↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

第十四話 秘密は口づけより甘い

明治三十四年、五月。


桐生征一には、嫌いなものが三つあった。


無責任な噂話。職務に私情を持ち込む人間。そして、有馬透。


最後の一つについては、本人も少々困惑していた。


「桐生殿。昨夜も例の記者と?」


部下の問いに、征一は書類から目を上げなかった。


「取材上の接触だ」


「三日続けてですか」


「監視対象だからな」


「先方は『逢引きの約束がある』と」


万年筆の先が、紙の上で止まった。


「……誰がそんなことを言った」


「有馬記者です」


「次に会ったら訂正させろ」


「本日もお会いになるのでは?」


征一は黙って書類を閉じた。

まったく、厄介な男であった。


*


透が指定した待ち合わせ場所は、《花霞》だった。


「おや、桐生さん。お早いですね」


「君が遅い」


「恋人を待つ男の台詞みたいだ」


「帰るぞ」


「冗談ですって」


透は笑いながら向かいに座った。


薄い鼠色の洋装。襟元は少し崩れ、長い指には煙草の匂いが残っている。


育ちのよさを隠そうとして、隠しきれていない男だった。


「で、今日は何を聞きたい」


「明治二十八年二月、陸軍の輸送任務について」


征一の表情は変わらなかった。


「答えられん」


「でしょうね」


透は盃を傾けた。


「では、久世千景少尉について」


「知らん」


「黒田宗吾について」


「……」


ほんの一瞬、征一の指が、膝の上で止まった。

透は見逃さなかった。


「なるほど。そちらはご存じで」


「有馬君」


「はい?」


「君は、知るべきでないことまで知ろうとする」


透は微笑んだ。


「新聞記者ですから」


「命を失うぞ」


「それは脅しですか。それとも心配?」


征一は答えなかった。

透は少しだけ目を細めた。


「……あなた、嘘が下手ですね」


「何?」


「知らないことには即答する。でも、隠したいことには沈黙する」


征一は透を見つめた。

その眼差しは冷たく、どこか疲れていた。


「君は、人の沈黙を暴くことが正義だと思っているのか」


透は盃を置いた。


「いいえ」


その声から、軽薄さが消えた。


「沈黙させられた人間の代わりに、誰かが喋らなきゃいけないと思っているだけです」


*


店を出ると、細い雨が降っていた。

透は傘を持っていなかった。


「……君は天気予報も読まんのか」


「新聞記者のくせに、ですね」


征一は溜息をつき、自分の傘を差し出した。


「使え」


「あなたは?」


「馬車を呼ぶ」


「では、ご一緒に」


「断る」


「つれないなあ」


透は笑い、征一の隣へ入り込んだ。

肩が触れる。


征一はわずかに身を引いたが、透は気づかないふりをした。


「……近い」


「傘が小さいんです」


「君が寄りすぎだ」


「では、離れましょうか」


透が一歩引くと、肩に雨が落ちた。

征一は無言で傘を傾けた。

透はそれを見上げた。


「……優しいんですね」


「濡れた人間を放置する趣味はない」


「国家のためなら、人を死なせる覚悟はあるのに?」


征一の足が止まった。

透は笑わなかった。


「……失礼。少し意地悪でした」


「少しではない」


「おや。怒りました?」


「君は、私を怒らせたいのか」


「いいえ」


透は、雨に濡れた征一の横顔を見つめた。


「あなたが何を考えているのか、知りたいだけです」


征一は答えなかった。

だが、傘を持つ手は、最後まで透の側へ傾いていた。


*


数日後、透は異母兄の朝倉直臣に呼び出された。

華族の屋敷は、相変わらず息苦しいほど静かだった。


「軍のことを嗅ぎ回っているそうだな」


直臣は紅茶を置いた。


「お兄様のお耳は早いですね」


「その呼び方はやめろ」


「では、朝倉様?」


「透」


透は笑みを消した。


直臣は一通の封書を差し出した。


「桐生征一には近づくな」


「……理由を伺っても?」


「彼は、お前が思っているより深いところにいる」


透は封書を開いた。

中には、古い軍の人事記録があった。


桐生征一。

明治二十八年、陸軍省内の特別調査に関与。


そして、その調査の担当者として記された名前。

黒田宗吾。


「……なるほど」


透は小さく呟いた。


「これは、面白くなってきた」


直臣は険しい顔をした。


「面白がるな。お前は昔からそうだ。危険なものほど、手を伸ばす」


透は封書を懐にしまった。


「危険だからこそ、誰かが触れなきゃいけないでしょう」


「……桐生は、お前を利用するぞ」


透は笑った。


「それなら、お互い様です」


*


その夜。

透は桐生征一の官舎を訪れた。


「……何の用だ」


扉を開けた征一は、軍服ではなく白いシャツを着ていた。

襟元の釦が二つ外れている。


透は一瞬、言葉を忘れた。


「……有馬君?」


「いえ。軍服を脱ぐと、ずいぶん普通の男なんだなと思って」


「帰れ」


「冗談です」


透は笑い、封書を取り出した。


「あなた、黒田宗吾と何をしていたんです?」


征一の顔から、表情が消えた。


「……どこで、それを」


「秘密です」


透は一歩近づいた。


「ねえ、桐生さん。僕に教えてくださいよ」


「何を」


「あなたが、何を守ろうとしているのか」


征一は透の手首を掴んだ。

今度は、強く。


「……君は、何も知らない」


「だから、知りたいんです」


「知れば、戻れなくなる」


透は笑った。


「戻る場所なんて、最初からありませんよ」


征一の指が緩んだ。

透はその手を振りほどかなかった。


「……あなたは?」


征一が眉をひそめる。


「あなたには、戻る場所があるんですか」


長い沈黙。

やがて征一は、低く答えた。


「……ない」


その一言が、透の胸に奇妙な痛みを残した。


透は無意識に、征一の襟元へ手を伸ばしていた。

乱れた釦を留める。

ただ、それだけの仕草だった。


征一は動かなかった。

二人の距離は、息が触れるほど近かった。


「……有馬」


初めて、君ではなく名前だけで呼ばれた。

透は顔を上げた。


「はい」


征一の視線が、透の唇に落ちた。


ほんの一瞬。

けれど、透は確かに見た。


この男が、国家でも命令でもなく、自分自身の欲望に迷う瞬間を。


「……帰れ」


征一は、かすれた声で言った。

透は微笑んだ。


「ええ。今夜は」


そして、扉を出る直前に振り返った。


「桐生さん」


「何だ」


「あなたの秘密、いつか全部いただきますから」


征一は答えなかった。

扉が閉まる。


その向こうで、征一は長いあいだ動けずにいた。

机の上には、透の知らない命令書がある。


『有馬透の取材活動を阻止せよ』


征一はそれを手に取り、ゆっくり破った。


破ったところで、命令そのものが消えるわけではない。

それでも。


「……厄介な男だ」


今度の呟きには、怒りよりも、ずっと危険な感情が混じっていた。


秘密は、口づけより甘い。


けれど、一度その味を知った者は、もう何も知らなかった頃には戻れない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。