第58話
大祭までの日々は、短かった。
評定の間では、ブラント伯の言葉に、うなずく顔が日ごとに増えていく。今度は、甘い匂いはしない。皆、陛下がわたくしを覚えておられないことを、自分の目で見ているのだ。
「王妃陛下が、陛下を術で縛っておられたのなら」
ある日、誰かが言った。
「魔術院の長が、王妃陛下の肩を持つのは当然のこと。アルノー殿は、7年前から王妃陛下の子飼いでございますから」
アルノーは、唇を噛んで黙っていた。
陛下の頭の上の砂は、細く、絶えず落ちつづけている。
陛下の執務室には、毎日、ヘレーネ様がお茶を運んでいた。わたくしが回廊でお待ちしている朝も、その少しあとに、銀の盆を持ってヘレーネ様が通る。
すれちがうとき、ヘレーネ様は、きれいにお辞儀をなさる。
目は、わたくしの顔ではなく、わたくしの居室の扉のほうを見ていた。いずれ自分が使う部屋を、確かめるように。
◇
大祭の4日前、北の砦から、ユリウス殿下が着いた。
冬には姪の顔を見に行く、という約束を、殿下は律儀に守ったのだ。宮中の騒ぎは、王都に入る前に、もう耳に入っていたらしい。
殿下は、旅装も解かずに、陛下の執務室に乗りこんだ。
扉の外にいたわたくしにも、声が聞こえた。
「お前が、この人を忘れたのか」
「……兄上」
「忘れたなら、覚えている者が話してやる。座れ」
扉の向こうで、殿下は、長いこと話していた。ヴァルデンの石ころと呼ばれた娘のこと。婚約破棄の夜のこと。新年の夜会で、陛下が冠を賭けたこと。雪の館から、陛下を連れ帰ったのが誰だったか。
陛下は、ひとことも口をはさまなかった。
出てきた殿下は、わたくしを見て、気まずそうに頭をかいた。
「話してはみたが。……他人の話を聞く顔だったよ。すまない」
「いいえ」
わたくしは、首を振る。
「他人の話でも、聞いてくださったのなら」
◇
大祭の前の晩、ベルンハルト師が、杖をついて王宮に来られた。
「年寄りを、寒い中に引っぱり出しおって」
誰に呼ばれたのでもない。師は、自分で来られたのだ。
「明日の大祭に、わしも出る。魔術院を退いた者なら、王妃の子飼いとは言われまい」
わたくしは、深く頭を下げた。
師は、ふん、と鼻を鳴らす。
「礼なら、陛下が思い出されてから言え」
◇
その夜、陛下が、わたくしの居室の戸を叩いた。
忘れられてから、はじめてのことである。
陛下は、戸口に立ったまま、入ってこられない。
「娘から、聞いた」
「何を、でございますか」
「毎朝、そなたが言っていた言葉を」
陛下は、わたくしの頭の上を見上げた。
「私が、何もないな、と言う。そなたが、はい、何も、と答える。……それが、7年と少し、毎朝続いていたと」
「はい」
「なぜ、私は、そんなことを毎朝言っていた」
わたくしは、少し考える。
わたくしの頭の上には、かつて、砂時計がひとつ乗っていた。陛下は、それを誰よりもよくご存じだ。だから、婚礼の朝から、毎朝見上げてくださるようになった。もう何も乗っていないことを、確かめるために。
けれど、それを今、お話ししても、陛下には他人の話にしか聞こえないだろう。
「明日、思い出していただければ、わかります」
陛下は、しばらく黙っていた。
「思い出さなかったら」
「そのときは」
わたくしは、陛下を見上げた。
「もう一度、最初から、お話しいたします。何年かかっても」
陛下の耳が、燭台の灯りの下で、赤くなる。
陛下は、何か言いかけて、やめた。おやすみ、とだけ言って、戸を閉める。
戸の向こうで、足音が、しばらく動かずにいた。
◇
大祭の朝。
大広間に、宮中の皆が集まっている。天井いっぱいの燭台に、天井いっぱいの砂時計。
奥の扉が開いて、侍従長のブラント伯が、紫の布をかけた盆を捧げて入ってくる。
布が、払われた。
金の王冠。その真ん中に、青い石。
石の上に、両手に載るほどの砂時計が乗っていた。
陛下の頭の上のものと、同じ大きさ。同じ金の枠。
上の玉の砂は、もう、ほとんど残っていない。
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