17 夢現
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――あ……ね……。あね……。
――……さま。もう……になった……。
鈴を転がすような高い声音が、頭の内側を揺らしていた。
しばらく鳴り続けていたその音は、少しずつ輪郭を持ち、やがて誰かの声へ変わっていく。脳がゆっくり音を拾い始める。その声はあまりにも微かだった。
――眠るのは、……。へんじを……。
意識が暗闇の底からゆっくりと引き上げられ、また沈む。水の中で浮き沈みを繰り返すように、アズサの意識は眠気の狭間を漂っていた。
小さな声は、親が子に子守唄を歌うように、やわらかく語りかけている。なぜかその声を聞いていると、胸の奥がむず痒くなった。内側から心臓をそっと締めつけられるような、不思議な感覚だった。
誰の声なのだろう。
確かめたいのに、意識はまた深い底へ引き込まれていく。
――もう、生きるの、いやになった?
その一言が耳に触れた瞬間、浮き沈みしていた意識がさっと晴れた。
顔を上げることはできない。ただ、すぐ傍に何かがいる気配だけがあって、アズサは目を閉じたまま耳を澄ませた。頭が冴えてくるにつれ、少しずつ状況が見えてくる。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。身体はがちがちに固まり、握ったままだった指先だけがじんわりと温かい。伸ばした腕も、座ったままの足も痺れていた。
――あねさま。
アズサは、ほんの少しだけ瞼を持ち上げた。
部屋は白みはじめている。窓の外では山の稜線だけが明るく、淡い青の空が広がっていた。まだ太陽の顔は見えない。空気はひやりと澄み、物音ひとつない。一番早起きのマルサさえ起きていない、誰もがまだ眠っている時間だった。
聞こえてくるのは、人の声ではない。けれど、その言葉はアズサにも分かる言語だった。
部屋には、アズサと眠る少女だけ。そして――あの獣。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように、視線をそろそろと動かす。
――ねぇ、起きてよ、あねさま。
少女の頭の隣に、小さくなった銀の塊が座っている。獣は身を屈め、鼻先を少女の頬へ寄せていた。短く鋭い牙の覗く口は閉じたままなのに、まるで語りかけているような眼差しで、じっと少女を見つめている。
――あねさま。あねさま。
呼ぶたび、硬い鱗に覆われた尾が、かすかに揺れていた。
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目を開くと、暗闇があった。
墨を流し込んだような黒に全身を侵され、不快な何かが肌へまとわりついている。形を持たない影のようなものが、絶えず周囲を蠢いていた。
身体は、その中に縫い止められていた。
ゆらゆらと揺れる黒が取り囲み、上から覆いかぶさる気配だけがある。影から滴り落ちたものが、腕や頬を濡らした。液体のはずなのに、触れた瞬間に硬く固まり、動きを奪っていく。
声が聞こえる。
振り払おうとして全身へ力を込めた。けれど、腕も足もぴくりとも動かない。
声が聞こえる。
聞き覚えのある、懐かしい声だった。次第に耳元へ近づき、そして大きくなる。
影がひとつへ集まり、目の前で人の形を成していく。何かが低く唸ったが、それには顔がなかった。色も、凹凸もない。ただ平らな黒の面だけで、女を見下ろしている。
――だれ?
問いかける。口だけは、まだ自由だったから。
平坦な声で、何かを呟き続けている。その言葉は聞き取れない。幾重にも重なった糸みたいに細い声が、耳元で羽虫のようにざわめいていた。
耳を塞ごうとした。けれど両手は影に縫い止められ、叶わない。
――やめて……音が……いや、やめっ……!
逃れようと身悶えるほど、さらに強い力で押さえつけられる。鳴り止まぬ羽音に歯を食いしばり、頭を振った。耳の内側で、何かが暴れている。
荒い息を継いだ、その時だった。蠢く影の奥に、はっきりした輪郭があることに気づく。
背を丸め、薄闇の中に蹲る小さな人影だった。その姿を見た瞬間、理由の分からない焦りが全身を貫いた。
――このままでは駄目だ。
ここにいてはいけない。あの子は――。
助けなければならない。その名を呼ぼうと、力の限り声を振り絞る。
――やめて!
身体は泥の中へ引きずり込まれ、足は地面につかない。その恐ろしさに身悶え、必死に腕を動かし、喘いでも、逃れられなかった。
あの子のところへ行かなければ。
あと少し。あと少しなのに。
小さな背を抱きしめたかった。強く抱いて、撫でて、ただ――安心させたかった。もう大丈夫だと、それだけを伝えたかった。
顔じゅう泥にまみれ、息も声も奪われたまま、片目でその姿を探す。必死に、手を伸ばして――。
どぷん。
小さな影が、闇の中へ崩れ落ちた。
――なんで。
――どうして。
今度は、自分の身体が影の中へ引きずり込まれていくのを、遠くから眺めているようだった。羽虫みたいな声は不協和音となって、いつまでも喚き続ける。終わりのない絶望が、心を覆い尽くしていた。
声が、響いていた。
「どうして」
震える声が、目の前で形を成した。
「どうして助けてくれなかったの」
――ち、ちがう……!
何かを叫んでいた。その声の主の名を呼んでいたのかもしれない。
影は腕に何かを抱え、それを目の前へ掲げると、地面へ落とした。
びちゃり、と音がして、小さく丸いものが闇へ沈む。
怖い。見てはいけないものだ――そう反射的に目を逸らしていた。
「どうして、私の子を助けてくれなかったの?」
別の影が背後に立つ。
「こんなことになるなら、お前を生かすべきではなかった。お前は、あの時、死ぬべきだった」
――わた、わたしは……。
「あなたが殺した」
「あなたが見捨てた」
「あなたが裏切った」
冷たい声が次々に響いている。
「死にたくなかった」
「まだ、生きたかった」
「誰のせいよ」
――やめて、やめて……!
首を振っても音は振り払えない。耳元へ生ぬるい感触が伝わる。いつの間にか自由になっていた手を見れば、赤黒く濡れていた。そのうち血に汚れた手で顔を覆っていた。鉄の匂いが鼻を刺す。ごめんなさい、と謝り続けても、影は暗闇の中で罵り続けた。身を縮こませ、ただ耐えることしかできない。
その時、別の声が聞こえた。
「――」
聞き慣れた少年の声で、名を呼ばれる。その声を皮切りに、影が一斉に静まり返った。
恐る恐る、顔を覆っていた手を外し、顔を上げる。そこには一人の少年が立っていた。
「約束は、決して破ってはならないもの。そうでしょう?」
髪も瞳も、自分とは正反対の色をした少年だった。
丸みを帯びた幼い顔立ち。通った鼻筋。濡羽色の髪と黒曜石の瞳。左耳で揺れる翠の耳飾りが、妙に目を引く。
あの耳飾りは、あの日、渡した――でも。
――だ、だれ……?
「ああ、そっか」
少年はやさしく微笑んだ。仕方がない、と許すように。
「忘れてしまったのですね」
焼けるような痛みで喉が締めつけられる。瞼が熱くなり、目の前の存在へ手を伸ばした。忘れてはいけなかった。忘れられるはずがなかった。それなのに、彼の名前すら思い出せない。
「俺たち、ずっと一緒だって言ったのに」
少年は微笑んだまま、表情とは裏腹の冷たい声で言った。
「どうして、あの時、一緒に死んでくれなかったのですか」
その言葉が終わる前に、身体は幾重もの力に捕らえられ、泥の中へ叩き落とされた。
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