09 書庫の少年
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枝に残った枯れ葉のように古びた背表紙に囲まれた場所が、アズサ・リアンタのこれまでのすべてだった。
右にも本、左にも本。床の上にまで、足の踏み場がないほど本が積み上がっている。すすけた分厚い羊皮紙の束は、アズサにとって家族であり、師であり、数多の友でもあった。
本とは、生きていくうえで欠かせない水のようなものだ。同時に、知識の花を咲かせる種でもある。アズサはすでに、頭の中に幾重もの世界を築き上げていた。本はそれを彩り、枝を伸ばす大木のように、知識を次から次へと広げていく。
アズサが暮らす『書庫』――そう呼ばれる家には、実にさまざまな書物があった。
最も多いのは、魔法の法式が記された魔導書だ。もっとも、アズサ自身は魔法を使えない。それでも魔導書を読み解くことは、未知の世界を旅するのと同じだった。頭の中で魔法理論を組み立て、空想を重ねながら読む時間が、たまらなく好きだった。
魔導書のほかにも本は山ほどある。植物の植生、動物の身体の仕組み、医学書、食物、天候、薬草、道具の作り方、鉱石の成分、大陸中の国々の歴史と政情。文学、児童書、無人島で生き延びるための本、名前も知らない誰かの旅日記まで――内容は雑多で、それゆえに豊かだった。
その中でも、今のアズサがいちばん心を惹かれているのは言語だった。
魔法師が法式を組み立てるときに使う【テーレの言葉】。大昔に使われなくなった古代インユシェ語とトリエアント語。それらは、頭の中で築いた世界をいっそう鮮やかにしてくれる。
森の小道を歩きながら、本を片手に意味も分からぬ言葉を唱えている少年の姿は、今ではこの辺りの人々にとって見慣れたものだった。
アズサにとっての世界は、鬱蒼とした山の中の出来事がその大半を占めている。
育ての親であるゼンと、バーリオ夫妻――おじさんとおばさん。村の医師バルクス。そして、本。閉じた世界で生きてきたアズサは、これから先もきっとこの中で生きていくのだと、疑いもしなかった。
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玄関の扉を開けたアズサは、目の前の惨状に思わず意味のない声を漏らした。床の上に本が積み重なり、足の踏み場もない。
「うわぁ、散らかったままだった」
じっとりした獣の視線――気のせいかもしれないが――から逃げるように、アズサは日詠み時計へ目をやる。
「まだ天傾の刻?」
吹雪は時間の感覚まで狂わせていた。まだ昼過ぎだったことに驚いた、その時、ぐぅ、とまた腹が鳴る。けれど、腹を空かせた虫より先に、やるべきことが残っていた。
「うっ……あったかいスープは、もうちょっと我慢だ。よし!」
空腹をごまかすように唸り、アズサは暖炉の前の毛布の山へ少女を寝かせた。さっきまで何かを呟いていた少女は、今はもう静かだ。気を失ったのだろう。赤い魔石のおかげで、部屋はほどよくあたたまっている。
アズサは暖炉の上から大きな石を二つ取り出し、薪を集め、石を打ち鳴らしてから中へ放り込んだ。一瞬で炎が大きく巻き上がる。
それから自分の部屋へ行き、寝台の上に積まれていた本を片っ端から床へ下ろした。寝台は二つしかない。ひとつはアズサのもの、もうひとつはゼンのものだ。この部屋のほかにゼンの部屋もあるが、そこには鍵がかかっていて、アズサは一度も入ったことがない。入るなと言われている開かずの部屋だった。長く使われていないのなら、きっと埃だらけだろう。
本を別の山へ移し、替えの敷布を敷く。準備が整ったところで、少女の身体をアズサの寝台へ移した。腕を引いて体勢を直しても、少女は目を覚まさない。胸が上下していなければ、そのまま死んでいるように見えてしまうほどだった。口元へ手を当てて微かな吐息を確かめ、アズサはようやく肩の力を抜く。
