第115話 レインになる前
――レイン。
その声が。
扉の向こうから。
もう一度。
聞こえた。
『レイン』
俺は。
動けなかった。
名前は。
ただの音だったはずだ。
誰かが。
誰かを呼ぶためのもの。
なのに。
今は。
まるで。
俺自身を。
引き寄せようとしている。
「レイン」
ミラが。
俺の腕を掴んだ。
「行かなくていいよ」
「……」
「怖いなら」
「戻ろう」
「戻れるのか?」
「……」
「だよな」
「もう」
「出口ないし」
「うん」
ミラが。
少し困ったように笑う。
「でも」
「行くかどうかは」
「レインが決めていい」
「……」
俺は。
扉を見る。
――Mになる前。
――レインになる前。
その文字。
どうしても。
気になる。
「行く」
「うん」
俺は。
扉を開けた。
――カチッ。
その先には。
部屋があった。
今まで見た。
どの部屋よりも。
古い。
壁には。
ひびが入り。
床には。
何もない。
中央に。
小さな箱が一つ。
「……箱?」
ミラが。
しゃがみ込む。
「開ける?」
「待て」
「罠?」
「たぶん」
「じゃあ開けない?」
「いや」
「開ける」
「結局開けるんだ」
「ここまで来たからな」
「レインって」
「怖がりなのか無謀なのか分からないね」
「両方だ」
箱を開ける。
中には。
一枚の紙。
そして。
小さな石。
石には。
何も書かれていない。
「……」
紙を読む。
――最初の呼称記録。
――対象:未定義。
――呼称:レイン。
――発声者:未定義。
――応答者:未定義。
俺は。
眉をひそめた。
「また未定義」
「この施設」
「未定義好きだね」
ミラが。
紙の裏を見る。
「こっちは?」
裏には。
一行だけ。
――呼ばれた者が、レインになった。
「……」
俺は。
紙を握った。
「つまり」
「名前を呼ばれたから」
「レインになった?」
『違う』
声がした。
俺たちは。
振り返る。
そこには。
さっきの少年。
名前のない少年が立っていた。
「お前」
『うん』
「どういう意味だ?」
『名前を呼ばれたから』
『レインになったんじゃない』
「……?」
『レインになったから』
『その声に』
『応えた』
「……」
少年が。
俺を見る。
『順番が』
『逆なんだ』
俺は。
黙った。
名前が人を作るんじゃない。
人が。
名前に応えた。
その応答が。
名前を成立させた。
「じゃあ」
「最初に俺を呼んだ奴は」
『分からない』
「……」
『でも』
「何だ?」
『その声を聞いた時』
『あなたは』
『もう一人だった』
「……」
俺の背中に。
冷たいものが走る。
「一人?」
『そう』
『Mもいない』
『Rもいない』
『Sもいない』
『誰も』
『あなたを見ていない』
「……」
『なのに』
『あなたは』
『その声に』
『応えた』
「……誰もいないのに?」
『うん』
「じゃあ」
「誰が呼んだ?」
少年が。
少しだけ。
笑った。
『そこが』
『まだ』
『分からない』
俺は。
ため息をつく。
「結局そこか」
「ずっと謎」
「でも」
ミラが。
箱の中の石を拾った。
「これ」
「何だ?」
「さっき」
「光ったよ」
「……?」
石を見る。
確かに。
微かに。
白く光っている。
ミラが。
石を俺へ渡す。
俺が触れた瞬間。
――カン。
音が鳴った。
五つ目の音と。
同じ。
だが。
今度は。
石の表面に。
文字が浮かんだ。
――呼称:レイン。
「……」
さらに。
文字が変わる。
――応答:確認。
そして。
最後。
――選択:開始。
「……選択?」
ミラが。
俺を見る。
「名前を呼ばれた時に」
「レインが選んだってこと?」
「……」
俺は。
石を見る。
「たぶん」
『そう』
少年が答える。
「何を選んだ?」
『生きること』
「……」
『ただ』
『生きることを』
『選んだわけじゃない』
「じゃあ何を?」
