第2話 おばあちゃん、まずは書類(エビデンス)を集めさせます
「まだか! シルバの若造はまだ来ないのか!」
宰相執務室の豪奢な扉を蹴破らんばかりの勢いで怒鳴り込んできたのは、肥満体をきらびやかな絹の衣装で包んだ男――財務大臣、ボルドー侯爵であった。
その背後には、彼にへつらう腰巾着の貴族たちが数名、ニヤニヤと品性のない笑みを浮かべて控えている。
「これだから、親の七光りとハッタリだけで椅子に座った若造は使えん。我がボルドー家が申請した『王都防衛費の追加予算』の承認書に、さっさとサインをすれば良いものを!」
ボルドー侯爵が持参した書類――それは、名目こそ防衛費だが、実態は彼らの私腹を肥やすための不当な請求書だった。元のシルバは、これが不正だと分かっていながらも、論破するための具体的な証拠を揃えられず、ただ「時期尚早である」と突っぱねるのが精一杯だったのだ。結果として実務が滞り、心労だけが溜まっていった。
「お待たせいたしました、ボルドー侯爵。朝早くから、ずいぶんと元気なお声が響いておりましたねぇ」
「……っ!?」
部屋の奥の扉から現れたシルバの姿に、ボルドー侯爵は一瞬、言葉を詰まらせた。
いつもなら、鋭い刃物のように刺々しいオーラを放ち、不機嫌そうに眉をひそめて出てくるはずの若き宰相。だが、今日のシルバは何かが違った。
歩き方はどこまでも優雅で、その美しい顔立ちには、まるで春の木漏れ日のような、ぽかぽかとした笑みが浮かんでいる。
「ふん、やっと起きたか。顔色が随分と良さそうだな、シルバ。ならば話は早い。この予算案に今すぐサインを――」
「まあまあ、そう焦りなさるな。せっかくですから、まずは温かいお茶でも召し上がってください。お腹が空いていたり、喉が渇いていたりすると、人間、どうしても言葉が荒くなってしまうものですから」
シルバは流れるような所作で、執務室のサイドボードから見事な茶器を取り出した。前世で数々の気難しい大物政治家や、無理難題をふっかける取引先の社長たちを「完璧なタイミングのお茶」で懐柔してきたチヨである。異世界の茶葉の扱いなど、シルバの記憶を頼りにすれば朝飯前だった。
カチャ、とおだやかな音を立てて淹れられた紅茶からは、素晴らしい香りが立ち上る。
「……何だこれは。私が求めているのはサインであって、茶飲み話ではない!」
ボルドー侯爵は苛立ち紛れに机を叩いたが、出された紅茶のあまりに完璧な香りに、思わず生唾を飲み込んだ。
バタン! と、そのタイミングで執務室の扉が勢いよく開く。
息を切らせた秘書官のアルが、両腕にずっしりと重そうな書類の束を抱えて飛び込んできた。
「シ、シルバ様! ご指定の書類……過去三年分のボルドー侯爵の予算請求書と、領地の納税記録、揃えてまいりました! ちょうど、一分五十秒です!」
「あら、素晴らしいわ。よく頑張りましたね、アルさん」
シルバは、アルの頭を「よしよし」と撫でるかのように、目元を優しく細めた。アルは顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに書類をデスクへ並べる。
その様子を見て、ボルドー侯爵の目が怪しく細められた。
「……ほう。過去の書類を集めてどうするつもりだ? 監査の真似事か? 言っておくが、我が方の書類に不備など一切ないぞ。そんな無駄な時間があるなら――」
「無駄かどうかは、今から分かりますよ」
シルバは、優美な指先でパラパラと書類をめくり始めた。
その速度は、常人のそれではない。まるでページを写真に撮るかのように、凄まじい速さで目を通していく。前世で、数千ページに及ぶ政府の予算案や企業の決算書を、徹夜でチェックし続けてきた「伝説の秘書」の動体視力と事務処理能力が、シルバの若く強靭な脳細胞と融合したのだ。まさに鬼に金棒であった。
(ふむふむ、なるほどねぇ……。昭和の時代の、田舎の悪徳土建屋でももうちょっとマシな偽造をするわよ? これじゃあ、突っ込んでくださいって言っているようなものじゃないの)
シルバの脳内で、全ての数字がパズルのように組み上がっていく。
そして、鏡のような美貌に、いっそう深い、おだやかな笑みが浮かんだ。それは前世でチヨが、完全に相手の「逃げ道を塞いだ」ときにだけ見せた、無敵の微笑みだった。




