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碧落に君は消えゆく  作者: 藤橋峰妙
第二節 夢現に深々と
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18 混濁

✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


 家の中に、激しい叫び声が響き渡った。微睡みの底にいたアズサは、その身を裂くような声に叩き起こされる。


 絶叫は、途切れることなく続いていた。


 銀の髪を振り乱し、少女は寝台の上で暴れている。訳も分からぬまま部屋へ駆けつけたアズサも、呆然として思わず後ずさった。


 物音に気づいた大人たちもすぐに駆けつけたが、扉口で足を止めた。誰もが同じように、言葉を失って立ち尽くす。


 少女は狂ったように頭を抱え、叫び続けていた。布団は赤く染まり、かきむしった腕や身体には、みみず腫れのような赤い線がいくつも走っている。長い銀髪が顔を覆い、その隙間から覗く瞳だけが、異様なほど大きく見開かれていた。


 心配になったアズサが顔を覗き込んだ、その瞬間だった。深い闇を切り取ったような瞳と、真正面から視線がぶつかる。


 ――動けない。


 金縛りに遭ったみたいに、身体が硬直した。


 誰もが凍りついたように立ち尽くす中、ただ一匹、銀の獣だけが少女へ近づいていく。だが、その姿を認めた途端、少女は全身を大きく強張らせた。


「ひ、ひぃっ……!」


 少女は寝台の端へ逃げるように身を寄せる。


「こ、こ……あぅっ……こないで、こないで……」


 背後の飾り板へ身体を打ちつけ、逃げ場を探す獣のように身を縮めた。震える指先が布団を裂き、机の上の本や水差しが床へ叩き落とされる。


 陶器の破片が飛び散った。錯乱したまま体勢を崩した少女は、そのまま寝台から転がり落ち、破片の上へ身体の片側を打ちつけた。


「ああ、破片が!」


 マルサが悲鳴を上げて駆け寄る。


「あんた、手を貸して!」


「ここから退かそう」と、ディグレがすぐに応じた。「持ち上げるぞ。よし、いいか」


「僕は鞄を取ってきます、頼みましたよ!」


 バルクスは弾かれたように部屋を飛び出した。ディグレとマルサは少女の身体へ腕を回し、破片から引き離すように抱え上げる。


「う、ううぅ、っ!」


「暴れないでおくれ、大丈夫だからね。ほら、大丈夫だから……」


「いや、ああぁぁぁ――!」


 腕や脚に鋭い破片が食い込んでいる。その痛みすら感じていないのか、少女はなおも激しく暴れた。ディグレは素早く破片を蹴り退け、散乱した物を部屋の隅へ追いやっていく。


「ええ、ええ。怖いものがあるのね。心配しないで、何もしない。大丈夫さね……」


 マルサは耳元で何度も囁き、大きな身体で少女を包み込んだ。


 その肩越しに、少女の視線がアズサを捉えた。


 まるで幽霊でも見たように、白い顔へ驚愕の色が走る。小さく悲鳴を洩らした少女は、ふいに叫ぶのをやめた。


 代わりに、意味をなさない言葉を呪文のように繰り返し始める。


「――、―――――、―――」


 震えた視線は、ただひたすらアズサだけを見据えている。平坦な声が途切れなく零れ、不気味な沈黙だけが部屋へ満ちた。


 闇の中へ引きずり込まれそうな錯覚に、アズサは半身を引いた。それでも、少女の視線は外れない。


 その時、戻ってきたバルクスが鞄から薬瓶を取り出した。床へ膝をつき、慣れた手つきで蓋を開ける。そして緑の瓶の口を、少女の顔へ近づけた。


「あ、う……ぁ」


 白い煙が、瓶の口からゆらりと立ち昇る。煙を吸い込んだ途端、少女の身体から糸が切れたように力が抜け落ちた。


「……寝たのかい?」


 マルサが顔を覗き込む。


「ターランの樹液の香です。原液には強い睡眠作用があります」


 そう言ったバルクス自身も、深く肩を落としていた。


「――いったい、一体何が起きた?」


 ディグレは顔を青ざめさせ、唇を震わせた。その場にいた誰もが、同じ問いを胸に抱いていた。


「今、この子は……目を覚ましたのか?」


「……そうみたいですね」


 バルクスは視線を伏せがちに答えた。


「錯乱状態でした。このまま暴れていたら、もっと大きな怪我をしていたかもしれません。恐らく、また目を覚ますでしょう。今のうちに危ないものは片付けておきましょう」


「ああ……そうしよう……」


 ディグレは力なく肩を落とし、散らばった物を拾い始めた。


 ――次に目を覚ました時、どうなっているのだろう。


 その想像だけで、アズサの背筋はひやりと冷えた。耳の奥には、あの悲痛な声がまだ残っている。また、あの命を裂くような絶叫を聞かなければならないのだろうか。


「この子に……何があったのかねぇ……」


 マルサは少女の身体を、傷に触れないよう慎重に寝かせ、そっと目尻を拭った。布団には濡れた跡が残っている。それは少女の目から零れた涙の痕だった。


 ふと、アズサは銀色の姿を探した。


 獣は壁際へ身を寄せ、ただ一部始終を見つめていた。


 ――あれは、拒絶だった。


 アズサには分かった。獣にとって、少女が錯乱して目を覚ますなど、思いもよらなかったのだろう。


 垂れた尾と耳。悲しみを宿した横顔。――「あねさま」と、掠れた声が聞こえた気がした。それが少女の悲鳴と重なって、いつまでもアズサの頭に残り続けた。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


