第60話
割れた石の上で、砂時計がほどけた。
光が、ひと筋。陛下の頭の上の砂時計も、同時に、ほどけていく。ふたつの光が、天井の砂時計のあいだを縫って、昇っていった。
陛下は、剣を握ったまま、動かない。
目を見開いている。何かが、一度に戻ってくるのを、受けとめているような顔で。
やがて、陛下は、剣を取り落とした。
「……姉上」
大広間の真ん中で、陛下は、12の子どものような声でそう言った。
それから、わたくしの前まで歩いてくる。
「すまない」
「何が、でございますか」
「回廊で、毎朝、待たせた」
「はい」
「栞を、誰にもらったのかと聞いた」
「はい」
「王冠より、そなたを先に、忘れた」
陛下の耳が、燭台より赤い。
わたくしは、笑った。笑ったら、涙が出てしまう。
「思い出してくださったので、帳消しにいたします」
◇
ベルンハルト師が、割れた王冠を拾い上げた。
「器は、かけた者の手で、かけたその場で封じねばならん。……冬の謁見の夜、陛下の冠を手にしたのは、誰だ」
大広間の目が、ひとところに集まる。
謁見のあと、控えの間で陛下の冠を外し、盆に載せて宝物庫へ運んだのは、侍従長である。宝物庫の鍵を持つのも、侍従長ひとり。
ブラント伯は、それでも、背筋を伸ばしていた。
「私は、術士ではございません」
「そうだろうな」
陛下が言う。
「控えの間には、もうひとりいた。そなたの甥だ。魔術院の、若い術士の」
陛下は、思い出されたのだ。わたくしについての思い出と一緒に、あの夜、控えの間で冠を外したときのことも。
アルノーが、大広間の隅に目をやった。若い術士が、ひとり、壁ぎわで真っ青になって震えている。
近衛が、その両脇を取った。
術士は、師の前で、すべてを白状した。伯父に言われて、禁じられた術を古い書から写したこと。冠を外した陛下に、控えの間で術をかけたこと。器に選んだのが、誰も割れない冠だったこと。
「割れるはずが、ないと……」
術士は、うわごとのように繰り返していた。
「7代の冠を、割る王など……」
「2度、賭けたのだ」
陛下の声は、静かである。
「3度目は、割るくらい、どうということはない」
ブラント伯は、侍従長の職と爵位を解かれ、王都を追われることになる。甥の術士は魔術院から追われ、二度と術を使えぬよう、手に封を受けた。娘のヘレーネ様を新しい妃にと、評定の間で根回しをしていたことも、あとから知れている。
評定の間で噂にうなずいていた方々は、しばらく、わたくしと目を合わせなかった。
アルノーは、ずいぶん長いこと、わたくしの前で頭を下げつづけた。魔術院から、禁術を写す者を出したことを。
「顔を上げなさい。あなたが見つけてくれなければ、あれが忘却の術だとも、わからなかったのだから」
ユリウス殿下は、春まで王都に留まることになった。
「割るとは思わなかった」
殿下は、陛下の肩を叩いて笑った。
「俺なら、迷っているうちに砂が落ちきる」
「迷った」
陛下は、真顔で答える。
「祈りのあいだ、ずっと迷っていた。……それで、この人の頭の上を見たら、口が勝手に動いた」
殿下は、わたくしのほうを見て、肩をすくめた。
「7年も毎朝言っていれば、口が覚えるか」
◇
新しい石は、春までにはまる。
それまで、陛下は、石の抜けた冠を戴くことになった。抜けた穴を、陛下はたいそう気に入っておられる。
「穴が開いているほうが、軽い」
「そういうものでしょうか」
「そういうものだ」
ロッテは、父親の膝の上で、冠の穴をのぞきこんで笑っている。
「おとうさま。もう、忘れませんか」
「忘れない」
「本当に?」
陛下は、少し考えた。
「忘れても、毎朝、頭の上を見る。……それは、忘れなかった」
◇
翌朝、陛下は戸口で足を止めて、わたくしの頭の上を見上げた。
少し、長く。
「何もないな」
「はい、何も」
それから、陛下は、ほっとしたように息をついた。
自分の頭の上を、わたくしが見上げていることに気づいて、陛下が眉を上げる。
「こちらは」
撫でつけた髪の上には、整髪の術の砂時計が、ひとつだけ。
「ございます。いつもの分だけ」
陛下は、笑った。
戸口の陰から、ロッテが、ふたりの頭の上を見比べて、満足そうにうなずいている。
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