↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/6

第十六話 消された一個小隊

明治三十五年、二月。


有馬透は、恋人の嘘を見抜くことほど、惨めな才能はないと思っていた。


「……また、何も知らないと?」


《花霞》の奥座敷で、透は新聞を畳んだ。

向かいに座る桐生征一は、軍服の襟を正したまま、冷めかけた酒にも手をつけない。


「その件について、私から話せることはない」


「便利ですね、その言葉。軍人さんは愛人を黙らせるときにも使うんですか」


「透」


低く名前を呼ばれただけで、胸の奥が疼いた。

腹立たしいことに、征一はそれを知っている。


「……仕事の話をしている」


「僕もですよ」


透は微笑んだ。


「だから、あなたの口から聞きたかった」


征一の指が、盃の縁に触れる。


その沈黙を、透はもう愛おしいと思えなくなり始めていた。


*


発端は、五日前に届いた一通の封書だった。


差出人のない封筒には、明治二十八年二月の輸送人員表が入っていた。


同じ日付、同じ経路。

しかし、三種類の名簿に記された人数は、それぞれ異なっていた。


十九名。二十六名。そして、三十三名。


透は三枚を重ね、窓へ透かした。

最後の七名だけ、筆跡が違う。


しかも、その七名は戦死者にも帰還者にも含まれていなかった。


「……七人の人間が、紙の上から消えている」


透は呟いた。

その中に、久世千景の名前があった。


*


透が最初に訪ねたのは、篠塚宗一郎の診療所だった。


「……七名ですか」


宗一郎は資料を見つめ、眉を寄せた。

隣では藤堂朔が、杖を壁に立てかけている。


「おい、有馬」


「はい?」


「その名簿、どこで手に入れた」


「秘密です」


「ふざけんな」


透は笑わなかった。


「教えれば、渡した人間が危険になります」


朔は舌打ちし、資料を奪うように手に取った。

やがて、ある名前の上で指が止まる。


「……久世少尉」


その声が、かすかに震えた。


「この七人は、同じ荷車に乗ってた奴らだ」


宗一郎が朔を見る。


「覚えているんですか」


「全員じゃねえ。でも、少尉が助けようとしてた負傷兵がいた」


朔は目を伏せた。


「俺が運ばれた後、あの人はまだ残ってた」


透は静かに尋ねた。


「その七人は、どこへ?」


「……知らねえ」


朔は拳を握った。


「知らねえから、ずっと気になってたんだ」


宗一郎が、そっとその手に触れる。

朔は振り払わなかった。


透は二人を見つめ、胸の奥に小さな痛みを覚えた。

信じるということは、こんなにも静かなものなのだろうか。


*


その夜、透は征一の官舎を訪れた。


「……また来たのか」


「恋人の顔を見に」


征一は溜息をついた。


「君は、都合のいいときだけその言葉を使う」


「あなたは、都合の悪いときには使いませんね」


透は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。

机には書類が積まれている。


その一番上に、黒田宗吾の名が見えた。


征一が素早く書類を伏せる。

透は笑った。


「……隠すのが上手になりましたね」


「仕事だ」


「僕も仕事です」


透は懐から名簿を取り出した。


「明治二十八年二月。輸送任務に従事した三十三名のうち、七名が記録から消えています」


征一の顔色が変わった。


「……それを、どこで」


「やっぱり、ご存じなんですね」


「透、その紙を渡せ」


「嫌です」


征一が立ち上がる。

透も立った。


二人の間に、机一つ分の距離があった。


「これは、ただの輸送記録じゃない」


征一の声は低かった。


「君が思っている以上に、多くの人間が関わっている」


「だから、黙れと?」


「そうではない」


「では、何です」


征一は答えなかった。

透は名簿を握り締めた。


「……ねえ、征一さん」


その呼び方に、征一の表情がわずかに揺れた。


「僕は、あなたが好きです」


征一は動かなかった。


「だからこそ、あなたの嘘が嫌なんです」


*


征一が近づいた。


透の手から名簿を取り上げることは、容易かっただろう。

けれど彼は、そうしなかった。


代わりに、透の頬へ手を伸ばした。


「……君を失いたくない」


透は目を閉じた。

その言葉を、どれほど待っていたことか。


「だったら、信じてください」


「信じている」


「違う」


透は征一の手を掴んだ。


「あなたは僕を愛している。でも、僕が何を選ぶかは信じていない」


征一の指が止まった。

透は笑った。


泣きそうなほど、綺麗に。


「……それは、愛ですか」


征一は答えられなかった。


*


夜半、透は官舎を出た。


征一は引き止めなかった。

ただ、扉の前で一度だけ、透の名を呼んだ。


「……透」


振り向くと、征一が立っていた。


軍服ではない、白いシャツ姿。

あの夜、初めて口づけたときと同じだった。


「……何です」


征一は唇を開き、閉じた。

やがて、静かに告げた。


「その名簿には、まだ続きがある」


透の息が止まった。


「七名は、死亡したのではない」


「……では?」


征一は目を伏せた。


「別の命令系統へ移された」


「誰の命令で」


長い沈黙。


そして。


「……私にも、すべてはわからない」


透は征一を見つめた。

初めて聞いた、あの男の無力さだった。


「……そうですか」


透は小さく頷いた。


「それだけでも、聞けてよかった」


征一が顔を上げる。

透は微笑んだ。


「ありがとう、征一さん」


その笑顔に、征一はひどく傷ついたような顔をした。


*


翌朝。

透は新聞社で、七名の名前を書き写していた。


その最後に、久世千景。

そして、欄外に小さく記された一文。


『移送先――記載不要』


透は筆を置いた。

国家が人間を消すとき、墓さえ必要としないらしい。


窓の外では、まだ冬の風が吹いていた。

透は新しい原稿用紙を広げた。


見出しを書く。


『消された一個小隊』


正確には、七人だった。

けれど、消されたのは七人だけではない。


彼らを待っていた家族も、帰りを信じた恋人も、名前を呼び続けた者たちも。


すべてが、記録の外へ追いやられていた。


透は筆を握り直した。


名前を書かなければ、誰も存在しなかったことにされる。

けれど、その名前を書くことで、失う人がいる。


透はまだ、その残酷な二者択一の意味を知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。