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第十五話 国家という名の恋敵

明治三十四年、六月。


桐生征一は、命令に従うことと、正しいことをするのは同じだと信じていた。

少なくとも、有馬透という男に出会うまでは。


「……また、破棄されたのですか」


副官が机上の紙片を見つめた。

征一は顔を上げずに答える。


「不要な書類だ」


「有馬透の監視命令が、三通続けて?」


「同じ命令を何度も出す方が悪い」


「……承知しました」


副官はそれ以上追及しなかった。

征一は、破り損ねた紙片に目を落とす。


『対象が機密に接近した場合、身柄の確保を検討すること』


紙の端には、黒田宗吾の印があった。

征一はそれを握り潰した。


*


その頃、透は《花霞》で新聞を広げていた。


「有馬さん。最近、ずいぶん楽しそうですね」


八重が茶を置く。


「そう見えます?」


「ええ。恋でもなさっているような」


透は茶を吹きかけた。


「……女将さん、随分と物騒なことを」


「恋は物騒なものですよ」


「軍の機密より?」


「時には」


八重は微笑み、奥の座敷へ戻っていった。


透は新聞に視線を戻す。

だが、文字が頭に入ってこない。


昨夜、征一の官舎で見た、軍服を脱いだ姿が脳裏に浮かぶ。


襟元の釦を留めたとき、あの男は逃げなかった。

触れた指先の熱を、透はまだ覚えていた。


「……困ったな」


独り言が、思いのほか甘く響いた。


*


その夜、透は征一に呼び出された。

場所は軍人会館の裏手にある、小さな書斎だった。


「……有馬君」


征一は机の前に立っていた。

軍服の襟元はきっちり留められている。


「今後、私に近づくな」


透は笑った。


「おや。とうとう嫌われました?」


「君の取材は危険だ」


「それは何度も聞きました」


「今回は違う」


征一は一通の封書を差し出した。

透が開くと、中には新聞社の住所と、彼の行動記録が記されていた。


「……これは?」


「君を監視している者は、私だけではない」


透の笑みが消えた。


「黒田ですか」


征一は答えなかった。

その沈黙が、何より明確な返事だった。


「……なるほど。だから、僕を遠ざけようと?」


「君が死ねば、記事は書けない」


「随分と親切ですね」


「親切ではない」


征一は透を見つめた。


「命令だ」


透は封書を机に置いた。


「あなたは、本当にそればかりですね」


「何?」


「命令。国家。義務。あなた自身は、どこにいるんです?」


征一の眉が動いた。


「私自身など、必要ない」


透は笑わなかった。


「……そんなこと、誰が決めたんです」


征一は答えなかった。


*


沈黙のなか、透が一歩近づいた。


「桐生さん」


「帰れ」


「嫌です」


「有馬」


「名前で呼んでください」


征一の息が止まった。

透はさらに近づいた。


「君、じゃなくて」


「……透」


低い声だった。


それだけで、胸の奥が熱くなった。

透は自分でも驚いた。


国家の秘密を暴くことより、この男に名前を呼ばれることの方が、こんなにも嬉しいなんて。


「……もう一度」


征一は透の肩を掴んだ。


「……透」


次の瞬間、透は征一の唇に触れていた。


短い口づけだった。


けれど、離れようとした透の腰を、征一の腕が引き寄せた。


「……桐生さん?」


「征一だ」


透は目を見開いた。

征一は苦しそうに眉を寄せた。


「今だけは、そう呼べ」


透は笑った。


「……征一さん」


その名を口にした途端、征一はもう一度、透に口づけた。


今度は深く、逃げ道を塞ぐように。


透の背が机に触れ、書類が床へ散った。

征一の指が頬をなぞり、襟元へ滑る。


透はその手を掴んだ。


「……待って」


征一が動きを止めた。


「嫌か」


「違います」


透は息を整え、笑った。


「あなたが、そんな顔をするなんて思わなかった」


征一は顔を背けた。


「……どんな顔だ」


「国を裏切りそうな顔」


征一の表情が強張った。

透は、その変化を見逃さなかった。


「……冗談です」


だが、征一は笑わなかった。


*


その夜、二人は書斎を出なかった。


窓の外では、夏の雨が静かに降っていた。

征一は透の髪に指を通し、額に口づけた。

透はその胸に頬を寄せる。


「……ねえ、征一さん」


「何だ」


「あなたは、僕に嘘をつきますか」


征一はしばらく黙っていた。


「……必要なら」


透は目を閉じた。


「そうですか」


「君を守るためなら、私は嘘をつく」


透は笑った。

けれど、その笑みは少しだけ寂しかった。


「……僕は、あなたの嘘を暴くために生きているんですよ」


「知っている」


「それでも?」


征一は透を抱き寄せた。


「……それでも、今夜は離したくない」


透は何も言わなかった。

ただ、征一の胸元を掴んだ。


その夜、二人は互いの体温を確かめ合った。

軍服も、新聞も、命令もない場所で。


けれど、夜明けが来れば、またそれぞれの立場へ戻らなければならない。


*


翌朝。

征一が目を覚ますと、透はすでに服を着ていた。


「……帰るのか」


「新聞社に行かないと」


透は笑った。


「国家の敵にも、締切はあるんですよ」


征一は起き上がり、透の手首を掴んだ。


「……昨日のことは」


「忘れません」


透は即答した。


「でも、記事にも書きません」


征一の指が緩んだ。

透はその手に口づけた。


「あなたの名前だけは、僕のものにしておきたいので」


そう言って、部屋を出ていった。


征一は、しばらく扉を見つめていた。

やがて机に向かい、引き出しを開ける。

そこには、昨夜届いた新しい命令書があった。


『有馬透の取材活動を阻止せよ。必要な場合、身柄を拘束すること』


そして、その下に記された一文。


『桐生征一、対象への私的接触を禁ず』


征一は目を閉じた。


誰かが、すでに知っている。

二人の関係を。


征一は命令書を破らなかった。

ただ、静かに畳み、軍服の内側へしまった。


国家を裏切る覚悟は、まだない。

けれど、透を失う覚悟も、もうできなかった。

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