忘れた町
水原佳奈が通っていた高校は、博物館から車で十五分ほどの場所にあった。
三十一年前の郷土研究部の顧問については、学校へ問い合わせる前に名前が分かった。
開館準備室の調査記録に、何度も同じ名前が出ていたからだ。
顧問 藤川正義。
聞き取り調査への参加依頼書、日程調整の手紙、活動報告。
現在は退職している。
久住に尋ねると、連絡先までは知らなかったが、数年前まで市内に住んでいたはずだと言った。
高校へ電話をすると、教頭が卒業生名簿を調べてくれた。個人の電話番号は教えられないが、学校から藤川へ連絡を取り、本人が了承すれば直人へ伝えるという。
二日後、博物館に電話があった。
藤川本人からだった。
『水原佳奈のことですか』
直人が名乗って用件を説明すると、最初にそう聞かれた。
「はい。開館準備の聞き取り調査について調べています」
『博物館の?』
「当時の活動記録に、藤川先生のお名前がありまして」
『ああ……そういうことですか』
電話の向こうで何か紙を動かす音がした。
『私で分かることでよければ』
藤川の家へ伺うことになった。
*
藤川正義は七十二歳だった。
市街地から少し離れた住宅地に住んでいた。玄関脇に鉢植えが並び、その奥に古い自転車が置かれている。
「こんな格好ですみません」
藤川は半袖のポロシャツにジャージのズボンで現れた。
「退職すると、人に会う格好ってのが分からなくなりますね」
笑いながら直人を居間へ通す。
直人は博物館の身分証を見せ、ノートと筆記具を出した。
録音してよいか尋ねると、藤川は少し考えてから頷いた。
「昔は生徒に散々録音させてたんだから、断るのも変ですね」
直人は小型の録音機を机の中央に置いた。
録音開始の表示を確認する。
「三十一年前、高校の郷土研究部が博物館の聞き取り調査に参加していたことについて、お話を伺えればと思っています」
「郷土研究部ね。まだ記録が残ってるんですか」
「はい」
「何人だったかな」
「参加者名簿では六人です」
「ああ、それくらいだった」
藤川はすぐに何人かの名前を挙げた。
直人が見た名簿と一致した。
水原佳奈の名前は、三人目に出た。
「水原はよく行ってましたよ」
「聞き取りにですか」
「そう。ほかの子は、まあ学校の活動だから行くという感じでしたけどね。水原は話を聞くこと自体が好きだった」
「どんな生徒でした?」
「よくしゃべる」
藤川は即答した。
久住と同じだった。
「授業中も?」
「授業中はそれほどでもなかったかな。興味のあることを見つけると駄目なんです。そこから動かない」
「動かない?」
「話が終わらないんですよ」
藤川は笑った。
「昔の道具を見せてもらうでしょう。ほかの子は名前と使い方を聞いて終わる。水原は、どこで買ったんですかとか、誰が使ってたんですかとか、壊れたらどうしたんですかとか」
直人はノートへ書いた。
「質問が多かったんですね」
「多い。しかもこっちが予想してないところに行く」
「記録にも、少しそういう感じが残っています」
「でしょう」
藤川は楽しそうだった。
「大学でも、歴史か何かやりたいって言ってたと思いますよ。はっきり覚えてないけど」
「進学を考えていた?」
「高校二年でしたからね。まだ具体的じゃなかったと思います。でも、そういう話はしてたんじゃないかな」
直人は一度ペンを止めた。
佳奈が何を学びたかったかについて、残っている資料にはなかった。
「失踪する前、何か変わった様子はありましたか」
藤川の表情から笑いが消えた。
「そこですか」
「覚えている範囲で構いません」
「何かあったと言えば、あったんでしょうけど」
藤川は湯呑みを持ち上げた。
「私は気づかなかったですね」
「学校には普通に来ていた?」
「たしか、夏休みでしたよ」
直人は頷いた。
「八月十三日に所在が分からなくなっています」
「そうだった」
藤川は湯呑みを置いた。
「夏休みに入ってからも部活で来てたとは思います。ただ、毎日じゃなかったから」
「最後に会った日は覚えていますか」
「いや」
答えは早かった。
「何十年も前ですから。あとになって考えれば、あれが最後だったんだという日はあったはずです。でも、覚えてません」
直人は次の質問を探した。
会社のことを聞くべきか迷った。
水原繊維の経営が悪化していたこと。
佳奈の父親が社長だったこと。
それを先に示せば、藤川の記憶をそちらへ寄せることになる。
