13 来訪
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マルサが少女の様子を見るために席を立ち、手持ち無沙汰になったアズサが暖炉の前で本を開いていた時だった。来訪者を告げる、涼やかな鈴の音が響いた。
アズサは玄関の扉を開け、外をうかがう。周囲の雪はすでに解け始めていた。月明かりを受けた雪原の中で、大きな人影と、ぼんやりとした橙色の灯火が左右に揺れている。厚い靴底が、ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏み固める音が聞こえた。
揺れる光は少しずつ大きくなり、足音とともに白い道をまっすぐこちらへ辿ってくる。
「おじさん?」
灯りが、その持ち手の輪郭を照らし出す。熊のような巨体を揺らしながらゆっくり歩いてくる人影を認め、アズサは扉から手を離した。
「おじさん、おかえりなさい!」
「ああ、遅くなった」
目の前まで来た大男が、ゆっくりと口を開く。平坦な声音は穏やかなのに、その低さには奇妙な威圧感があった。まるで巨木そのものが幹を震わせて喋っているようだ。
「マルサの置き手紙を見た。それから、この人が……」
大男――ディグレは半歩身体をずらし、後ろをくいと親指で示した。
「お前に呼ばれたと言っていた」
厚い肩越しを覗くと、その背に隠れていた人影がぬっと姿を現す。優しげな風貌の男だった。
「やあ。こんばんは、アズサ」
男は穏やかな笑みを浮かべ、片手を上げる。
「――えっ、バルクス先生?」
予想もしていなかった来訪に、アズサは思わず声を上げた。
麓の村で診療所を開いている医師、バルクスだった。ひょろりとした細身に、焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけた品のいい姿。皺の寄った額と、やさしく細められた目元には、疲労の色が滲んでいる。
「いやあ、遅くなってしまったよ。もう少し早く来られると思ったんだけどね」
服についた雪を払いながら、バルクスが言う。外套の裾は湿っており、吸った水がぽたりと床へ落ちた。心なしか息も弾んでいる。雪道を急いで来てくれたのだろう。アズサは見上げる。
「先生、手紙では明日にってお願いしたのに」
「ああ。でも怪我をしている人がいるなら、急いで駆けつけるのが医者というものさ。早く診たほうがいいだろう? それに君の頼みだしね。本当はもっと早く来たかったんだけど、あいにく急患が来てしまって」
「もう大丈夫?」
「ああ」
バルクスは表裏のない顔で、にっこりと笑った。多くの村人がアズサを避ける中で、バルクスだけはいつでも変わらず優しい。その笑顔を見るたび、アズサは少しだけむず痒いような気持ちになる。
「先生とは、ここへ来る途中で偶然会った」
ディグレが静かな声で付け足し、バルクスを中へ招き入れた。
「ええ。おかげで迷わず来ることができましたよ」
魔法の結界のおかげで外よりは暖かいとはいえ、春の夜の冷たい空気が、扉を閉めた拍子にふわりと入り込んだ。
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バルクスは濡れた外套を脱ぐと、愛用の鞄を手に取った。
「先生、お茶でも飲むかい?」
疲れの色が濃い顔を見かねて、マルサが声をかける。けれど、バルクスはやんわりと首を振った。
「先にその人を診ますよ。見てほしい人はどこに?」
「先生がそう仰るなら、そうしましょう。アズサ、お湯を沸かしてあるから、温かいお茶を用意しておくれ」
アズサが頷くと、暖炉の前の椅子へ深く腰を落としていたディグレが、短く言った。
「俺も」
「じゃあ先生、こちらですよ。ああ、足元には気をつけてくださいね! いつも片付けろって言ってるんですけど」
「大丈夫ですよ。いやあ、いつ見ても凄い本の数ですね。今度、僕も借りに来ようか――おっと。わっ、おわっ、あっ――ごめんよ、アズサ!」
ばたばたばた、と本の山が崩れる音がした。続いて、バルクスの悲痛な声が飛ぶ。アズサは戸棚を開けながら振り返り、「あとで片付けるから!」と声を張った。
「うわあ、ごめんよ!」
また本が崩れる音がする。
(こういう時、魔法が使えたらどんなに楽だろう……)
散らかった部屋を見て、アズサは小さく肩を落とした。
台所に入ると、水の入った小鍋が火にかけられ、ぼこぼこと泡を立てていた。アズサが茶葉を包んだ袋を落とすと、湯の中へじわりと茶色の筋が広がる。表面が焦げ茶に染まったところで袋を引き上げ、茶飲み用の水差しへ注いで蓋をした。木の杯と盆を用意する。
「こんな吹雪の中、外へ出ていたんだって? なぜ言わなかったんだ」
椅子に深く腰掛けたディグレが、唐突に口を開いた。咎めるような視線に、アズサは目を逸らす。
「……それは、その」
「お前は昔から、遠慮してばかりだ。もう少し誰かに頼ることを覚えろ。一人ではできないことが、俺たちには多い。先生を呼んだのは……よかったがな」
マルサに言われたのと同じことだった。アズサは思わず、くすりと笑いを噛み殺す。バーリオ夫妻は、似ているところを探す方が簡単なくらいだ。
二人の言葉に胸の奥が温かくなる。けれど同時に、そこへ何かが詰まるような妙な気分にもなった。
「なんだ。おかしなことを言ったか?」
訝しげに眉を寄せたディグレに、アズサは慌てて首を振る。
「ううん。おばさんからも、同じことを言われたよ」
「マルサが。そうか……。まあ、言ったことは胸に留めておけ。人を助けたんだってな。お前は正しいことをしたよ」
「う、うん」
褒め言葉を滅多に口にしないディグレが、今日は珍しく口数が多い。
その時、アズサはふと、何か大切なことを忘れている気がした。首を傾げた先で、暖炉の端に重ねられた毛布の山が目に入る。
――次の瞬間、部屋の奥から、バルクスの悲鳴が書庫いっぱいに響いた。
「ま、魔獣!?」
困惑した声が飛ぶ。それを聞いた途端、アズサの隣で鋭いものが跳ね上がった。
「なに。魔獣だと?」
ディグレが盛大に顔を歪め、眼光を鋭く細める。
魔獣は総じて忌避される存在ではない。けれど、彼らに良い感情を抱かない者も少なくない。そして――ディグレは、その一人だった。
「待って!」
しまった。アズサは突き刺すような声で制止した。だがディグレはすでに腰を上げ、愛用の小ぶりな斧を握りしめると、本の山をものともせず、問答無用で奥へ突き進んでいった。




