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碧落に君は消えゆく  作者: 藤橋峰妙
第二節 夢現に深々と
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19/24

15 診察

 マルサに促されたバルクスは、すぐに診察へ取りかかった。


 少女は、周囲でひと悶着あっても、まるで目を覚ます気配を見せない。呻きもせず、身じろぎひとつしないその姿は、さながら死人のようだった。窓から差し込む月の光に照らされた肌は、いっそう青白く、それでいてどこか神がかった美しさを帯びている。


 バルクスは少女の傍らに膝をつき、そっと口元へ手をかざした。布団が規則正しく上下しているのに気づかなければ、死体だと疑ってもおかしくなかっただろう。


 診察を進めるうち、バルクスの眉間には深い皺が寄っていった。手元を照らす蝋燭の明かりが影を落とし、その谷をいっそう濃く浮かび上がらせる。


「生きてるよね?」


 獣を腕に抱いたまま、アズサが背中越しに問いかける。


 バルクスは慎重だった。身体の中の音を聞く道具へ耳を押し当て、細い手首を取り、脈を測る。やがて小さく息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。


「脈は少し弱いけど正常だ。おかしいところがあるとすれば……見たところ、擦り傷ひとつないことかな」


 そう言って立ち上がると、壁際の机に置かれていた少女の服を広げた。無惨に破れた布を前に、難しい顔で口元を引き結ぶ。


「この跡を見ると、かなり出血があったはずだ。なのに……一体……」


「他の誰かの血だったり、とか?」


「それはそれで……恐ろしいな。まさか戦場にでもいたのかい」


 口ぶりは茶化すようでも、蝋燭の火に照らされた表情は強張ったままだ。服には血のようなものがべっとりと染みつき、すでに乾いている。しかも染みは表側ではなく、裏側に広がっていた。だが、それが血だとしても、少女の身体には傷ひとつ見当たらない。


「魔法のせいかな」


 怪我や病を打ち消す魔法や魔法薬はいくつもある。バルクスは、ふむ、と首を傾げた。


「魔法か。確かに、その可能性はある。いや、むしろ、その方が腑に落ちるが……そうなると、なあ」


 手の打ちようがない、とでも言いたげに、バルクスは音もなく息を吐いた。そして広げていた服をきっちり畳み始める。


「アズサは、どうして魔法だと思ったんだい?」


「それは……」


 アズサは少しだけ言い淀み、床の板目へ視線を落とした。


 アズサは魔法がたまらなく好きだ。好奇心に押されるまま魔法の本を読み漁り、たくさんのことを知った。けれど、バルクスは魔法のことをどのくらい知っているのだろう。自分の知っていることを話して、ちゃんと分かってくれるだろうか。理解できない、と眉をひそめないだろうか――そう思うと、アズサは魔法について誰かに話すのがあまり得意ではなかった。


 魔法は、人々にとって便利な手段のひとつだ。


 魔法を使えない人間にとっても身近なものは、魔法師の作る魔法道具だった。その恩恵は魔法師だけでなく、日々の暮らしの中にまで行き渡っている。けれど、完成された魔法を「便利なもの」として使う人々にとって、法式の組み方や作用、文字や専門用語まで知る必要はない。


 魔法は身近なようでいて、最も遠いものでもある。魔法を使える人間は、大陸人口のほんの僅かに満たない。


 魔法の素質は生まれつき決まっている。【天音の心(フィシス)】と呼ばれる器官を先天的に持ち、そこへ満たされる【大いなるもの(テーレ)】の量が基準を上回ること。それは十万人に一人ほどの割合だ。


 かつて、バルクスのように医者を生業とする者の多くは【魔法師(ラファナ)】だった。魔法と、魔法師が得意とする魔法薬調合学が、怪我や病を癒すうえで重要な役割を担っていたからだ。魔法を使えない人間が医者になるのは、大陸でも珍しかった。


 だが今、医学は魔法を使う医者――【魔法医(ラファネイ)】だけのものではなくなっている。


 魔法も魔法薬も万能ではない。加えて【魔法医(ラファネイ)】はあまりに少ない。そこで発展したのが、魔法の効果や術式を極力排して編み出された新しい医学だった。


 バルクスが修めたその医学は、医術の神と、その加護の起源となった地にちなんで、【西方非魔法医学(テクァーディル)】と呼ばれている。土地ごとに伝わる伝統医術や、比較的効果があると信頼される手法、そして魔法による【癒術魔法医学(クルディミリ)】から派生した多くの知見が、人の手で体系化され、精査され、医学書へ明文化されてきたのだ。


 ――とはいえ、魔法に対するものは、やはり魔法しかない。


 症状の根底に魔法が作用しているなら、それを治せるのもまた魔法だけだ。つまり、少女が目覚めない原因が【魔力原石(テウラン)】にあるのなら、アズサにもバルクスにも、できることは多くなかった。


