↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

第十三話 嘘を書く男、嘘を隠す男

明治三十四年、四月。


有馬透は、人間には三種類の嘘があると思っていた。


自分を守る嘘。他人を守る嘘。そして、誰を守っているのかさえ忘れた嘘。


最後のものが、いちばん始末に悪い。


「……それで、軍の記録が三通りあると?」


東京・神田の新聞社。机に積まれた資料をめくりながら、透は煙草を唇に挟んだ。

向かいに座る編集長が、苦虫を噛み潰した顔をする。


「有馬。お前、軍に喧嘩を売るつもりか」


「まさか。喧嘩なら相手を選びますよ。勝てそうな相手を」


「なら、やめろ」


「残念。もう選んじゃいました」


透は笑った。


二十七歳。整った顔立ちに、人を食ったような微笑。

仕立てのよい洋服を着崩し、誰に対しても物怖じしない。

その軽薄さが、彼の武器だった。


人は、冗談ばかり言う男の前では、案外簡単に口を滑らせる。


「五年前の戦死者名簿に、妙な名前があるんです」


透は一枚の紙を示した。


久世千景。

明治二十八年二月十七日、戦死。


ところが別の資料には、翌十八日に身元不詳の負傷者が後送された記録がある。


そして、その負傷者を扱った軍医は、戦死の確認を否定していた。


「死んだ男が翌日に歩いていたなら、幽霊記事で一面が取れますね」


「笑い事じゃない!」


「ええ。だから調べるんです」


透の笑みが、わずかに消えた。


「死人は訂正記事を出せませんから」


*


その日の夕刻、透は料理屋《花霞》を訪れた。

女将の宮坂八重は、顔を見るなり眉を上げた。


「また面倒なものを持ち込んだんですか」


「ひどいなあ。今日は純粋に夕飯ですよ」


「有馬さんが純粋だったことなんて、ありましたかしら」


「生まれた瞬間くらいは」


八重は呆れたように笑い、奥の席へ案内した。


そこには先客がいた。

杖を傍らに置いた青年と、穏やかな顔立ちの男。


藤堂朔と篠塚宗一郎だった。


「……あんたが有馬か」


朔が不機嫌そうに言う。


「おや。噂の美男子?」


「誰がそんな噂を」


「僕が今、作りました」


朔の眉間に皺が寄る。

宗一郎が小さく笑った。


「有馬さん。お話は伺っています」


「こちらこそ、篠塚先生。死人を診ていないと証言した、勇敢な軍医殿ですね」


その瞬間、宗一郎の笑みが薄れた。


「……その言い方は、少々困ります」


「失礼。褒めたつもりでした」


透は椅子に腰を下ろし、声を落とした。


「ただ、僕が知りたいのは死因じゃない。誰が、あの男を死んだことにしたのかです」


朔の指が杖を強く握った。

宗一郎はその手に一度だけ視線を向け、代わりに答えた。


「私たちが話せることには、限りがあります」


「承知しています」


透は頷いた。


「話したくないことまで奪うつもりはありません」


その言葉に、朔が初めて透を見た。

透は笑っていたが、その眼差しだけは笑っていなかった。


*


二日後。

透は陸軍省の門前で、一人の将校と出会った。


正確には、待ち伏せされていた。


「有馬透君だな」


低く、よく通る声。

振り向いた先に立っていたのは、長身の男だった。


隙なく整えられた軍服。鋭い目元。無駄のない立ち姿。


桐生征一。

三十四歳。薩摩系の軍人家系に生まれ、若くして将校となった男。


「これはこれは。軍のお偉い方が、新聞記者に何の御用で?」


「君の取材について、確認したいことがある」


「僕の恋愛遍歴なら、少々長くなりますが」


「興味はない」


「残念。面白いのに」


征一は表情を変えなかった。


「久世千景という名を、どこで知った」


透の笑顔が、ほんの一瞬止まった。


なるほど。

こちらが尋ねる前に、その名前を出してくる。


「……さて。新聞記者には情報源を守る義務がありまして」


「国家機密に関わる可能性がある」


「死んだ少尉の名前が?」


征一の瞳が細くなる。

透は、その反応を見逃さなかった。


「妙ですね。僕はまだ、彼が何をしたかなんて一言も申し上げていない」


「君は危険な男だな」


「よく言われます」


「褒めてはいない」


「それも、よく言われます」


風が吹いた。


桜の花弁が一枚、征一の肩に落ちる。


透は何気なく手を伸ばした。


征一がその手首を掴んだ。


「……何のつもりだ」


「花がついていたので」


「触れる必要はない」


「軍人さんは、桜にまで命令するんですね」


征一は手を離した。

その指先が、ほんのわずかに強張っていた。


透は気づかないふりをした。


*


その夜、征一は執務室で報告書を読んでいた。


机には、有馬透の身上調査が置かれている。


華族・朝倉家の庶子。

家名を捨て、新聞記者となる。

軍の輸送記録に関心を示し、関係者へ接触。

監視対象。


征一は最後の一行に目を留めた。


『必要に応じ、取材活動を阻止すること』


「……面倒な男だ」


そう呟きながら、昼間の笑顔を思い出していた。


人をからかうような口調。

けれど、久世千景の名を聞いた瞬間だけ、あの男の目には怒りがあった。


軽薄な男ではない。

軽薄に振る舞うことで、何かを守っている男だ。


征一は書類を閉じた。

その下には、古い輸送命令書の写しがあった。


明治二十八年二月。

担当者の欄に記された名前。黒田宗吾。


征一はしばらくそれを見つめ、やがて引き出しにしまった。


*


同じ頃、透は《花霞》の二階で原稿を書いていた。


『軍の戦死記録に疑義あり』


そこまで書いて、筆を止める。

脳裏に浮かぶのは、あの将校の顔だった。


「……桐生征一、ね」


国家を守るためなら、人を黙らせることも厭わない男。


だが、あの男は嘘をつくとき、目を逸らさなかった。

むしろ相手を真っ直ぐに見つめる。

それが、妙に気に入らなかった。


透は原稿用紙を裏返し、別の紙に名前を書いた。


『桐生征一』


そして、その下に小さく添える。


『この男は、何を隠している?』


窓の外では、春の雨が降り始めていた。

透は笑った。


「……さて。どちらが先に、相手の嘘を暴くかな」


まだ知らなかった。


いつか自分が、この男の名前だけは、どうしても紙に書けなくなることを。


――第三部、開幕。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。