失われた記憶と、騎士様が守りたかった約束
――記憶を返還した場合、生命が失われる可能性があります。
目の前に浮かんだ赤い文字を、私は何度も読み返した。
生命が失われる。
それは、つまり。
私が死んでしまうかもしれないということだ。
「……そんな」
声が震えた。
指先が冷たくなる。
私はただ、忘れ物を返したかっただけなのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「リリア!」
突然、誰かに腕を掴まれた。
次の瞬間、目の前の光景が砕け散った。
燃え盛る王城。
泣き叫ぶ少年。
銀髪の王女。
すべてが消え、代わりに夕暮れの庭園が現れた。
「……あれ?」
私は瞬きをした。
目の前には、カイル様がいた。
彼はひどく青ざめた顔で、私を見つめている。
「リリア! しっかりしろ!」
「カイル、様……?」
「よかった……」
彼は大きく息を吐いた。
その声が、わずかに震えていた。
「突然倒れたんだ。何度呼んでも返事をしなかった」
「私が……?」
「ああ。息もほとんどしていなかった」
私は自分の胸に手を当てた。
心臓が、どくどくと鳴っている。
生きている。
ちゃんと、生きている。
それを確認して、ようやく安心できた。
「……すみません」
「謝るな」
「でも、ご心配を……」
「心配くらい、いくらでもさせろ」
思いがけない言葉だった。
私は顔を上げた。
カイル様は少しだけ目を逸らしていた。
「……無事なら、それでいい」
その横顔を見ていると、胸が不思議と温かくなった。
けれど。
私は思い出してしまった。
あの炎の中で見たものを。
「カイル様……」
「なんだ?」
「十三年前の火事を、見ました」
彼の表情が変わった。
「……何?」
「王女様がいて、小さな男の子がいて……バルド侯爵がいました」
カイル様の手が止まった。
「バルドが?」
「はい。王女様に向かって、あなたの存在を世界から削除すると……」
沈黙。
遠くで鳥の鳴き声がした。
夕日が、庭園の花々を赤く染めている。
やがて、カイル様が口を開いた。
「……やはり、あの男だったか」
「ご存じだったんですか?」
「疑ってはいた。だが、証拠がなかった」
彼は苦しそうに眉を寄せた。
「姉上が死んだ日、私はまだ七歳だった。火事のことは覚えている。だが、肝心な部分だけが抜け落ちているんだ」
「抜け落ちている……?」
「ああ。炎の中に誰かがいたことは覚えている。誰かを助けようとしたことも。だが、その人物の顔も、名前も思い出せなかった」
私は息を呑んだ。
「それが、エレノア王女様……」
「そうだ」
カイル様は静かに頷いた。
「王家の血を引く者として、私は姉上の存在を忘れてはならなかった。だが、私も十三年間、記憶を奪われていた」
私は自分の手を見つめた。
記憶を奪う。
そんなことが、本当にできるのだろうか。
でも、私の加護には確かに表示されていた。
記憶は、失われたものとして。
そして。
「……カイル様」
「なんだ?」
「実は、私の記憶も消されているみたいなんです」
彼の目が見開かれた。
「お前の?」
「はい」
私は、さっき見た文字を説明した。
自分の本当の名前が隠されていたこと。
記憶を封印したのがエレノア王女様だったこと。
そして。
「その記憶を取り戻すと、私、死んでしまうかもしれないそうです」
カイル様の顔から、表情が消えた。
「……何?」
低い声だった。
怒っているようにも聞こえた。
「生命が失われる可能性があると、表示されました」
「……そうか」
彼はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言った。
「ならば、その記憶には触れるな」
「えっ?」
「取り戻す必要はない」
私は驚いた。
「でも、私の記憶なんですよ?」
「わかっている」
「それに、王女様がどうして私の記憶を消したのか……」
「それも調べる。だが、お前の命を危険にさらす必要はない」
私は口を閉じた。
カイル様は真剣だった。
その瞳には、少しも迷いがなかった。
「リリア。私は十三年間、姉上を探し続けた」
「……はい」
「たとえ記憶を失っていても、何か大切なものを奪われたという感覚だけは残っていた」
彼は静かに続けた。
「だから、失ったものを取り戻したい気持ちはわかる」
「……」
「だが、失ったものを取り戻すために、今ここにいるお前まで失うのなら……私は、そんな方法を選びたくない」
胸が、きゅっと締めつけられた。
どうしてだろう。
この人とは、今日初めてまともに話したばかりなのに。
こんなにも、私のことを心配してくれる。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
カイル様は私を見つめていた。
そして、少し困ったように微笑んだ。
「礼を言われることではない」
その笑顔を見た瞬間。
私は、なぜだか泣きたくなってしまった。
◇
