第十三話 嘘を書く男、嘘を隠す男
明治三十四年、四月。
有馬透は、人間には三種類の嘘があると思っていた。
自分を守る嘘。他人を守る嘘。そして、誰を守っているのかさえ忘れた嘘。
最後のものが、いちばん始末に悪い。
「……それで、軍の記録が三通りあると?」
東京・神田の新聞社。机に積まれた資料をめくりながら、透は煙草を唇に挟んだ。
向かいに座る編集長が、苦虫を噛み潰した顔をする。
「有馬。お前、軍に喧嘩を売るつもりか」
「まさか。喧嘩なら相手を選びますよ。勝てそうな相手を」
「なら、やめろ」
「残念。もう選んじゃいました」
透は笑った。
二十七歳。整った顔立ちに、人を食ったような微笑。
仕立てのよい洋服を着崩し、誰に対しても物怖じしない。
その軽薄さが、彼の武器だった。
人は、冗談ばかり言う男の前では、案外簡単に口を滑らせる。
「五年前の戦死者名簿に、妙な名前があるんです」
透は一枚の紙を示した。
久世千景。
明治二十八年二月十七日、戦死。
ところが別の資料には、翌十八日に身元不詳の負傷者が後送された記録がある。
そして、その負傷者を扱った軍医は、戦死の確認を否定していた。
「死んだ男が翌日に歩いていたなら、幽霊記事で一面が取れますね」
「笑い事じゃない!」
「ええ。だから調べるんです」
透の笑みが、わずかに消えた。
「死人は訂正記事を出せませんから」
*
その日の夕刻、透は料理屋《花霞》を訪れた。
女将の宮坂八重は、顔を見るなり眉を上げた。
「また面倒なものを持ち込んだんですか」
「ひどいなあ。今日は純粋に夕飯ですよ」
「有馬さんが純粋だったことなんて、ありましたかしら」
「生まれた瞬間くらいは」
八重は呆れたように笑い、奥の席へ案内した。
そこには先客がいた。
杖を傍らに置いた青年と、穏やかな顔立ちの男。
藤堂朔と篠塚宗一郎だった。
「……あんたが有馬か」
朔が不機嫌そうに言う。
「おや。噂の美男子?」
「誰がそんな噂を」
「僕が今、作りました」
朔の眉間に皺が寄る。
宗一郎が小さく笑った。
「有馬さん。お話は伺っています」
「こちらこそ、篠塚先生。死人を診ていないと証言した、勇敢な軍医殿ですね」
その瞬間、宗一郎の笑みが薄れた。
「……その言い方は、少々困ります」
「失礼。褒めたつもりでした」
透は椅子に腰を下ろし、声を落とした。
「ただ、僕が知りたいのは死因じゃない。誰が、あの男を死んだことにしたのかです」
朔の指が杖を強く握った。
宗一郎はその手に一度だけ視線を向け、代わりに答えた。
「私たちが話せることには、限りがあります」
「承知しています」
透は頷いた。
「話したくないことまで奪うつもりはありません」
その言葉に、朔が初めて透を見た。
透は笑っていたが、その眼差しだけは笑っていなかった。
*
二日後。
透は陸軍省の門前で、一人の将校と出会った。
正確には、待ち伏せされていた。
「有馬透君だな」
低く、よく通る声。
振り向いた先に立っていたのは、長身の男だった。
隙なく整えられた軍服。鋭い目元。無駄のない立ち姿。
桐生征一。
三十四歳。薩摩系の軍人家系に生まれ、若くして将校となった男。
「これはこれは。軍のお偉い方が、新聞記者に何の御用で?」
「君の取材について、確認したいことがある」
「僕の恋愛遍歴なら、少々長くなりますが」
「興味はない」
「残念。面白いのに」
征一は表情を変えなかった。
「久世千景という名を、どこで知った」
透の笑顔が、ほんの一瞬止まった。
なるほど。
こちらが尋ねる前に、その名前を出してくる。
「……さて。新聞記者には情報源を守る義務がありまして」
「国家機密に関わる可能性がある」
「死んだ少尉の名前が?」
征一の瞳が細くなる。
透は、その反応を見逃さなかった。
「妙ですね。僕はまだ、彼が何をしたかなんて一言も申し上げていない」
「君は危険な男だな」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「それも、よく言われます」
風が吹いた。
桜の花弁が一枚、征一の肩に落ちる。
透は何気なく手を伸ばした。
征一がその手首を掴んだ。
「……何のつもりだ」
「花がついていたので」
「触れる必要はない」
「軍人さんは、桜にまで命令するんですね」
征一は手を離した。
その指先が、ほんのわずかに強張っていた。
透は気づかないふりをした。
*
その夜、征一は執務室で報告書を読んでいた。
机には、有馬透の身上調査が置かれている。
華族・朝倉家の庶子。
家名を捨て、新聞記者となる。
軍の輸送記録に関心を示し、関係者へ接触。
監視対象。
征一は最後の一行に目を留めた。
『必要に応じ、取材活動を阻止すること』
「……面倒な男だ」
そう呟きながら、昼間の笑顔を思い出していた。
人をからかうような口調。
けれど、久世千景の名を聞いた瞬間だけ、あの男の目には怒りがあった。
軽薄な男ではない。
軽薄に振る舞うことで、何かを守っている男だ。
征一は書類を閉じた。
その下には、古い輸送命令書の写しがあった。
明治二十八年二月。
担当者の欄に記された名前。黒田宗吾。
征一はしばらくそれを見つめ、やがて引き出しにしまった。
*
同じ頃、透は《花霞》の二階で原稿を書いていた。
『軍の戦死記録に疑義あり』
そこまで書いて、筆を止める。
脳裏に浮かぶのは、あの将校の顔だった。
「……桐生征一、ね」
国家を守るためなら、人を黙らせることも厭わない男。
だが、あの男は嘘をつくとき、目を逸らさなかった。
むしろ相手を真っ直ぐに見つめる。
それが、妙に気に入らなかった。
透は原稿用紙を裏返し、別の紙に名前を書いた。
『桐生征一』
そして、その下に小さく添える。
『この男は、何を隠している?』
窓の外では、春の雨が降り始めていた。
透は笑った。
「……さて。どちらが先に、相手の嘘を暴くかな」
まだ知らなかった。
いつか自分が、この男の名前だけは、どうしても紙に書けなくなることを。
――第三部、開幕。