「佳奈さんがいなくなったあと、学校ではどう受け止められていましたか」
「どうって……」
藤川は庭のほうを見た。
「最初は大変でしたよ。警察も来たし、生徒にもいろいろ聞いた。先生たちも心配しました」
「その後は?」
「その後」
藤川は言葉を繰り返した。
「家出だろうという話になっていったんじゃないですかね」
「誰かから、そう聞いたんですか」
「誰かというか」
藤川は眉を寄せた。
「家庭の事情もあるだろうから、あまり騒がないほうがいいんじゃないかって」
「それは学校の方針ですか」
「いやいや、そういう意味じゃないですよ」
藤川は手を振った。
「方針なんてものじゃない。誰かが決めたわけでもないです」
「では、先生方の間で?」
「どうだったかな」
藤川は困ったように笑った。
「こういう話は、あとから聞くと全部決まっていたみたいに聞こえますけどね。実際はそんなにきれいじゃないですよ」
直人は黙って待った。
「警察が捜してる。家族もいる。学校の生徒だっている。だから最初はいろんな話が出るんです。目撃したとか、駅にいたとか」
「はい」
「でも、何も出ない。日が経つ。夏休みが終わる。学校が始まる」
藤川は指で湯呑みの縁をなぞった。
「そうすると、いつまでも水原のことばかり話していられなくなる」
「家出という言葉だけが残った?」
口にしてから、直人は少し後悔した。
答えを置いてしまった。
藤川は考えてから言った。
「まあ、そんなところでしょうね」
直人はノートに線を引いた。
「すみません。今のは僕が言葉を先に出しました」
「え?」
「先生が当時どういう言葉を聞いていたか、そのまま教えてください」
藤川は少し驚いたようだったが、やがて頷いた。
「家出、でしょうね。あと、家庭の事情」
「家庭の事情」
「水原の家も、あのころはいろいろあったから」
初めて藤川のほうから家の話が出た。
「会社のことですか」
「ええ」
「当時、学校でも水原繊維の経営が苦しいことは知られていたんでしょうか」
「詳しいことは知らないですよ。ただ、景気がよくないとか、工場が大変らしいとか。その程度です」
藤川は少し間を置いた。
「うちの卒業生も、ずいぶん行ってましたから」
「水原繊維へ就職していた?」
「毎年いましたよ。昔はね」
直人は高校の古い就職先一覧で見た社名を思い出した。
「だから、水原の家だけの話じゃなかった」
藤川はそう言った。
それから、小さく息を吐いた。
「かわいそうな子でしたよ」
直人はペン先を紙につけたまま、顔を上げた。
「何が、ですか」
「何がって……」
藤川は答えに詰まった。
「いなくなったことが、でしょうね」
そこから先は、佳奈の話が少なくなった。
藤川は当時の郷土研究部の活動についてはよく覚えていた。
夏休みに自転車で聞き取り先へ行ったこと。
生徒が録音機の電池を忘れたこと。
佳奈が予定時間を大幅に超えて老人の話を聞き、帰りが遅くなったこと。
古い商店の看板を譲ってもらえると聞いて、部員たちが学校まで運んだこと。
細部はいくらでも出てくる。
だが失踪について尋ねると、言葉が急に少なくなる。
家出。
家庭の事情。
かわいそうだった。
昔のことだから。
玄関で靴を履くとき、藤川が言った。
「水原のこと、何か分かったんですか」
「まだです」
「そうですか」
「先生は、見つかってほしいと思っていましたか」
聞いたあとで、妙な質問だったと思った。
藤川も少し考えた。
「当時は、もちろん」
「今は?」
「今ですか」
開いた玄関の向こうから、夏の熱気が入ってきた。
「生きててくれたら、それでいいんじゃないですか」
藤川はそう言ってから付け足した。
「もう、昔のことですから」
*
元従業員の話を聞けたのは、その四日後だった。
市史編纂時の聞き取り記録に、水原繊維の元工員として名前が残っていた。
森本隆志。
当時は四十代。現在は七十八歳になる。
記録にあった住所へ手紙を出すと、本人から博物館へ電話があった。
「会社の話ならいいけど、水原さんの娘さんのことは、俺はあんまり知らんよ」
最初にそう言われた。
直人は水原繊維について話を聞きたいと答えた。
森本は博物館へ来た。
常設展示を見てから、資料スペースの隅にある小さな机へ座った。
「ここ、昔と変わったねえ」
「開館したころも来られたんですか」
「会社で券もらったんじゃなかったかな。覚えてないけど」
森本は館内を見回した。