屋敷に入って最初に驚いたのは、その広さだった。
玄関には大きなシャンデリア。
床には美しい絨毯。
壁には高価そうな絵画。
そして、天井には見事な装飾が施されていた。
「……すごい」
私は思わず声を漏らした。
「気に入ったか?」
「はい! こんな立派なお屋敷、初めてです!」
「そうか」
カイル様は少しだけ嬉しそうだった。
けれど、次の瞬間。
私はあることに気づいた。
「……あれ?」
「どうした?」
「お掃除、されていないんですか?」
玄関の隅に、うっすらと埃が積もっていた。
窓の桟にも、蜘蛛の巣がある。
立派な屋敷なのに、どこか寂しい。
「ああ。使用人がいないからな」
「……そうでしたね」
私は周囲を見回した。
こんなに大きなお屋敷を、一人で管理するなんて大変だろう。
「カイル様」
「なんだ?」
「お掃除、してもよろしいでしょうか?」
「……今からか?」
「はい!」
「今日は疲れているだろう。休め」
「でも、気になってしまって……」
カイル様は私を見つめた。
そして、深いため息をついた。
「……好きにしろ。ただし、無理はするな」
「ありがとうございます!」
私は思わず笑顔になった。
仕事をすることが許された。
それだけで、少し嬉しかった。
……我ながら、変わっていると思う。
◇
それから一時間後。
私は玄関の掃除を終え、廊下の整理を始めていた。
すると。
「あら?」
床に、小さな金色のボタンが落ちていた。
古びたボタン。
けれど、周囲には淡い青色の光が漂っている。
「誰のものでしょう?」
私は拾い上げた。
すると、いつもの文字が浮かんだ。
【遺失物を確認しました】
【名称:金色の装飾ボタン】
【所有者:エレノア・アルディス】
【状態:長期未返還】
【付随する感情:後悔】
私は驚いた。
「王女様の……?」
どうして、カイル様のお屋敷に王女様のボタンがあるのだろう。
私は周囲を見回した。
すると、廊下の奥に一枚の扉が見えた。
他の扉とは違い、黒い木材で作られている。
鍵穴には、銀色の装飾。
その周囲に、淡い金色の光が漂っていた。
「……あれ?」
私は近づいた。
すると、また文字が浮かんだ。
【未返還の遺失物を検出しました】
【名称:忘れられた部屋】
【所有者:エレノア・アルディス】
【状態:封印中】
【返還可能】
私は目を瞬かせた。
部屋が、落とし物?
そんなことがあるのだろうか。
でも。
確かに、この扉の向こうから何かを感じる。
懐かしいような。
悲しいような。
誰かが、ずっと待っているような。
「……開けてみても、いいのでしょうか」
私は扉に手を伸ばした。
そのとき。
「リリア!」
背後から声がした。
振り返ると、カイル様が立っていた。
彼は私の手元を見て、驚いたように目を見開いた。
「……そのボタン」
「あ、はい。廊下に落ちていたので」
「どこで拾った?」
「この辺りです」
カイル様はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと扉を見つめた。
「……そこは、姉上の部屋だった」
「えっ?」
「十三年前、姉上がこの屋敷に来たとき、使っていた部屋だ」
私は息を呑んだ。
王女様の部屋。
だから、こんなにも金色の光が漂っているのだろうか。
「でも、どうして封印されているんですか?」
カイル様は苦しそうに眉を寄せた。
「……わからない」
「わからない?」
「ああ。私は、この扉の存在すら忘れていた」
私は驚いた。
こんなに大きな扉なのに。
毎日通る廊下にあるのに。
存在を忘れるなんて、普通ではない。
「……もしかして」
私は扉へ手を当てた。
すると、文字が浮かんだ。
【返還対象を確認しました】
【名称:忘れられた部屋】
【所有者:エレノア・アルディス】
【封印者:バルド・グランツ】
【封印解除条件:正当な所有者の記憶を持つ者】
私はカイル様を見た。
「カイル様」
「なんだ?」
「この扉、開けられるかもしれません」
彼の表情が変わった。
「……本当か?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「正当な所有者の記憶を持つ人が必要みたいです」
カイル様はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ならば、私がやる」
「でも、危険かもしれません」
「構わない」
彼は扉へ手を伸ばした。
けれど。
私は反射的に、その手を掴んでいた。
「……リリア?」
「駄目です」
「何?」
「危険かもしれないことを、一人でしないでください」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
カイル様が目を見開く。
「……お前は、私を心配しているのか?」
「当たり前です!」
私は思わず言い返した。
「カイル様は、私の命を心配してくださいました。だったら、私だって同じです!」
沈黙。
カイル様は私を見つめていた。
