第十七話 君を売らないための裏切り
明治三十六年、十一月。
有馬透が桐生征一の嘘を信じたのは、それがあまりにも優しい嘘だったからだ。
「……この先は、調べるな」
《花霞》の奥座敷で、征一は一枚の紙を差し出した。
明治二十八年二月の輸送命令書。
そこには、消えた七名の移送先として、広島の陸軍施設の名が記されていた。
「……ようやく、教えてくださるんですね」
透は微笑んだ。
征一はその笑顔を見なかった。
「これ以上、君が危険を冒す必要はない」
「それを決めるのは僕です」
「透」
「……わかっていますよ」
透は紙を畳んだ。
「あなたが、僕を心配していることくらい」
征一の指が、膝の上でわずかに震えた。
透はそれに気づいた。
けれど、その震えの意味を、まだ知らなかった。
*
翌朝、透は広島へ向かった。
列車の窓に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
征一と出会ってから、もう二年半になる。
初めは、ただの取材対象だった。
国家のために嘘をつく男。
その嘘を暴けば、記事になると思っていた。
けれど今は、違う。
あの男が眠るとき、眉間の皺が少しだけ消えることを知っている。
酒に弱いくせに、決して酔った顔を見せないことも。
そして、悪夢にうなされる夜があることも。
透は窓へ額を寄せた。
「……本当に、馬鹿な男」
それが征一のことなのか、自分のことなのか、もうわからなかった。
*
広島で透を待っていたのは、空白だった。
指定された施設に、七名の記録はない。
当時の担当者は異動し、保管簿の該当頁だけが抜き取られていた。
「……最初から、なかったことになっている」
透は呟いた。
その夜、宿へ戻ると、机の上に封書が置かれていた。
差出人はない。
中には、短い一文。
『桐生征一を信用するな』
透はしばらく、それを見つめていた。
そして、笑った。
「……遅いですよ」
もう、とっくに信用してしまっている。
*
東京へ戻った透は、真っ先に征一の官舎を訪れた。
扉を開けた征一は、透の顔を見るなり息を止めた。
「……帰ってきたのか」
「おかげさまで」
透は笑った。
「何もありませんでしたよ。あなたが教えてくださった場所には」
征一は黙った。
「……ねえ、征一さん」
透は一歩近づいた。
「あなた、僕に嘘をつきましたね」
「……」
「広島へ行かせたかったんですか。それとも、東京から遠ざけたかった?」
征一は答えなかった。
透は懐から紙を取り出した。
「これ、偽物でしょう」
征一の表情が、わずかに歪んだ。
それだけで十分だった。
「……どうして」
透の声が震えた。
「どうして、僕にだけは本当のことを言ってくれないんですか」
征一は透を見つめた。
「……君が死ぬからだ」
「何?」
「君が真実に近づけば、殺される」
透は息を呑んだ。
征一は続けた。
「黒田は、もう君を見逃さない。私が止めなければ、君は拘束されていた」
「……だから、騙した?」
「そうだ」
透は笑った。
ひどく、悲しい笑顔だった。
「……あなた、本当に何もわかってない」
*
征一が手を伸ばした。
透は避けなかった。
その指が頬に触れた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
「……透」
「触らないで」
征一の手が止まる。
「あなたは、僕を守ったつもりなんでしょう」
「……ああ」
「でも、僕が何を信じて、何を選ぶかは、全部あなたが決めた」
透は涙を堪えた。
「……それは、僕を愛しているからですか」
征一は答えられなかった。
透は目を閉じた。
「僕は、あなたの命令で生きてるわけじゃない」
沈黙が落ちた。
外では、冷たい雨が降り始めていた。
*
その夜、透は帰らなかった。
帰れなかった。
憎いと思うのに、離れられなかった。
征一が背後から抱き締めると、透は一度だけ抵抗した。
「……離して」
征一はすぐに腕を解いた。
その従順さが、かえって苦しかった。
透は振り向き、征一の胸元を掴んだ。
「……今夜だけ」
征一の瞳が揺れた。
「……透」
「今夜だけ、嘘をつかないで」
征一は何も言わず、透に口づけた。
透はその唇を受け入れた。
何度も、何度も。
まるで、明日にはもう触れられないことを知っているように。
征一の手が透の背を撫でる。
透はその肩に額を押しつけた。
「……好きです」
声が震えた。
「あなたが、どうしようもなく好きなんです」
征一は透を抱き締めた。
「……私もだ」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
だからこそ、残酷だった。
*
夜明け前。
透は眠る征一の横顔を見つめていた。
初めて、この男を愛しいと思った夜を思い出す。
国家のためなら何でも犠牲にできると信じていた男。
その男が、自分一人を守るために、国家の命令を曲げた。
それは愛だったのだろう。
けれど、同時に裏切りでもあった。
透はそっと起き上がり、服を着た。
机の上には、征一の軍服が畳まれている。
その内側から、一枚の紙が覗いていた。
『有馬透に対する監視強化。必要に応じ、拘束を許可する』
透は目を閉じた。
征一が、どれほど追い詰められていたのかようやく理解した。
それでも。
「……だからって、許せるわけじゃないでしょう」
透は紙を元に戻した。
*
翌日、透は新聞社へ戻った。
机には、新しい資料が届いていた。
明治二十八年二月の輸送記録。
そこには、広島ではない、別の移送先が記されていた。
そして、命令系統の末尾に、桐生征一の名があった。
透は長いあいだ、その名前を見つめていた。
記事にすれば、征一は終わる。
記事にしなければ、消された七名は永遠に戻らない。
透は万年筆を取った。
そして、最初の一行を書いた。
『明治二十八年二月、陸軍の輸送記録に重大な改竄の疑いあり』
書き終えた瞬間、涙が一滴、紙に落ちた。
透は慌てて拭った。
インクが滲んだ。
それでも、書き直さなかった。
愛しているから、黙ることはできなかった。
愛しているからこそ、その名を書く手が震えた。




