19 深々と
ユキは、悔悟と怒りの滲む叫びを、幾度も繰り返した。
壁へ向かって誰かに声をかけ、そこにいるはずもない虫の群れに怯え、うるさいと腕を振り払って泣き、身体を縮こまらせて耳を塞ぐ。
錯乱したまま、自分の耳を引き裂こうとした瞬間になって、アズサはようやく、その危うさを思い知った。
彼女の琴線に最も強く触れたのは、蝋燭の炎と暗闇――相反する二つのものだった。暗い場所を、ユキはひどく恐れた。だが、蝋燭へ火を灯せば、その炎を消そうとした。
アズサたちにできたのは、なるべく危険なものを傍へ置かないことと、窓を開けて部屋へ風を通すことくらいだった。夜は灯光石の明かりを、一晩中絶やさず灯し続けた。
錯乱せず、ただぼうっとしている時のユキは、身を起こしたまま、どこでもない方向を見つめている。そして、ぽつりと呟く。
――死にたい。
その言葉は、アズサの胸へ深く突き刺さった。
どうして、そんな願いを抱くのか。その理由を、どうしても知りたかった。けれど、当然、答えは分からない。
死にたいと言われても、その願いを叶えることなど誰にもできない。何が起きたのか。なぜ、そう願うのか。誰にもどうすることもできない、ままならない時間だけが続いていた。
アズサは、心の奥に湧き上がる罪悪感に苛まれた。あの【魔力原石】から、ユキを連れ出したのは自分だったからだ。
その呟きを聞くたび、胸の中で小さな後ろめたさが波立ち、言いようのない気分に襲われる。
それでも――ユキは、死にたいと言いながら、死のうとはしなかった。
機会はいくらでもあった。
一度だけ、彼女は食事用のナイフを手に取り、自分の首を掻き切ろうとしたことがある。ほんの一瞬、手を引けば終わったはずだった。運が良かったのか、悪かったのか。偶然その場に居合わせたディグレに止められ、未遂に終わったものの、騒動の最中、ユキは震える手で顔を覆い、泣きながら言った。
――死にたくない。
アズサはそれまでにも、それからも、ユキの慟哭を理解できずにいる。けれど、「死にたくない」という震えた声を聞いた瞬間、胸の中で何かが弾けた。
たとえるなら、目の前を覆っていたやるせない霧が、すうっと晴れていくように。その感情だけは、アズサにも理解できた。
――まだ、死ねない。
絶叫と錯乱、朦朧とした意識の狭間で、そう呟いたユキの表情は、生きていた。ひどく憎悪に満ちていながら、それでも確かな意思を宿した顔だった。
あの時だけが、最初で最後だった。その涙こそが、ユキの心からの思いなのだと、アズサは感じた。
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遠くの山際を縁取っていた橙の光が、山の向こうの暗がりへ呑み込まれていく。
薄闇と橙が混じり合う、その短い時間。書庫へ続く山道を、迷いなく進む二つの影があった。
先を行くのはバルクス。その後ろを、深い紺色の外套を目元まで引き上げ、顔を隠した人物が続く。
「なるほど……こんな場所に住んでいたのか。王都からも近いな」
外套の人物が、しみじみと声を漏らした。やや高く、張りのある声。その奥には、微かな疲労が滲んでいる。
辺りは濃い木々に囲まれ、天を仰いでも空はほとんど見えない。青々とした葉が重なり合い、わずかな薄光だけが地面へ細く落ちていた。この先に人が暮らしているとは、誰も思わないだろう。
「たしかに、気づかれにくい場所ですね。隠すには、ちょうどいい」
バルクスは前を向いたまま答えた。
「まあ、ここに決めたのは、あの方ですから」
「森の奥なんて不便だろうに――おっと」
「足元に気をつけてください、アルティナさん」
伸びた木の根へ足を取られ、アルティナと呼ばれた女がよろける。
その拍子に外套がずれ、焦茶色の髪を後ろで無造作に括った、ほっそりとした顔が覗いた。バルクスが咄嗟に手を差し出したが、女はそれを取らず、切れ長の茶色い瞳を細める。
「……カイレン」
前髪を掻き上げながら、アルティナは端正な顔を歪めた。
「その名で呼ぶな」
「はい、はい。失礼しました、バーランド先生」
「結構」
それ以上のやり取りを断つように言い捨てて、アルティナはすらりとした脚で道なき道を踏み進んでいく。差し出したままだったバルクスの手が、所在なさげに下がった。
「私が来ることは、伝えたのか?」
「どちらに?」
「どちらにも、だ」
少し考える素振りを見せてから、バルクスは答えた。
「ええ。アズサには、知り合いの【魔法医】を連れてくると」
「ふうん……。ゼンさんは戻っているのか?」
「いえ、まったく」
「……そうか」
分かっていた、とでも言いたげに、アルティナは肩をすくめた。
「まあ、そうだろうな。あの人も忙しい」
三本杉の分かれ道で、二人は一度足を止めた。山道に慣れていないアルティナが、静かに息を整える。
「君も大変だな。こんな役回りを任されて」
「そんなことはありませんよ。大陸中を飛び回っている貴女に比べれば」