そして、突然。
小さく笑った。
「……そうか」
「はい!」
「わかった。では、一緒にやろう」
「……はい!」
私は頷いた。
そして、二人で扉に手を当てた。
「……返還します」
金色の光が広がった。
扉に刻まれた紋章が輝く。
そして。
――カチリ。
小さな音がした。
鍵が開く音だった。
◇
扉の向こうには、小さな部屋があった。
白い壁。
青いカーテン。
窓辺には、古い花瓶。
そして、部屋の中央には、小さな机が置かれていた。
まるで、十三年前から時間が止まっているようだった。
「……姉上の部屋だ」
カイル様が呟いた。
その声は、震えていた。
「本当に……ここにあったのか」
私は静かに部屋を見回した。
すると、机の上に一冊の本が置かれていることに気づいた。
古びた日記帳。
表紙には、銀色の文字で名前が刻まれていた。
『エレノア・アルディス』
「……王女様の日記」
私はそっと手に取った。
すると、文字が浮かんだ。
【遺失物を確認しました】
【名称:エレノアの手記】
【所有者:エレノア・アルディス】
【状態:封印解除済み】
【最終記録:十三年前、春】
私はページをめくった。
そこには、美しい文字が並んでいた。
最初のページ。
『今日、カイルが初めて剣を握った。まだ小さいのに、立派な騎士になると言っている。かわいい弟だ』
私は思わず微笑んだ。
「カイル様、小さい頃から騎士になりたかったんですね」
「……姉上には、何度も笑われた」
彼は懐かしそうに笑った。
私は次のページをめくった。
『今日は、城下町で小さな女の子に会った。銀色の髪に、青い瞳。とても不思議な子だった』
……え?
私は目を止めた。
銀色の髪。
青い瞳。
それは。
私と同じ特徴だった。
胸が、どくんと鳴った。
さらにページをめくる。
『あの子には、特別な加護があるらしい。失われたものを取り戻す力。神殿の者たちは、その力を恐れている』
私は息を呑んだ。
失われたものを取り戻す力。
それは、まさか。
『私は、あの子を守ることにした。あの子がいれば、きっと世界は救われる。けれど、その力を利用しようとする者たちもいる』
手が震えた。
私は最後のページを開いた。
そこには、震える文字で、こう書かれていた。
『もし、私が死んだら。あの子の記憶を封印する。あの子が自分の正体を知らなければ、きっと見つからずに済む』
そして。
最後の一文。
『ごめんなさい、リリア。あなたを守るためには、こうするしかなかった』
私は、息をすることを忘れた。
私の名前。
私のことが、書かれている。
十三年前の王女様の日記に。
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、王女様が私の名前を……」
そのとき。
突然、日記が光り始めた。
金色の光。
そして、目の前に文字が浮かんだ。
【封印された記録を確認しました】
【対象者:リリア・ベルフォード】
【本来の身分:――――】
【記録の一部を復元します】
私は目を見開いた。
文字が、ゆっくりと変わっていく。
【本来の身分:初代聖女の直系継承者】
……え?
聖女?
私が?
そんなはずはない。
私はただの孤児だ。
魔法も使えない。
加護だって、役立たずだと言われてきた。
なのに。
【警告】
【現在の聖女は、正統な継承者ではありません】
私は凍りついた。
現在の聖女。
それは、今日王宮で見た、金髪の少女。
セレスティア様のことだ。
私は慌ててカイル様を見た。
「カイル様……!」
「どうした?」
「大変です……!」
そのときだった。
屋敷の外から、大きな音が響いた。
――ドォォォン!
建物全体が揺れた。
窓ガラスが震え、天井から埃が落ちてくる。
「何だ!?」
カイル様が剣を抜いた。
私は日記を抱きしめる。
次の瞬間。
外から男の声が響いた。
『カイル・ヴァレンシュタイン! 王命により、貴様を国家反逆罪で逮捕する!』
私は息を呑んだ。
王命。
国家反逆罪。
そんな。
まだ王宮を出て、数時間しか経っていないのに。
カイル様は窓の外を見た。
そして、小さく舌打ちした。
「……思ったより早かったな」
「カイル様……」
「リリア。日記を持っていろ」
「は、はい!」
「絶対に手放すな」
私は強く頷いた。
カイル様は私の前に立った。
その背中は、いつも通り頼もしかった。
けれど。
次の瞬間、私の視界に文字が浮かび上がった。
【緊急依頼を検出しました】
【依頼名:失われた王家の血統】
【対象者:カイル・ヴァレンシュタイン】
【状態:存在情報の改竄】
【本来の身分:アルディス王国第二王子】
私は、思わず声を上げた。
「……ええええっ!?」
カイル様が振り返る。
「どうした!?」
「カ、カイル様……!」
「なんだ!」
私は震える指で彼を指さした。
「カイル様って……王子様だったんですか!?」
沈黙。
カイル様は目を見開いた。
そして。
「……なぜ、それを知っている?」
彼は、そう答えた。




