第十四話 秘密は口づけより甘い
明治三十四年、五月。
桐生征一には、嫌いなものが三つあった。
無責任な噂話。職務に私情を持ち込む人間。そして、有馬透。
最後の一つについては、本人も少々困惑していた。
「桐生殿。昨夜も例の記者と?」
部下の問いに、征一は書類から目を上げなかった。
「取材上の接触だ」
「三日続けてですか」
「監視対象だからな」
「先方は『逢引きの約束がある』と」
万年筆の先が、紙の上で止まった。
「……誰がそんなことを言った」
「有馬記者です」
「次に会ったら訂正させろ」
「本日もお会いになるのでは?」
征一は黙って書類を閉じた。
まったく、厄介な男であった。
*
透が指定した待ち合わせ場所は、《花霞》だった。
「おや、桐生さん。お早いですね」
「君が遅い」
「恋人を待つ男の台詞みたいだ」
「帰るぞ」
「冗談ですって」
透は笑いながら向かいに座った。
薄い鼠色の洋装。襟元は少し崩れ、長い指には煙草の匂いが残っている。
育ちのよさを隠そうとして、隠しきれていない男だった。
「で、今日は何を聞きたい」
「明治二十八年二月、陸軍の輸送任務について」
征一の表情は変わらなかった。
「答えられん」
「でしょうね」
透は盃を傾けた。
「では、久世千景少尉について」
「知らん」
「黒田宗吾について」
「……」
ほんの一瞬、征一の指が、膝の上で止まった。
透は見逃さなかった。
「なるほど。そちらはご存じで」
「有馬君」
「はい?」
「君は、知るべきでないことまで知ろうとする」
透は微笑んだ。
「新聞記者ですから」
「命を失うぞ」
「それは脅しですか。それとも心配?」
征一は答えなかった。
透は少しだけ目を細めた。
「……あなた、嘘が下手ですね」
「何?」
「知らないことには即答する。でも、隠したいことには沈黙する」
征一は透を見つめた。
その眼差しは冷たく、どこか疲れていた。
「君は、人の沈黙を暴くことが正義だと思っているのか」
透は盃を置いた。
「いいえ」
その声から、軽薄さが消えた。
「沈黙させられた人間の代わりに、誰かが喋らなきゃいけないと思っているだけです」
*
店を出ると、細い雨が降っていた。
透は傘を持っていなかった。
「……君は天気予報も読まんのか」
「新聞記者のくせに、ですね」
征一は溜息をつき、自分の傘を差し出した。
「使え」
「あなたは?」
「馬車を呼ぶ」
「では、ご一緒に」
「断る」
「つれないなあ」
透は笑い、征一の隣へ入り込んだ。
肩が触れる。
征一はわずかに身を引いたが、透は気づかないふりをした。
「……近い」
「傘が小さいんです」
「君が寄りすぎだ」
「では、離れましょうか」
透が一歩引くと、肩に雨が落ちた。
征一は無言で傘を傾けた。
透はそれを見上げた。
「……優しいんですね」
「濡れた人間を放置する趣味はない」
「国家のためなら、人を死なせる覚悟はあるのに?」
征一の足が止まった。
透は笑わなかった。
「……失礼。少し意地悪でした」
「少しではない」
「おや。怒りました?」
「君は、私を怒らせたいのか」
「いいえ」
透は、雨に濡れた征一の横顔を見つめた。
「あなたが何を考えているのか、知りたいだけです」
征一は答えなかった。
だが、傘を持つ手は、最後まで透の側へ傾いていた。
*
数日後、透は異母兄の朝倉直臣に呼び出された。
華族の屋敷は、相変わらず息苦しいほど静かだった。
「軍のことを嗅ぎ回っているそうだな」
直臣は紅茶を置いた。
「お兄様のお耳は早いですね」
「その呼び方はやめろ」
「では、朝倉様?」
「透」
透は笑みを消した。
直臣は一通の封書を差し出した。
「桐生征一には近づくな」
「……理由を伺っても?」
「彼は、お前が思っているより深いところにいる」
透は封書を開いた。
中には、古い軍の人事記録があった。
桐生征一。
明治二十八年、陸軍省内の特別調査に関与。
そして、その調査の担当者として記された名前。
黒田宗吾。
「……なるほど」
透は小さく呟いた。
「これは、面白くなってきた」
直臣は険しい顔をした。
「面白がるな。お前は昔からそうだ。危険なものほど、手を伸ばす」
透は封書を懐にしまった。
「危険だからこそ、誰かが触れなきゃいけないでしょう」
「……桐生は、お前を利用するぞ」
透は笑った。
「それなら、お互い様です」
*
その夜。
透は桐生征一の官舎を訪れた。
「……何の用だ」
扉を開けた征一は、軍服ではなく白いシャツを着ていた。
襟元の釦が二つ外れている。
透は一瞬、言葉を忘れた。
「……有馬君?」
「いえ。軍服を脱ぐと、ずいぶん普通の男なんだなと思って」
「帰れ」
「冗談です」
透は笑い、封書を取り出した。
「あなた、黒田宗吾と何をしていたんです?」
征一の顔から、表情が消えた。
「……どこで、それを」
「秘密です」
透は一歩近づいた。
「ねえ、桐生さん。僕に教えてくださいよ」
「何を」
「あなたが、何を守ろうとしているのか」
征一は透の手首を掴んだ。
今度は、強く。
「……君は、何も知らない」
「だから、知りたいんです」
「知れば、戻れなくなる」
透は笑った。
「戻る場所なんて、最初からありませんよ」
征一の指が緩んだ。
透はその手を振りほどかなかった。
「……あなたは?」
征一が眉をひそめる。
「あなたには、戻る場所があるんですか」
長い沈黙。
やがて征一は、低く答えた。
「……ない」
その一言が、透の胸に奇妙な痛みを残した。
透は無意識に、征一の襟元へ手を伸ばしていた。
乱れた釦を留める。
ただ、それだけの仕草だった。
征一は動かなかった。
二人の距離は、息が触れるほど近かった。
「……有馬」
初めて、君ではなく名前だけで呼ばれた。
透は顔を上げた。
「はい」
征一の視線が、透の唇に落ちた。
ほんの一瞬。
けれど、透は確かに見た。
この男が、国家でも命令でもなく、自分自身の欲望に迷う瞬間を。
「……帰れ」
征一は、かすれた声で言った。
透は微笑んだ。
「ええ。今夜は」
そして、扉を出る直前に振り返った。
「桐生さん」
「何だ」
「あなたの秘密、いつか全部いただきますから」
征一は答えなかった。
扉が閉まる。
その向こうで、征一は長いあいだ動けずにいた。
机の上には、透の知らない命令書がある。
『有馬透の取材活動を阻止せよ』
征一はそれを手に取り、ゆっくり破った。
破ったところで、命令そのものが消えるわけではない。
それでも。
「……厄介な男だ」
今度の呟きには、怒りよりも、ずっと危険な感情が混じっていた。
秘密は、口づけより甘い。
けれど、一度その味を知った者は、もう何も知らなかった頃には戻れない。




