマートフォンをいじっている。その日、その若者が歌ったボーカルラインは、ピッチ補正ソフトでいくらでも誤魔化せるという前提の、あまりにも雑で、魂の抜けたものだった。
「スマホで聴くからこそ、余計なノイズや歪みは徹底的に排除しなきゃいけないんです。このテイクは中音域が完全に潰れてる。もう一度、せめてサビだけでも録り直させてください。このまま世に出すのは、僕の耳が許さない」
相馬の言葉は正論だったが、あまりにも攻撃的すぎた。社長の顔がみるみるうちに不快感で歪んでいく。
「君さあ、誰の金でこのスタジオが回ってると思ってるわけ? 自分の耳がそんなに偉いなら、一人で山にでも籠って自然の音でも録ってろよ」
「——ええ、そうさせていただきます。こんなジャンクフードみたいな音に僕の時間を切り売りするのは、もう限界だ」
売り言葉に買い言葉。激昂した相馬は、その場で機材の電源を叩き落とし、スタジオを飛び出した。
結果は惨愐たるものだった。偏屈な社長の怒りは凄まじく、相馬は一晩にして「業界のタブーを冒した危険人物」として悪評を流され、音楽業界から完全に干された。狭い業界だ。どこのスタジオに履歴書を送っても、面接すら漕ぎ着けられない。音楽以外のスキルを持たない三十二歳の男に残された道は、驚くほど狭かった。
貯金が底をつきかけ、家賃の支払いに窮した相馬が縋ったのは、学生時代に生活費を稼ぐために数年間籍を置いていた、中堅どころの警備会社「東洋新警セキュリティ」だった。
「おお、相馬か。懐かしいな。お前、あの頃から真面目だけが取り柄だったもんな。今はどこも人手不足だから、経験者なら大歓迎だよ」
かつての上司は、相馬の履歴書のまったくの異業種による経歴を深く追及することなく、二つ返事で採用を決めてくれた。
こうして相馬は、きらびやかな音の世界から、深夜の静寂を監視する「夜間警備員」へと転身を遂げることになったのである。
法定研修を終え、いくつかの現場で先輩の同行を経験したのち、相馬が初めて単独での夜間巡回を任されたのは、郊外に建設されたばかりの大型商業施設「グランドモール・カナタ」だった。
地上四階、地下一階。アパレルショップ、シネマコンプレックス、広大なフードコートを内包するその施設は、数か月前にオープンしたばかりの最新鋭のビルだ。しかし、ひとたび営業時間を終えて夜の帳が降りれば、昼間の喧騒が嘘のように、巨大なコンクリートとガラスの墓標へと姿を変える。
「それじゃあ相馬、俺は防災センターでモニターを見てるから、一階から順番に巡回ルートを回ってきてくれ。異常があったら、すぐに無線で連絡するように」
今夜の相棒であるベテラン警備員の大滝が、無造作にそう言った。五十五歳になるという大滝は、なぜか勤務中であるにもかかわらず、両耳に黄色いフォームタイプの耳栓を深く差し込んでいる。
「大滝さん、その耳栓は……?」
相馬が尋ねると、大滝は耳栓を少しだけ浮かせて、面倒くさそうに笑った。
「これか? 夜のビルはな、変な音がするんだよ。配管が軋む音とか、空調の風が抜ける音とか、建物の建付けが馴染む音とかな。いちいち気にしてたら精神が持たん。長年やってる俺の知恵さ。『夜のビルは変な音がするが、いちいち気にするな』。これがこの現場のコツだ」
大滝は再び耳栓を押し込み、それ以上会話を拒むようにパイプ椅子に深く腰掛けた。
相馬は内心で首を傾げた。警備員が耳を塞いでどうするのだ、と。しかし、新入りの自分がベテランのルーティンに口を挟むわけにもいかない。相馬は腰のベルトに装着された重い鍵束と、懐中電灯、そして無線機を確認すると、支給されたばかりのネイビーブルーのナイロンジャケットの襟を正し、防災センターの重い防火扉を開けて通路へと踏み出した。
時刻は午前一時四十五分。
館内は、完全な「静寂」に包まれていた。
いや、正確には完全な無音ではない。元音響エンジニアである相馬の鼓膜は、闇の中に潜む微細な環境音を冷酷なまでに拾い上げていた。
一階のメインエントランスから中央アトリウムに足を踏み入れる。この施設の最大の特徴は、一階から四階までを大胆に貫く、巨大な吹き抜け構造だった。天井はガラス張りになっており、月光が青白く床を照らしている。
音が、非常に反響しやすい構造だ。
相馬はプロとしての本能で、瞬時にその空間の残響特性を計算していた。おそらく残響時間は三・五秒から四秒。音が壁やガラスに衝突し、減衰せずに何度も往復する。
「ザザッ……」
腰の無線機から、定期的に漏れるわずかなホワイトノイズ。
相馬が歩を進めるたびに、彼の身の回りからいくつかの「日常の音」が立ち上がった。
制服のナイロンジャケットが擦れる、ササッ、ササッという乾いた音。
腰からぶら下がった真鍮製の鍵束が、歩調に合わせて、ジャラ……、ジャラ……と低く鈍い金属音を立てる。
そして、安全靴の分厚いゴム底が、磨き上げられた人工大理石の床を捉える、コツ、コツ、という規則的な足音。
