第十八話 君の名を、紙には書けない
明治三十七年、二月。
有馬透は、生まれて初めて、記事を書き上げたことを後悔していた。
机の上には、明朝の朝刊に掲載される原稿がある。
『陸軍輸送記録に改竄の疑惑――戦死者名簿と移送記録に不一致』
そこに桐生征一の名前はなかった。
書けなかったのではない。
書かなかった。
それが記者としての判断なのか、恋人としての未練なのか、透にはもうわからない。
「……有馬」
編集長が声をかけた。
「本当に出すんだな」
「ええ」
「軍から圧力が来るぞ」
「いつものことです」
透は笑った。
けれど、その笑みはひどく疲れていた。
「……ただ、一つだけ」
「何だ」
「僕の名前は、消さないでください」
編集長は黙って頷いた。
透は原稿を見下ろした。
消された七人の名前。
そして、紙に書かなかった、たった一人の名前。
どちらも、透の胸に深い傷を残していた。
*
翌朝、新聞が街に出た。
記事は、軍の記録改竄を疑うものだった。
具体的な人物名は伏せられていたが、輸送経路と日付、関係する部署の記述は、知る者には十分だった。
陸軍省は即座に反応した。
桐生征一は、上官の執務室へ呼び出された。
「……この記事について、説明しろ」
机の上に新聞が置かれる。
征一は背筋を伸ばした。
「私の知る範囲で、お答えします」
「有馬透とは、どういう関係だ」
一瞬、呼吸が止まった。
「……取材対象として接触を受けていました」
「それだけか」
征一は答えなかった。
上官は冷たく笑った。
「君の私的行動についても、報告が上がっている」
征一は目を伏せた。
あの夜。
透が自分の名を呼んだ声。
眠る前に、胸元を掴んだ指。
すべてが、誰かの監視下にあった。
「……私の判断に不備があったことは認めます」
「では、記事の情報源は君か」
「違います」
それだけは、即答した。
透の仕事を、自分のものにしたくなかった。
「ただし、私は彼の取材を阻止できませんでした」
上官は長い沈黙のあと、告げた。
「当面、職務から外れてもらう」
征一は敬礼した。
その手は、少しも震えなかった。
*
透がそれを知ったのは、《花霞》だった。
「……桐生さんが?」
八重は静かに頷いた。
「お客さまから聞いた話です。正式な処分までは存じませんけれど」
透は盃を置いた。
「……そうですか」
八重はしばらく彼を見つめていた。
「有馬さん」
「はい?」
「会いに行かないんですか」
透は笑った。
「……会えば、何か変わりますかね」
「それは、会ってみなければ」
透は答えなかった。
窓の外では、冷たい雨が降っていた。
*
その夜、透は征一の官舎を訪れた。
扉を開けた征一は、軍服ではなかった。
白いシャツに、黒い袴。
その姿を見た瞬間、透は胸が痛んだ。
初めてこの部屋を訪れた夜と、同じだった。
「……来ると思っていた」
征一が言う。
透は笑った。
「僕って、そんなにわかりやすいですか」
「君は、わかりやすい男だ」
「ひどいなあ」
二人は向かい合った。
けれど、どちらも近づかなかった。
「……記事を読みました?」
「ああ」
「怒っていますか」
征一は首を振った。
「君は、書くべきことを書いた」
透は目を伏せた。
「……あなたの名前は、書きませんでした」
「知っている」
「卑怯でしょう」
「いや」
征一は静かに答えた。
「君が、自分で選んだことだ」
その言葉に、透の喉が詰まった。
ずっと、聞きたかった言葉だった。
どうして、今なのだろう。
*
「……征一さん」
透は一歩近づいた。
「僕は、あなたを愛しています」
征一の表情が、わずかに歪んだ。
「……ああ」
「でも、あなたの嘘を、もう信じられない」
征一は頷いた。
「わかっている」
透は笑った。
「……本当に、嫌な男」
「君もだ」
「そうですね」
透の目から、涙が落ちた。
征一は手を伸ばしかけ、止めた。
透はその手を取った。
「……最後に、一つだけ」
「何だ」
「抱き締めてください」
征一は、透を抱き寄せた。
強く、けれど壊さないように。
透はその胸に顔を埋めた。
軍服ではない、ただの男の胸だった。
その温もりを、忘れたくなかった。
「……征一さん」
「……透」
「次に生まれるなら、あなたは何になりたいですか」
征一は少し考えた。
「……軍人ではない男に」
透は泣きながら笑った。
「僕は、新聞記者のままでいいです」
「そうか」
「だって、またあなたを見つけたいから」
征一の腕が、わずかに震えた。
透は顔を上げた。
そして、最後の口づけをした。
唇が離れたあとも、二人はしばらく動かなかった。
*
夜明け前に透は官舎を出た。
征一は見送らなかった。
見送れば、引き止めてしまうと知っていたからだ。
透は振り返らずに歩いた。
石畳は雨に濡れ、街灯の光を鈍く映している。
ふと、胸元に手を当てた。
そこには、征一から渡された小さな封筒があった。
『榊原清継殿へ』
中には、明治二十八年二月の輸送任務に関する資料が入っている。
そして、黒田宗吾の名。
征一は最後に、透へ真実の一部を託したのだった。
透は封筒を握り締めた。
「……遅いんですよ、馬鹿」
声は、雨に消えた。
*
数日後。
榊原清継のもとに、一通の封書が届いた。
差出人は、有馬透。
同封された資料には、久世千景が最後に関わった輸送任務の詳細が記されていた。
清継は、長いあいだそれを読んでいた。
そして、最後の頁で指を止める。
黒田宗吾。
その名前を、清継は知っていた。
かつて千景に、会津の出自を持ち出して圧力をかけた男。
清継は静かに目を閉じた。
まだ、九年前のことだった。
けれど、千景を失った日から、清継の時間はほとんど動いていなかった。
「……やはり、お前か」
清継は資料を畳んだ。
窓の外では梅の花が咲き始めていた。
春はもうすぐそこまで来ている。
千景は帰ってこない。
それでも、清継は初めて思った。
――死んだ者のためではなく、生きている者のために、真実を知りたい。
*
同じ頃、透は新聞社の机で新しい原稿を書いていた。
戦争が近づいている。
街は騒がしく、人々は国家の未来を語っている。
透は万年筆を走らせた。
書くべき名前はいくらでもあった。
けれど、たった一つ、どうしても、書けない名前がある。
桐生征一。
透は、その名を胸の中で呼んだ。
返事はない。
もう、二度と会わない。
それでも。
「……愛してますよ、征一さん」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
そして、透は新しい原稿を書き始めた。
――第三部・完。
真実は紙に残る。
けれど、愛した人の名前だけは、最後まで書けなかった。