「……やっぱり生きてる」
少女は安らかな顔で眠っている。だが、服はぼろぼろのままだ。
「服……全部着替えさせたほうがいいかな。身体も拭かないと……衛生的に……」
アズサは、うう、と唸り、渋るように前髪をくしゃりとかき上げた。銀の髪を丁寧によけて、いちばん外側の衣だけを脱がせる。
――仕方がない。助けるためだ。
そう言い聞かせながら手を動かしたが、衣を外したところで、アズサは首を傾げた。
「うん? あれ、この服……」
衣は大人用なのか、少女の身体にまるで合っていない。袖も裾も引きずるほど長く、身体に沿っているように見えた黒い服も、よく見れば皺が寄り、明らかに大きかった。
「大人のもの……? これも脱がしたほうが……うん、ごめん!」
背後から唸り声が響き、アズサは手を止めた。振り返ると、獣が牙を剥いている。慌てて少女からも獣からも距離を取った。
「変なことなんて、しないって」
獣はさらに唸り、今度はアズサの袖へ噛みついた。アズサはやれやれと首を振りながら、獣の前へ座り込み、視線を合わせる。
「どうしろっていうのさ! 心配なのは分かるけど、さすがにあの服は替えないとだろ? こんなにぼろぼろじゃ落ち着かないよ!」
何があっても譲らない顔だった。獣は鼻先に厳しい皺を寄せたまま、少しも退かない。
「あー……分かったよ」
アズサは大きく息をついて立ち上がり、寝台脇の木棚の引き出しを開けた。そこから白い紙を二枚取り出し、それぞれに二言三言書きつける。数度折り重ねると、紙は小さな鳥の形になった。
「僕がだめってことね。……まあ、僕の服じゃ大きいし、女の子用の服も必要だったし」
寝台へ膝をつき、少女の上へ身を乗り出して窓を少しだけ開ける。
「よっ……と」
腕を振りかぶり、鳥の紙を外へ放った。紙は本物の鳥のように空中で羽ばたき、そのまま真っ直ぐ遠くへ飛んでいく。木々のあいだへ消えていくのを見届けてから、アズサは寝台を下り、もう一度、獣の前へ座った。
「あれは魔具。届けたい人の名前を書くと、その人のところへ必ず届くんだ。水には弱いから雨の日は使えないけどね。安心して。おばさんと、お医者さんを呼んだから」
鞄を肩から下ろし、村で買ってきた薬草を取り出すと、獣はアズサの動きをじっと目で追っていた。
「来るまで少し時間はかかるけど、友達は見たところ怪我もなさそうだし、大丈夫だと思う。……本当は身体も拭いてあげたいけど、きみが許してくれないし。だから二人が来るまで、きみの怪我を見させて。ほら」
獣はつん、と顔を背け、そのまま部屋を出て行こうとした。
「ま、待って。どこ行くの?」
暖炉の前まで行くと、定位置になりつつある毛布の上へ腰を下ろし、獣はアズサを見上げた。治療をさせてやる、とでも言いたげな顔である。
「分かった分かった、それはいいって反応だね。薬箱、持ってくるから」
アズサはくすりと笑った。
「触るね」
声をかけると、獣は静かに目を伏せ、そのまま全身の力を抜くように寝そべった。気を許してくれたのだろう。アズサはその身体へ触れ、乾き始めて固くなった血を、毛の根元から丁寧に拭っていく。傷は見るからに痛々しい。どうしてここまで我慢できていたのかと思わずにいられないほどの深手だった。
「あ……」
土の汚れや絡まった草まで取り払っていくうちに、獣の頭が、うつらうつらと揺れ始めた。
こくん。こくん。
その揺れを見ているうちに、アズサもいつの間にか小さな欠伸を漏らしていた。暖炉のまわりは心地よい暖かさに満ちている。安心した身体から力が抜けると、全身が泥へ沈むように重たくなった。波のような眠気が、静かに押し寄せてくる。
瞼を開けたり閉じたりしながら抗っていたアズサだったが、やがて床の毛布を手探りで引き寄せ、獣の傍らで身を丸めた。




