第十六話 消された一個小隊
明治三十五年、二月。
有馬透は、恋人の嘘を見抜くことほど、惨めな才能はないと思っていた。
「……また、何も知らないと?」
《花霞》の奥座敷で、透は新聞を畳んだ。
向かいに座る桐生征一は、軍服の襟を正したまま、冷めかけた酒にも手をつけない。
「その件について、私から話せることはない」
「便利ですね、その言葉。軍人さんは愛人を黙らせるときにも使うんですか」
「透」
低く名前を呼ばれただけで、胸の奥が疼いた。
腹立たしいことに、征一はそれを知っている。
「……仕事の話をしている」
「僕もですよ」
透は微笑んだ。
「だから、あなたの口から聞きたかった」
征一の指が、盃の縁に触れる。
その沈黙を、透はもう愛おしいと思えなくなり始めていた。
*
発端は、五日前に届いた一通の封書だった。
差出人のない封筒には、明治二十八年二月の輸送人員表が入っていた。
同じ日付、同じ経路。
しかし、三種類の名簿に記された人数は、それぞれ異なっていた。
十九名。二十六名。そして、三十三名。
透は三枚を重ね、窓へ透かした。
最後の七名だけ、筆跡が違う。
しかも、その七名は戦死者にも帰還者にも含まれていなかった。
「……七人の人間が、紙の上から消えている」
透は呟いた。
その中に、久世千景の名前があった。
*
透が最初に訪ねたのは、篠塚宗一郎の診療所だった。
「……七名ですか」
宗一郎は資料を見つめ、眉を寄せた。
隣では藤堂朔が、杖を壁に立てかけている。
「おい、有馬」
「はい?」
「その名簿、どこで手に入れた」
「秘密です」
「ふざけんな」
透は笑わなかった。
「教えれば、渡した人間が危険になります」
朔は舌打ちし、資料を奪うように手に取った。
やがて、ある名前の上で指が止まる。
「……久世少尉」
その声が、かすかに震えた。
「この七人は、同じ荷車に乗ってた奴らだ」
宗一郎が朔を見る。
「覚えているんですか」
「全員じゃねえ。でも、少尉が助けようとしてた負傷兵がいた」
朔は目を伏せた。
「俺が運ばれた後、あの人はまだ残ってた」
透は静かに尋ねた。
「その七人は、どこへ?」
「……知らねえ」
朔は拳を握った。
「知らねえから、ずっと気になってたんだ」
宗一郎が、そっとその手に触れる。
朔は振り払わなかった。
透は二人を見つめ、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
信じるということは、こんなにも静かなものなのだろうか。
*
その夜、透は征一の官舎を訪れた。
「……また来たのか」
「恋人の顔を見に」
征一は溜息をついた。
「君は、都合のいいときだけその言葉を使う」
「あなたは、都合の悪いときには使いませんね」
透は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
机には書類が積まれている。
その一番上に、黒田宗吾の名が見えた。
征一が素早く書類を伏せる。
透は笑った。
「……隠すのが上手になりましたね」
「仕事だ」
「僕も仕事です」
透は懐から名簿を取り出した。
「明治二十八年二月。輸送任務に従事した三十三名のうち、七名が記録から消えています」
征一の顔色が変わった。
「……それを、どこで」
「やっぱり、ご存じなんですね」
「透、その紙を渡せ」
「嫌です」
征一が立ち上がる。
透も立った。
二人の間に、机一つ分の距離があった。
「これは、ただの輸送記録じゃない」
征一の声は低かった。
「君が思っている以上に、多くの人間が関わっている」
「だから、黙れと?」
「そうではない」
「では、何です」
征一は答えなかった。
透は名簿を握り締めた。
「……ねえ、征一さん」
その呼び方に、征一の表情がわずかに揺れた。
「僕は、あなたが好きです」
征一は動かなかった。
「だからこそ、あなたの嘘が嫌なんです」
*
征一が近づいた。
透の手から名簿を取り上げることは、容易かっただろう。
けれど彼は、そうしなかった。
代わりに、透の頬へ手を伸ばした。
「……君を失いたくない」
透は目を閉じた。
その言葉を、どれほど待っていたことか。
「だったら、信じてください」
「信じている」
「違う」
透は征一の手を掴んだ。
「あなたは僕を愛している。でも、僕が何を選ぶかは信じていない」
征一の指が止まった。
透は笑った。
泣きそうなほど、綺麗に。
「……それは、愛ですか」
征一は答えられなかった。
*
夜半、透は官舎を出た。
征一は引き止めなかった。
ただ、扉の前で一度だけ、透の名を呼んだ。
「……透」
振り向くと、征一が立っていた。
軍服ではない、白いシャツ姿。
あの夜、初めて口づけたときと同じだった。
「……何です」
征一は唇を開き、閉じた。
やがて、静かに告げた。
「その名簿には、まだ続きがある」
透の息が止まった。
「七名は、死亡したのではない」
「……では?」
征一は目を伏せた。
「別の命令系統へ移された」
「誰の命令で」
長い沈黙。
そして。
「……私にも、すべてはわからない」
透は征一を見つめた。
初めて聞いた、あの男の無力さだった。
「……そうですか」
透は小さく頷いた。
「それだけでも、聞けてよかった」
征一が顔を上げる。
透は微笑んだ。
「ありがとう、征一さん」
その笑顔に、征一はひどく傷ついたような顔をした。
*
翌朝。
透は新聞社で、七名の名前を書き写していた。
その最後に、久世千景。
そして、欄外に小さく記された一文。
『移送先――記載不要』
透は筆を置いた。
国家が人間を消すとき、墓さえ必要としないらしい。
窓の外では、まだ冬の風が吹いていた。
透は新しい原稿用紙を広げた。
見出しを書く。
『消された一個小隊』
正確には、七人だった。
けれど、消されたのは七人だけではない。
彼らを待っていた家族も、帰りを信じた恋人も、名前を呼び続けた者たちも。
すべてが、記録の外へ追いやられていた。
透は筆を握り直した。
名前を書かなければ、誰も存在しなかったことにされる。
けれど、その名前を書くことで、失う人がいる。
透はまだ、その残酷な二者択一の意味を知らなかった。