枝を折りながら、バルクスは尋ね返した。
「今はどちらへ?」
「影の国だ」
「……あの国ですか」
思わず目を見開いたバルクスに、アルティナは苦笑した。
「以前よりはましだ。周辺国の介入もあるしな。今回は医療支援だ」
「戦争の後始末、ですか」
「最後まで苦しむのは、いつだって無辜の民だ。それに今回は勝ち負けの話じゃない。……正直、骨が折れる」
珍しく愚痴めいたことを言って、アルティナは息を吐いた。その様子から、相当に消耗しているのだとバルクスは察した。
「評議会は……」
「大掃除が終わって、手一杯だ」
「ああ……なるほど。大掃除、ですか」
苦笑しながら、バルクスは頷く。
「あれから十二年……。たしかに、あの時の先生にしては強引でした」
「だが、腐った連中を上から全部切った。掃除だよ」
「大先生は、お元気ですか?」
「すこぶる。最近は会っていないが、相変わらず好き勝手やってるらしい」
その言葉へバルクスが返すより早く、アルティナが声を上げた。
「おお……! これは!」
そびえ立つ巨石――クマ石が、二人の前へ現れた。
「大きいな! 珍しい。守石か?」
「守石、ですか?」
「知らないか。……ああ、いや、すまない」
アルティナは苦笑して言い直した。
「自然に魔法を帯びた石だ。人の手によるものじゃない」
その指先を伸ばし、そっとクマ石へ触れる。
「長い年月をかけてそこに在り続けるものは、【大いなるもの】の影響を受けて、まれに不思議な力を持つことがある。大して強力なものじゃない。せいぜい気休めの呪いみたいなものだがな」
「自然に法式が生まれる?」
困惑した声で繰り返すバルクスへ、アルティナは軽快な笑い声を響かせた。
「どうやら、保護魔法の類が入っているな。悪意や害意を持つものを踏み込ませない魔法だ。誰が置いたんだ?」
「さあ。ずっと前からありました。それか……」
「ゼンさんかな」
先を取ったアルティナの言葉に、バルクスもすぐ頷く。
「この石があった場所を選んだのかは分かりませんが、あっはっは、なるほど、過保護だね」
「過保護だったら、もっと帰ってきてもいいのに」
「辛辣だ」
「仕事だ何だと言って、アズサと顔を合わせづらいのかどうか知りませんが」
バルクスはゼンの事情を僅かばかり知っているが、その振る舞いには思うところがあった。
「行きましょう」
そう言って、先を急ぐ。ゼンの話題に触れていると、口にしなくていいことまで零してしまいそうだった。
山際に沈む光の残りで、空はまだ明るく見える。けれど森の中にはもう影が落ち始めていた。奥へ入れば、光はすぐ届かなくなる。今は一人ではなく、隣にいるのは魔法師だ。それでもバルクスは、早く森を抜けてしまいたかった。
ようやく森の出口が見え始めたところで、アルティナはバルクスの顔を窺い、珍しく声を潜めるように尋ねた。
「……どういう子なんだ? アズサは」
「優しい子ですよ」
少し考えてから、バルクスは続けた。
「それに、とても頭がいい。環境が違えば、もっと才能を伸ばせると僕は思います」
「ほう……そうか。天才最年少宮廷医師と持て囃されていた君が言うのなら、期待できるな」
「それはいつの話ですか。もうかなり昔のことですよ」
揶揄する口調のアルティナをむっと睨みつけて、バルクスは嫌なことを思い出したように曖昧な笑みを浮かべた。
「【天音の心】さえ持たない奴が、魔法師に弟子入りしたいなんて言って先生のところへ押しかけてさ。あんなことは、後にも先にも聞いたことがなかったぞ」
「……あの時は思い切りが良かったのです。欲もあったし、若かった」
「若かった、か。ああ、たしかに若かった。いや、私は今でも若いけど」
「何言ってるんです。僕より歳上じゃないですか」
アルティナと話していると、かつての懐かしさが滲むように込み上げてきて、バルクスは目を細めた。以前の調子なら、顔の皺が増えているぞ、などと隣の女をからかっていたかもしれない。だが、その言葉はそっと胸の中へ留めておくことにした。
水の国の王宮で職に就いていたのは、もう十数年も前のことだ。バルクスがアルティナと初めて出会ったのも、その頃だった。
あの時代は、忘れたくても忘れられない。仲間のことも、王国のことも、王宮のことも、すべて――。
「魔法は?」
そう問われて、バルクスは懐かしさから引き戻され、ゆっくり首を振った。
「【天音の心】はあるけれど使えない。まぁ俗に言う、【語れぬ者】ということに」
「【語れぬ者】か……そうか……」
言葉の続きを飲み込むような余韻だけを残し、それからしばらくアルティナは口を閉ざした。
バルクスはその先を待ったが、隣から声は続かなかった。物思いに沈む横顔を見ながら、口にされなかった言葉を想像する。
――ああ、あの二人の子供なのに。
アルティナのそう言いたげな表情。引き結ばれた口元からそっと目を逸らし、バルクスは前を見据えた。