「水原繊維、建てるときに金出してたでしょう」
「記録にはあります」
「社長、そういうの好きだったから」
「地域への寄付ですか」
「祭りでも何でもね」
森本の話は水原繊維の最盛期から始まった。
三交代で機械を動かしていたこと。
工場の食堂が安かったこと。
春には新入社員が何十人も入ったこと。
会社の野球部が県大会へ出たこと。
「景気いいころはね、会社の運動会なんかもやってたんですよ。家族も来て」
「森本さんは、何年くらい勤めていたんですか」
「二十六年かな」
「倒産まで?」
「その少し前に辞めた」
森本は膝の上で手を組んだ。
「最後のほうは、まあ、ひどかったです」
「具体的には?」
「給料が遅れた」
森本はすぐに言った。
「最初は二日とか三日。次は一週間。そういうのが増えた」
「佳奈さんがいなくなった年も?」
「そのあたりだったと思う」
「給料が遅れていたという記録は、新聞では確認できませんでした」
「新聞に出すわけないでしょう」
森本が笑った。
「会社が明日潰れるってときなら別だけど」
「従業員の間では、経営が悪いことは分かっていた?」
「そりゃ分かりますよ。残業減る、材料来ない、機械止まる。銀行の人がよく来る」
直人は一つずつ書いた。
「経営陣への不満はありましたか」
「ありましたよ」
森本はあっさり答えた。
「給料遅れたら、誰だって怒るでしょう」
「社長に対しても?」
「そりゃね」
そこで森本は少し笑った。
「でも社長だけ殴ったら会社が元気になるわけじゃないし」
「辞める人はいなかったんですか」
「いましたよ。若い人は特に」
「森本さんは残った」
「ほかに何するんです」
森本は直人を見る。
「四十過ぎて、あそこでずっと機械見てきた人間が、急に別の仕事できると思います?」
直人は答えなかった。
「女房もパートで入ってたし、兄貴も関連会社。近所にも何人いたかな」
森本は指を折りかけて、やめた。
「あそこがなくなったら困る家、いっぱいあったんですよ」
直人は、その言葉をそのままノートへ書いた。
久住の「町中」と重なった。
「会社を守らなければいけない、という感じはありましたか」
森本が直人を見る。
質問が広すぎた。
「すみません。言い方を変えます。当時、会社について悪い話を外でしないようにと言われたことはありますか」
「会社から?」
「会社でも、上司でも」
「俺はないです」
森本は首を振った。
「そんな命令された覚えはない」
「では、経営が悪いことを家族や町の人と話していましたか」
「話したでしょうね」
「新聞社や市役所へ伝えようと考えた人は?」
「さあ」
森本は少し考えた。
「いたかもしれないけど、俺は知らない」
「森本さん自身は?」
「言ってどうするんです」
その答えは怒ったものではなかった。
「会社が苦しいですって新聞に載ったら、取引先が逃げるでしょう。銀行だって金貸さなくなる。仕事減る」
「だから言わない」
「だからっていうか」
森本は椅子の背にもたれた。
「普通、言わんでしょう」
直人はペンを止めた。
命令ではない。
それでも結果は同じになる。
「水原佳奈さんについては、覚えていますか」
「娘さんね」
「はい」
「顔は覚えてないなあ。社長の娘がいなくなったのは覚えてます」
「当時、工場ではどういう話になりました?」
「家出したって」
「誰から聞きました?」
「誰だろう」
森本は天井を見た。
「みんな言ってたんじゃないかな」
「家出の理由については?」
「家庭の事情でしょう」
直人は顔を上げた。
藤川と同じ言葉だった。
「家庭の事情、というのは具体的に?」
「そこまでは知らんですよ」
「では、なぜそう思ったんですか」
「なぜって」
森本は困った顔をした。
「社長の家も大変だったからじゃないですか」
「会社が苦しかったから?」
「まあ」
森本は頷きかけて止まった。
「でも昔のことだからね。今になって、どれがそのとき聞いた話で、どれがあとから聞いた話か分からないですよ」
その言葉は、藤川の話より直人には納得できた。
三十一年。
同じ出来事について何度も誰かと話し、そのたびに似た説明を聞いていれば、最初に誰が何を言ったのかは残らない。
森本は帰り際、常設展示室の昭和の町並み写真の前で足を止めた。
「ああ、これ」
商店街を写した写真だった。
「ここの角に食堂があったんですよ」
直人も横に立つ。
「この建物ですか」
「いや、その隣。写真じゃ切れてる」