『“ここにいる”こと』
俺は。
言葉を失った。
――ここにいる。
それは。
生存とは違う。
存在すること。
誰かに作られたからではなく。
誰かに選ばれたからでもなく。
自分で。
ここにいることを。
選んだ。
「……」
ミラが。
静かに笑う。
「それなら」
「今のレインと」
「同じじゃん」
「……」
「昔も今も」
「自分でここにいるって決めてる」
「そうかもな」
その瞬間。
部屋の壁が。
崩れた。
奥から。
別の空間が現れる。
そこには。
巨大な円。
その中央に。
一人の人影。
顔は。
見えない。
ただ。
声だけがする。
『私は』
『あなたを』
『呼んだ』
「……!」
少年が。
初めて。
驚いた。
『……違う』
「何が?」
『この声じゃない』
「?」
『この人は』
『最初の呼称者じゃない』
「じゃあ」
影が。
ゆっくり。
顔を上げる。
『私は』
『最初に』
『あなたを呼んだ』
『その“声”を』
『記録した者』
「……」
記録した者。
つまり。
呼んだ本人ではない。
「誰だ?」
影は。
答えない。
代わりに。
円の中へ。
一つの文字が浮かぶ。
――記録者:M。
「……!」
ミラが。
息を呑む。
「M?」
だが。
すぐに。
文字が変わる。
――Mではない。
「……」
さらに。
――Mになる前。
「……!」
俺は。
その文字を見る。
「Mになる前って」
「誰なんだ?」
影が。
静かに言う。
『まだ』
『名前がない』
「……」
『だから』
『Mではない』
『でも』
『Mになる』
「……」
『そして』
『あなたも』
『まだレインではない』
その瞬間。
円の中央に。
もう一人。
小さな影が現れた。
俺と。
同じ背丈。
同じ顔。
ただ。
名前がない。
影が。
俺を見る。
そして。
口を開く。
『……あなた』
「……」
『私を』
『呼んで』
「何て?」
『まだ』
『名前がない』
「じゃあ」
「どう呼べばいい?」
影は。
しばらく。
俺を見つめた。
そして。
俺の口から。
言葉が出た。
「……M」
ミラが。
息を呑む。
影が。
微笑む。
『それが』
『最初の名前』
俺は。
固まった。
「……」
違う。
Mという名前が。
最初だったわけじゃない。
その前に。
俺が。
誰かを呼んだ。
そして。
その誰かが。
Mになった。
なら。
俺は。
何だった?
その答えを。
影が。
告げる。
『あなたは』
一拍。
『最初の』
そして。
文字が。
空間いっぱいに広がった。
――「レイン」と呼ばれる前の存在。
俺は。
その文字を見つめる。
すると。
さらに。
一行。
――名称:■■■
名前だけが。
黒く塗り潰されていた。
そして。
その下に。
恐ろしい記録が。
浮かんだ。
――呼称者:レイン。
「……」
俺は。
息を止めた。
ミラも。
何も言わない。
俺が。
レインになる前。
俺は。
誰かを呼んだ。
その呼び声が。
Mを作った。
そして。
その名前を呼んだ者の名前が。
――レイン。
だった。
「……おかしい」
俺は。
呟いた。
「名前が」
「自分より先に存在してる」
少年が。
静かに言った。
『だから』
『最初の名前は』
『誰のものでもない』
『名前が』
『人を呼んだんだ』
その瞬間。
世界中から。
無数の声が。
重なった。
――レイン。
――M。
――R。
――ミラ。
――アルド。
――S。
――名前のないもの。
全部が。
同時に。
俺を呼ぶ。
そして。
最後に。
一つだけ。
今まで聞いたことのない声が。
静かに。
俺を呼んだ。
『……レイン』
俺は。
その声に。
反射的に。
答えた。
「……何だ?」
すると。
壁に。
たった一行。
浮かんだ。
――応答者:確認。
――現在のレインと、最初のレイン。
そして。
その下に。
新しい扉が。
現れる。
扉の文字は。
――「最初のレイン」
だった。




