第59話
ブラント伯が、盆を捧げたまま、陛下の前に膝をつく。
陛下は、王冠を手に取り、頭に戴いた。
陛下の頭の上の砂時計と、王冠の石の上の砂時計が、並ぶ。ふたつの砂は、同じ速さで、最後の一筋を落としつづけている。
大祭の祈りが、始まった。
神官長が祝詞を読み上げる。長い。いつもより、ずっと長く感じる。
わたくしは、陛下の頭の上だけを見ていた。
祈りが終わると、ブラント伯が進み出た。
「陛下。冠を戴かれた今こそ、お心をお示しくださいませ」
よく通る声である。
「王妃陛下を、このまま妃として置かれますか。それとも、術から醒められた陛下の、まことのお心のままに」
大広間が、しんとなった。
陛下が、わたくしを見る。
わたくしは、一歩、前に出た。
「陛下。お答えになる前に、ひとつだけ、お願いがございます」
「申せ」
「その王冠の、青い石を、割ってくださいませ」
◇
大広間が、どよめいた。
「何ということを!」
ブラント伯が、声を荒げる。
「7代の王が戴いてこられた冠を、割れと! それこそ、王妃陛下が陛下を術で縛っておられた証。思い出させるふりをして、王家の宝を――」
「その石の上に、砂時計が乗っております」
わたくしは、ブラント伯ではなく、陛下を見て言った。
「陛下の頭の上のものと、同じ大きさ。同じ速さ。忘却の術の器でございます。陛下の、わたくしについての思い出が、すべて、その中に」
「証は」
「ございません。見えるのは、わたくしだけでございます」
ほんとうは、ふたりいる。
広間の隅で、ミーナに手を引かれたロッテが、口を開きかけていた。わたくしは、娘のほうを見ずに、ほんのわずかに首を振る。
ロッテは、唇を噛んで、黙った。
娘の目のことは、ここでは言わない。言えば、この子は今日から、宮中じゅうに頭の上を見上げられる子になる。
「ベルンハルト師」
陛下が、低く呼んだ。
師は、杖をついて、陛下の前に進み出た。王冠に手をかざし、目を閉じる。
「石の上、と、言われたな」
「はい」
師の眉が、ゆっくりと寄った。
「……ある。忘却の術の、封だ」
ブラント伯の顔から、色が引く。
「師は、王妃陛下の師でございます! 退かれたとはいえ――」
「わしは、誰の師でもない」
師は、ブラント伯を見もせずに言った。
「薔薇の世話をしておる、ただの年寄りだ。年寄りは、見たものしか言わん」
ブラント伯は、陛下に向き直る。
「陛下。お考えくださいませ。この冠を割れば、もう元には戻りませぬ。割って、何も思い出されなかったら。王家の宝を、ひとりの女の言葉で失ったことになります」
大広間の、いくつもの顔が、うなずいた。
「陛下」
わたくしは、陛下の頭の上を見上げた。
砂は、もう、上の玉の底に、ほんのひとつまみ。
「お時間が、ございません」
ブラント伯が、一歩踏み出した。
「ならば、冠は私が、宝物庫へお戻しいたします。このような騒ぎの中に、王家の宝を置いてはおけませぬ」
盆を差し出す手が、わずかに震えている。
「下がれ」
陛下の声が、低く響いた。
「冠は、私が戴いている。お前のものではない」
ブラント伯は、盆を差し出したまま、動けない。
◇
陛下は、王冠を頭から外した。
両手で持って、青い石を見下ろす。陛下には、砂時計は見えない。ただ、金と青の、古い冠があるだけだ。
「割れば、思い出すのだな」
「はい」
「割らなければ」
「二度と、思い出されません」
陛下は、顔を上げた。
わたくしの顔を見る。それから、ほんの少し、目を上に。
わたくしの頭の上を。
「……何もないな」
陛下の口から、その言葉がこぼれた。
陛下ご自身が、驚いた顔をしている。
わたくしは、声が震えないように、ゆっくりと答えた。
「はい。何も」
陛下は、何も言わなかった。
王冠を、大理石の床に置く。腰の剣を抜いて、柄頭を、青い石の上に振り下ろした。
澄んだ音が、大広間に響く。
石が、割れた。