森本は笑った。
「夜勤明けに、よく行ったんです」
水原繊維の話をしていたときより、店の位置のほうをはっきり覚えていた。
*
その後も、直人は何人かに話を聞いた。
開館準備委員だった元市役所職員。
水原繊維と取引のあった商店の店主。
当時、高校のPTA役員をしていた女性。
誰も佳奈を忘れてはいなかった。
「ああ、水原さんのところの娘さん」
「いなくなった子でしょう」
「かわいそうだったねえ」
名前を出せば、ほとんどの人が思い出した。
だが、そこから先は似ていた。
「家出だったんじゃなかった?」
「家庭の事情って聞いたけど」
「会社も大変な時期だったから」
「昔のことだからねえ」
言葉だけを書き出せば、口裏を合わせたようにも見えた。
だが実際に話を聞くと、そうは思えなかった。
元市役所職員は、佳奈の失踪した月を間違えていた。
商店の店主は、水原繊維が倒産した年と工場再編の年を取り違えていた。
PTA役員だった女性は、佳奈の学年すら覚えていなかった。
細部はばらばらだった。
それなのに、説明に使う言葉だけが似ていた。
直人は聞き取りの記録を机に並べた。
家出。
家庭の事情。
かわいそうだった。
昔のこと。
誰かが最初にそう言ったのかもしれない。
警察だったのか。
家族だったのか。
学校だったのか。
会社だったのか。
それとも最初から、何人もの人間がそれぞれ同じ程度に納得しやすい言葉を選んだのか。
記録からは分からなかった。
*
水原美智子の住所は、三十一年前の新聞記事には載っていなかった。
現在の連絡先を調べるのは、ほかの聞き取り相手ほど簡単ではなかった。
直人は久住へ相談した。
「お母さんに会おうと思ってるの?」
「できれば」
久住はパソコンから顔を上げた。
「何を聞くつもり?」
「まだ決めてません」
「決めてないのに会うの」
「決めすぎると、聞きたい答えを聞きに行くことになるので」
久住は一瞬だけ直人を見た。
「勉強したのね」
「前回で」
「あれくらいで?」
「僕には十分でした」
久住は小さく笑った。
それから机の引き出しを開けた。
「住所なら、昔の記録にあると思う。ただし、そのまま訪ねるのはやめて」
「はい」
「博物館から手紙を出しましょう。何を調べているか書いて、会ってもいいなら連絡をくださいって」
直人もそのほうがいいと思った。
手紙は久住に確認してもらってから送った。
返事が来たのは一週間近くあとだった。
封書ではなく、電話だった。
美智子は博物館ではなく、自宅で話したいと言った。
*
町の外れにある古い住宅地だった。
水原繊維の工場があった場所とは反対側になる。
道幅が狭く、住宅の間に小さな畑が残っている。
水原美智子の家は平屋だった。
庭の隅に物干し竿があり、白いタオルが三枚並んでいた。
「どうぞ」
美智子は小柄な女性だった。
七十六歳。
玄関から居間までの廊下を、壁に手をつくこともなく歩く。
部屋には低いテーブルとテレビがあり、棚の上に写真立てがいくつか並んでいた。
直人は見ないようにした。
「博物館の方なのね」
「臨時職員です。瀬尾と申します」
「久住さんは?」
「今も勤務しています」
「そう」
美智子はそれだけ言った。
「元気?」
「はい」
「そうですか」
麦茶を出され、直人は礼を言った。
録音していいか尋ねると、美智子は首を振った。
「録音は、やめてください」
「分かりました」
録音機は鞄から出さなかった。
「佳奈さんが三十一年前、博物館の開館準備に参加していたことを調べています」
「知ってます」
「高校の郷土研究部で、聞き取りをしていたそうです」
「そういうの、好きだったから」
美智子は直人ではなく、テーブルの上を見ていた。
「家でも話していましたか」
「何を?」
「聞き取りのことです」
「いろいろ」
短い返事だった。
「知らないおじいさんのところへ行って、二時間も話を聞いたとか。帰ってきてから、こっちにも同じ話をするんです」
「楽しんでいたんですね」
「でしょうね」
美智子の口元が少しだけ動いた。
「うるさいくらいでした」
久住も藤川も、似たことを言っていた。
よくしゃべる。
質問が多い。
直人の中にある佳奈の姿と、母親の言葉がようやくつながった。
「博物館に、当時の写真が残っています」
「そう」
「佳奈さんがカセットレコーダーを持って笑っている写真です」
美智子は何も言わなかった。
「ご覧になりますか」