「言いにくいのかい? 嫌なら聞かないけど、医者としては聞いておきたいかな。それに、魔法の用語くらいなら少しは分かってるつもりだ」


「えっと……」


 不安を見抜かれたような気がして、アズサは少し気恥ずかしくなった。だが、医術の起源が魔法にあるのなら、バルクスが知っていても不思議ではない。


 躊躇いがちに、アズサは口を開く。


「【魔力原石(テウラン)】、だよ」


「テウラン? 【魔力(アラ)】の石……かい」


「うん。【魔力原石(テウラン)】。先生、知ってる?」


「聞いたことはある。高濃度の魔力結晶だったかな。滅多に見られないものだ」


「うん」


 アズサは小さく息を吐き、それから続けた。


「見つけた時、この子……【魔力原石(テウラン)】の中にいたんだ。大きな氷みたいな塊の中に閉じ込められてて」


「――え」


 バルクスは口を開けたまま固まった。やがて、愕然とした顔で聞き返す。


「な、なんだって?」


「大きな塊の中に入ってたんだ」


 アズサは、少女を見つけた時のことを話した。見たことのない洞穴のこと。獣が道案内をしてくれたこと。【魔力原石(テウラン)】の結晶。そしてその中にいた少女のこと。


 信じがたい話だった。それでもバルクスは一言も挟まず、最後まで耳を傾けていた。


「……なるほど。【魔力原石(テウラン)】か。信じられない話だし、たしかに、魔法師ではない僕には難しい」


「先生は、【魔力原石(テウラン)】を見たことがあるの?」


「いや、ないが……」


 バルクスは首を振り、頭の後ろを撫でつけた。


 【魔力原石(テウラン)】という言葉は、医者になるための勉強をしていた頃、興味を持って本をめくった時に知った内容だという。あまり詳しくは覚えていない、と前置きして、バルクスは言った。


「そもそも【魔力原石(テウラン)】は、閉じた空間に高濃度の魔力が発生して凝固するものだったはずだ。だから、せいぜい手で握れる程度にしかならない、と……。とても珍しいものだとは聞いたことがある。人間を覆うほどの大きさになるなんて……本当に【魔力原石(テウラン)】だったのかい?」


 得心のいかない目で見つめられ、アズサはどきりと肩を強ばらせた。


「そ、それは分からないよ。僕も初めて見たから。でも、魔法陣みたいなものがあったんだ。先生たちにも見せたかったけど……もう消えちゃった」


「消えた……そうか。何かしらの魔法が働いていたんだね」


 真剣な面持ちで頷いたバルクスは、眠る少女の上へやさしく毛布を掛け直し、道具を鞄へ詰め始めた。


「僕の言うこと、信じてくれるの?」


 バルクスは目を瞬かせた。


「もちろんだ。なんだい、嘘をついているのかい?」


「ついてない!」とアズサは頭を振る。「でも……」


「信じるさ」


 バルクスは、はっきりと言った。


「信じてもらえなかったら、どうしようって思うよな。でも、信じてもらえるかを気にするより、言わなければ始まらないこともある」


 柔らかな顔のまま、さらに続ける。


「僕は、君が嘘をつくような子じゃないって知っている。君は普通の子より頭がいい。どこで嘘をついていいか、どこで嘘をついちゃいけないかも分かっているだろう。……それに君は、嘘をつくかつかないかより、その選択で何が起きるかを先に考える。たとえ嘘だとしても、信じてもらうために工夫する――そういう子だ」


「……う、うん」


「はは。当たってたかい?」


 あまりにも当然みたいに言われて、アズサは面食らったまま、きょとんと頷いた。ほんの数秒前、自分の頭の中を「嘘をついても意味がない」という考えがよぎったのは確かだった。それを見抜かれたことに、胸がどきりとする。


「僕は、君がしたいと思ったことには手を貸したい。君が必要だと言うことを、できるだけ『要らない』とは言わないさ」


 バルクスは、村の誰とも、そしてバーリオ夫妻とも違う種類の大人だった。


 村人は基本的にアズサへ無関心だ。バーリオ夫妻、特にマルサは世話焼きで、何でもしてやろうとする。けれどバルクスは、そのちょうど中ほどにいるような人だった。


 アズサの特異さを知っているからこそ、適度な距離を保って寄り添う。線を引いて見守り、必要な時にだけ支える。手助けはするが、アズサが自分でできることにまでは口を出さない。


 だからこそ、バルクスはアズサにとって一番信頼しやすい位置にいた。


 彼がごく自然に接してくれるのには、この村の生まれではなく、遠くの町から移り住んできた人間だということも関係しているのだろう。そもそも彼は、村では医者をしていること自体が不思議がられるほど、人がよく、腕もいいと評判だった。


「知り合いに【魔法医(ラファネイ)】がいる。その人に頼んでみよう」


「知り合いがいるの?」


「ああ。昔世話になってね。魔法が関わっているかもしれない。一度診てもらおう。ただ……来てくれるかは分からないから、期待はしないでくれ。今どこで何をしているのかも知らないんだ」


 バルクスは困ったように笑い、服の裾を二度ほど払ってから、革の鞄を拾い上げた。


「僕はマルサさんたちと話をしてくるよ」


 部屋を出ようとしたところで、先生、とアズサがその背を呼び止めた。


「なんだい?」


 バルクスは微笑みを浮かべたまま振り返る。


「その……」


 アズサは、抱えた獣の後頭部へ視線を落とした。


「僕にできることって、何かある、かな」


「ああ。もちろん」


 バルクスはいつものように目尻へ皺を寄せた。


「もし、この子に何かしてあげたいと思ったなら――今は、手を握ってあげればいい」


「手を?」


「ああ。人は温もりが好きな生き物だからね」


 バルクスはやさしく笑った。

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