11 魔導師
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部屋へ差し込んでいた橙色の光が、少しずつ夜の闇へ溶けていく。
アズサは目の前のスープを匙で掬い、口へ運んだ。マルサ手製の具だくさんの野菜スープは、身体の芯までしみるほど温かく、薄味なのに野菜の旨味がしっかりと引き出されている。器を傾けて最後の一滴まで飲み干すころには、くうくうと空腹を訴えていた腹も、いつの間にか静まっていた。
ほう、と息を吐いて器を置く。窓の外では日が沈み、夜の帳が降りはじめている。日詠み時計は、迎月の刻を指す寸前だった。
「いっぱいお食べ。まずはお腹を満たさないと、治る怪我も治らないさね!」
皿を手にしたマルサが台所から出てきて、暖炉の前に座る獣の足元へ、そっと器を置いた。具を取り除いたスープの表面がふわりと揺れる。獣はすでに二杯目のおかわりだった。よほど空腹だったのだろう。小さな舌で懸命にスープを舐め取っている。
その美しい毛並みと愛らしい仕草に、マルサはすっかり心を掴まれていた。空になった一杯目の器を満足そうに眺めてから、また台所へ引き返していく。
どうやら獣は、運ばれてくる料理をすっかり気に入ったらしい。怪我の手当てをしたアズサより、美味しい食べ物をくれるマルサのほうへ真っ先に懐いていた。夢中でスープを舐め、硬い尾をゆらゆらと左右に振っているのが、何よりの証拠だ。
(食べ物には勝てないってこと? 僕だって、おいしい料理くらい……)
アズサが口を尖らせていると、前掛けで手を拭きながら、マルサが向かいの椅子へ腰を下ろした。
「かわいい獣だねぇ。あんな綺麗な銀色、初めて見たよ。汚れもひどいし、あとで洗ってやらないと。それに包帯も巻き直さないとね。――ねえ、アズサ。あの幼い獣は、一体どうしたんだい」
頬杖をつき、目を細めて獣を見つめるマルサに、アズサは初めて出会った日のことを思い返した。
「三日くらい前かな。家の外にいたんだ。怪我をしていて、放っておけなくて」
「三日前……。あの『呪い』が始まったのは一週間前だっていうから……。あんな吹雪の中、森をさまよっていたんだね。それは、かわいそうに」
「呪い?」
アズサは目を瞬かせた。
「『エレネイアの呪い』だよ。もうかれこれ十二年、この国で何かが起きれば、みんなそれは彼らの呪いだって言うのさ」
「『エレネイア』って、あの【魔導師】? 味方を裏切った、悪い魔法師だって……」
「そうだね……。十二年前のことを知らない大人は、この国にはいないよ」
マルサは獣を見たまま、悲しげに目を伏せた。
「おまえさんが、ちょうど生まれた頃だったね。【凍雲の粛清】のことくらいは知っているだろう」
「うん」
アズサは神妙に頷く。比較的新しい歴史書なら、すでに記されている出来事だった。
「あれは恐ろしい日だったよ。山脈の空が真っ赤に燃えてね。ここからでも、はっきり見えた。王都の女王陛下も、偉い人たちも、山で暮らす私みたいな木こりの妻だって、みんな知ってる話さ」
【凍雲の粛清】。十二年前、沙流衣月の日に、評議会が《白銀の魔法師》を粛清しようと襲撃を仕掛けた事件である。
追い詰められた《白銀の魔法師》は、自らの家族であり、最古の魔法師の一族である【魔導師】を、その手で一人残らず惨殺した。そして最後には、評議会によって〈白銀〉自身も討たれた――そう伝えられている。
マルサはなお目を伏せたまま、静かに続けた。
「でもね、実際に裏切ったのはこの国だったんだ、って言う人もいるんだよ。だから、国を恨んでいるんだって……」
「どうして?」
「さあ……。何があったのかまでは、私には分からないけれどね」
マルサが視線を落とすと、食べ終えた皿を咥えた獣が、足元へ静かに伏せて見上げていた。
「あらまあ。美味しかったかい。いい子だねぇ、お皿まで持ってきてくれるなんて」
マルサが獣の頭をやさしく撫でると、獣は目を細め、満足そうにまた暖炉のほうへ身体を向けた。器用な身のこなしで、本の積み上がった床の隙間をくぐり抜けていく。
「先に洗っておこうか」
皿を受け取り、マルサは「よいしょ」と重たげな声を上げて立ち上がった。洗いに行くのだろう。アズサも自分の器を手に、その背中を追う。
「僕がやるよ」
「いいや、おまえさんは休んでな。ほら、お皿を貸しな。一緒に洗っておいてあげるから」
マルサは桶に溜めていた水へ器を滑らせた。書庫の奥にある小さな台所は、マルサ一人が立てば、ちょうどいっぱいになる広さしかない。
「あ、ありがとう……。ねえ、おばさん、話の続きを聞かせてよ。どうして、みんな呪いだって言うの?」
アズサは、本から知識を得るのが好きだ。けれど、それ以上に、本には書かれていないことを知るのが好きだった。
本に記されているのは、ひとまずの事柄にすぎない。それが本当に真実かどうかは、また別の話だ。アズサは知識に対して貪欲だった。自分の目で見たものを信じたい――そういう性分を持っている。
皿を洗うマルサの隣で、アズサはその続きを待った。マルサはしばらく手元を見つめたまま、黙って考え込んでいた。