「いいです」
拒絶は穏やかだった。
直人はそれ以上勧めなかった。
「三十一年前の八月について伺ってもいいですか」
美智子の手が、麦茶のグラスに触れた。
「どうぞ」
「佳奈さんがいなくなったあと、新聞には一度記事が出ています。その後の記録がほとんどありません」
「そうですか」
「当時、家出だという見方があったようですが、ご家族もそう考えていたんでしょうか」
美智子はすぐには答えなかった。
「警察の方から、家出かもしれないとは言われました」
「佳奈さんが家を出るような理由に、心当たりはありましたか」
「十七の娘ですよ」
美智子は言った。
「親が全部知ってると思います?」
「いいえ」
直人は答えた。
「思いません」
美智子が初めて直人をまっすぐ見た。
「じゃあ、何を聞きに来たの」
声は強くなかった。
直人は少し考えた。
「分からないことが多いからです」
「何が?」
「佳奈さんが何を考えていたか。それと、いなくなったあと、どうして町の人が似た言葉で話すようになったのか」
「似た言葉?」
「家出とか、家庭の事情とか、昔のことだとか」
美智子の顔は変わらなかった。
「間違ってますか」
「さあ」
美智子はグラスから手を離した。
「みんな、そう思ったんじゃないですか」
「お母さんも?」
「何を?」
「佳奈さんが家出したと」
窓の外で車が通った。
音が遠ざかるまで、美智子は答えなかった。
「そう思うしかないでしょう」
直人はその言葉をノートに書かなかった。
「水原繊維の経営が悪くなっていた時期と重なっています」
「それは知ってます」
「佳奈さんの失踪と会社に関係があったと思いますか」
美智子は目を伏せた。
「会社のことは、もうありませんから」
「ありません?」
「会社はなくなったでしょう」
「はい」
「主人も亡くなりました」
直人は知らなかった。
「すみません」
「ずいぶん前です」
美智子は淡々と言った。
「工場もない。昔の家もない。あの頃の人たちだって、亡くなった人が多いでしょう」
直人は何も言わなかった。
「今さら、何が知りたいんですか」
「今さらだから、分からなくなっていることもあると思っています」
「分からなくていいこともあります」
美智子は言った。
直人の手元には、何も書かれていない行が残った。
「佳奈さんの行方について、今も知りたいとは思いませんか」
美智子の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
悲しそうになったわけではない。
怒ったようにも見えない。
直人には、それが何なのか分からなかった。
「あの子を、もう探さなくていいんです」
美智子は言った。
直人は返事をしなかった。
「三十一年です」
「はい」
「もう、いいんです」
諦めた人間の言葉なら、もっと違う言い方もできたはずだった。
見つからない。
死んでいると思う。
忘れたい。
美智子は一度もそう言わなかった。
探さなくていい。
直人はその言葉だけをノートに書いた。
話を切り上げ、玄関で頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「博物館に」
靴を履いていると、美智子が言った。
直人は振り返った。
「佳奈のもの、何かあるんですか」
木箱のことをどこまで話すべきか迷った。
久住から、木箱の中身は館外へ出さないよう言われている。存在を秘密にしろとは言われていない。
「開館準備当時の活動記録があります。写真や、聞き取り調査の記録です」
嘘ではなかった。
「そう」
美智子は頷いた。
「それなら、ちゃんと残しておいてください」
「はい」
木箱のカセットについては言わなかった。
*
博物館へ戻る前、直人は車を道路脇の小さな公園の駐車場に停めた。
ノートを開く。
美智子との会話を、覚えているうちに書き足した。
録音がない分、言葉が曖昧になる。
助詞まで正確かは分からない。
それでも、
あの子を、もう探さなくていいんです。
その一文は間違えていないと思った。
直人はペンを置いた。
藤川は言った。
生きててくれたら、それでいい。
ただし、それは希望としての言葉だった。
美智子の言い方は違った。
もし佳奈が死んだと考えているのなら。
もし三十一年間、何の手掛かりもないのなら。
なぜ「探しても無駄」ではなく、「探さなくていい」なのか。
直人はノートの余白に、
生存?