それらの音が、吹き抜けの大空間に放射され、天井に向かって吸い込まれては、微かな残響となって耳に戻ってくる。まるで、自分が巨大な楽器の胎内にいるかのような錯覚を覚えた。
二階の家具・インテリアフロアを異常なしと確認し、相馬はエスカレーターを歩いて三階へと上がった。三階は若者向けの衣料品フロアだ。昼間は流行のポップスが鳴り響き、マネキンたちが最新のファッションを身にまとって客を迎える場所。しかし、夜の照明が落とされたフロアは、まるで首を吊られた衣服の死体が並ぶ、不気味な迷路のようだった。
床の素材が、一階の人工大理石から、やや硬質のタイルへと変わる。
足音が少し高音を帯びた。
コツ。コツ。コツ。
相馬はゆっくりと通路を歩く。懐中電灯の白いLEDの光が、暗闇の中に並ぶマネキンたちの、目鼻のない顔を白々と浮かび上がらせた。
不意に、相馬の耳の奥がぴくりと跳ねた。
違和感は、あまりにも微小なズレとして現れた。
音響の世界では、「ディレイ(遅延)」というエフェクトがある。原音からわずかに遅れて同じ音を再生することで、空間の広がりを演出する手法だ。
相馬がタイルの上を歩く足音。
コツ。
その音から、およそ〇・二秒ほど遅れて、もう一つの音が鼓膜に届いた。
——コツ。
最初は、ただの反射音だと思った。この広大な吹き抜け構造だ。どこかの壁に当たった自分の足音が、時間差で戻ってきたのだと。
しかし、相馬はすぐにその推論に疑問を抱いた。
反射音であれば、音が空気中を旅して戻ってくる間に、高音域が減衰し、音量は小さくなるはずだ。そして、壁の材質によって音のキャラクターは柔らかくなる。
だが、その「遅れて聞こえる音」は、あまりにも鮮明だった。
まるで、自分のすぐ後ろ、わずか数メートル後方の暗闇の中で、誰かが自分と全く同じ硬さの靴底で、意図的に一歩遅れて足を踏み出しているかのような——。
相馬の背中に、冷たい汗がじんわりと滲み出た。
ジャケットのナイロンが擦れる音が、心なしか大きく聞こえる。
ササッ。
……ササッ。
気のせいか?
相馬はわざと歩調を乱してみた。タ、タ、タ、と小走りに三歩進む。
空間に、タ、タ、タ、と相馬の足音が響く。
そして、その直後。
——タ、タ、タ。
全く同じリズム、全く同じテンポで、遅れて音が追従してきた。
相馬は唐突に、足を完全に止めた。
制服の擦れる音も、鍵束の鳴る音も、すべてをピタリと制止させた。
静寂が、一瞬にしてフロアを支配する。
相馬は息を止め、全神経を耳に集中させた。聴覚の感度を、限界まで跳ね上げる。
心臓の鼓動が、ドク、ドク、と耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。
……止まった。
追従してきた音も、相馬が足を止めると同時に、完全に消え去っていた。
相馬はゆっくりと、身体を反転させた。腰の防犯灯を構え、光の束を自分が歩いてきた通路へと向ける。
白い光が、暗闇を直線的に切り裂いた。
通路には、誰もいなかった。
整然と並ぶハンガーラック。虚空を見つめるマネキンたち。数メートルおきに設置された、消灯したままの店舗の看板。人の気配はおろか、ネズミ一匹這い出た様子もない。
「……何やってんだ、俺は」
相馬は小さく、自嘲気味に呟いた。自分の声が、無人のフロアに寂しく響く。
「壁の反響のせいだ。あるいは、このビルの構造特有のフラッターエコー(鳴き竜現象)か。平行な壁の間で音が何度も往復して、特定の周波数が強調されて聞こえただけだ」
元音響エンジニアとしての知識が、脳内で必死に論理的な言い訳を組み立てる。そうだ、音の理屈で説明がつかないはずがない。新築のビルは、まだ内装の吸音材が馴染んでいなかったり、予期せぬ音響特性の死角が生まれたりすることがよくある。
自分は、職を失ったストレスと、初めての夜間巡回の緊張感のせいで、少し過敏になっているだけだ。
相馬は深く一つため息をつき、防犯灯を前方に向け直した。
そして、再び歩き出す。
コツ、コツ、コツ
自分の足音が響く。
今度は、遅れて聞こえる音はしなかった。ただの気のせいだったのだと、相馬は胸を撫でおろした。
しかし、相馬は気づいていなかった。
彼が再び歩き出したその瞬間、三階フロアの天井の隅、暗闇に沈んだスピーカーのサランネットの奥で、微かな、本当に微かな「ザ……」という、電流が通ったようなノイズが走ったことを。
そして、彼の足音の残響が消え去ったあとの空間に、まるで濡れた肉の塊がコンクリートの床にベチャリと落ちたような、人間の足音とは到底思えない不快な音が、一瞬だけ、微かに残響の中に混ざり込んでいたことを。
相馬は無線機の音量を少しだけ上げ、次の巡回ポイントである四階へと向かうため、エスカレーターへの通路を急いだ。腰の鍵束が、まるで警告を鳴らすかのように、ジャラジャラと激しく夜の静寂を引っ掻いていた。