 数分後、少女は再び目を覚ました。


 最初に気づいたのはマルサだったが、息を呑まなければ、目覚めたことにすら誰も気づかなかっただろう。


 彼女は、不自然なほど静かだった。


 先刻までの錯乱が嘘だったかのように、寝台へ仰向けのまま身じろぎひとつせず、青く濁った瞳で、染みの浮いた古い天井を見つめている。


「……どうしたの?」


 アズサがそっと声をかけても、反応はない。顔を覗き込んだアズサは、言葉を失った。


 白皙(はくせき)の顔には、感情の欠片すら見当たらない。


 そこにあるのは、ただ仰向けに寝かされた人形のような身体だった。硝子玉みたいな瞳は焦点を結ばず、何も映していない。アズサの姿がその中に映っても、視線が合うことはなかった。


 見ているようで、見ていない。生気を失ったその眼差しに、アズサは言葉にできない不安を覚える。目はどんな刺激にも反応せず、バルクスが目の前で手を振っても、少女はただ同じ一点を見つめ続けていた。


 白く薄い皮膚の下には、何もないように思えた。人格も、心も、人が人であるためのものも、すべて抜け落ちて、外側の殻だけが残されたようだった。眠っていた時よりも、叫んでいた時よりも――今の方が、よほど人間味がない。


「……どうしたの、ね」


 もう一度、呼びかける。


「……ぁ……あ……あ……」


 唇がかすかに震え、息だけが漏れ出る。しばらくのあいだ、言葉にならない音だけが、少女の口から零れ続けた。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


 山に積もった雪は溶け、何もかも元に戻るかのように、春の暖かな風が吹き始めた。


 それでも書庫の中には、悲嘆の空気が満ちたままだった。アズサが少女――『ユキ』を連れて来てから、一週間が経とうとしている。


 ユキは目を覚ましては、また眠りへ落ちる。それを一日に何度も繰り返した。最初の三日ほどは、とくにそうだった。


 声をかければ反応を返すこともあったが、ほとんどは意味のない言葉を繰り返すばかりで、意思の疎通はほとんど不可能だった。


 身体は生命の働きを保っている。けれど、心が死んでしまっている。


 誰もが、そう思わずにいられなかった。


 もっとも途方に暮れていたのはバルクスだった。村での回診を終えると、彼は毎日書庫を訪れた。精神の病を専門としない彼にできるのは、様子を見守り、日ごとに増えていく傷を手当てすることだけだった。


 ユキは、自分で何かをすることすら難しい状態だった。


 朝、目を覚ましても起き上がれず、食事も飲み込めない。爪で自分の皮膚を傷つけ、ようやく口にした食事の熱で舌に火傷を負うことすらあった。しかも、痛いということを主張しない。誰かが気づかなければ、そのままずっと放っておかれたかもしれない。バルクスは、精神へ作用する魔法の存在まで疑っていた。


 あの出来事のあと、小さな獣は部屋の隅で、ただじっと様子を窺うようになった。


 昼も夜もその場を離れない。けれど、寝台の近くへ寄ろうとはせず、以前のように耳元で丸くなることもなくなった。


 遠くから見つめるその姿が、アズサには息が詰まるほどつらかった。


 ただ一つの救いは、ユキが獣を見ても恐れなくなったことだ。


 四日目になる頃、ユキの意識はわずかに明瞭になり、眠る時間も少しずつ短くなっていった。それでも起きている間は、天井の木目を呆然と見つめ、しばらくすると、思い出したように涙を流す。その目に何が映っているのか、誰にも分からないまま時間だけが過ぎていった。


 五日目。看病をしていたマルサに促され、アズサは初めて、自分の名前を伝えた。


 「初めまして」と言い、「君の名前は?」と尋ねた。


 思いつく限りの言葉を尽くしたが、ユキは何も答えなかった。アズサの顔を見ることすら避け、何かから逃げるように、寝台の端で身体を丸めていた。


 だが、その日、ようやく変化が現れた。


 ユキは部屋の隅に座る獣の姿を、たしかにその瞳へ映し、掠れた声で、アズサにも分かる言葉を呟いた。


「……ウル」


 呼びかけるように。何かを指し示す記号のように。


 その声を聞いた獣は、くう、と喉を鳴らした。銀の毛並みを小さく震わせ、立ち上がる。そして静かに近づき、伸ばされた細い指先へ鼻をすり寄せた。


 『ウル』。


 それは【テーレの言葉(テルダッシュ)】で、『光』を表す音。


 ――名前だ。


 アズサは直感した。試しに「ウル」と呼ぶと、獣は金の瞳をまっすぐアズサへ向けた。


 その日から、獣の名は「ウル」になった。


 そして迎えた、六日目の夜。再び、悪夢のような絶叫が、書庫に響いた。

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