と書いた。
その二文字を丸で囲みかけて、やめた。
まだ何も分かっていない。
美智子が何かを知っている可能性もある。
単に、これ以上過去を掘り返されたくないだけかもしれない。
ただ、これまで直人は無意識に、佳奈が三十一年前のどこかで途切れているものとして考えていた。
新聞記事。
古い写真。
録音。
失踪。
すべてが過去の資料だったからだ。
もし途切れていないのなら。
テープの言葉の意味も変わる。
もうここにはいません。
死ぬという意味ではない。
そのままの意味で、町からいなくなることだった可能性がある。
*
開館準備委員会の資料を見直したのは、その翌日だった。
直人が探していたのは、水原繊維の名前ではなかった。
名前ならすでに何度も見ている。
誰が、どこにいたかだった。
開館準備委員名簿。
市役所文化課。
商工会。
学校関係者。
地元企業。
地域史研究者。
文化団体。
水原繊維の社長だった佳奈の父親は、委員そのものではなく協力企業の代表として何度か会議へ出席していた。
別の資料には協賛企業一覧。
水原繊維。
その下に、地元銀行。
建設会社。
商店組合。
さらにページをめくる。
博物館建設募金の世話人名簿。
同じ名字がいくつも出る。
商工会役員とPTA役員。
市の審議会委員と会社の取引先。
高校の同窓会役員と地元企業の管理職。
一人が複数の場所にいる。
特別なことではなかった。
地方の町なら珍しくもない。
直人の祖父も、生前は自治会と消防団と地元の信用金庫の集まりに顔を出していた。
役職の一覧だけを見れば、それだけで一つの大きな組織のように見えるかもしれない。
実際には、同じ町に住む人間が別々の場所でも顔を合わせているだけだ。
直人は資料を一枚ずつ見た。
佳奈がいなくなった直後の開館準備会議。
議題は展示ケース。
収蔵庫の空調。
開館式の日程。
水原繊維からの寄付物品。
佳奈の名前はない。
次の会議。
ない。
市役所の記録。
ない。
商工会の会報。
ない。
誰かが「水原佳奈について書くな」と命じた紙はなかった。
事件を小さく扱うよう指示した文書もない。
少なくとも、直人が確認した資料の中には。
それでも、佳奈について聞いた人たちは似た言葉を使った。
家出。
家庭の事情。
かわいそうだった。
昔のこと。
そして水原繊維については、森本が言った。
あそこがなくなったら困る家、いっぱいあったんですよ。
直人は机の上に、開館準備委員名簿と聞き取りノートを並べた。
一枚の紙には、名前が並んでいる。
別の紙には、人が三十一年後に口にした言葉が並んでいる。
その間を直接つなぐ記録はない。
だが、何もなかったとも思えなかった。
会社が傾けば困る。
娘がいなくなった。
家族のことだから踏み込まない。
警察が捜しているなら任せる。
学校は学校を続ける。
会社は会社を続ける。
博物館は開館準備を続ける。
誰か一人が決めなくても、それぞれが自分の場所でそれ以上のことをしなければ、話は少しずつ小さくなる。
直人はそこまで考えて、ノートを閉じた。
まだ仮説だった。
佳奈が会社の何かを知っていたという証拠もない。
町の誰かが意図的に事件を小さくした可能性も消えてはいない。
ただ、以前より一つの命令を探す必要は感じなくなっていた。
閉館時刻を知らせる放送が流れた。
資料スペースの机を片づける。
名簿をファイルへ戻し、会議録を年度順に揃える。
最後に、自分の聞き取りノートを鞄へ入れた。
表紙を閉じる前に、美智子の言葉が見えた。
あの子を、もう探さなくていいんです。
直人はその下の余白に書いた二文字を見た。
生存?
今度も、丸は付けなかった。




