第114話 最初の名前
――「最初の名前」
その扉を。
俺は見つめていた。
「……名前」
ミラが。
扉の文字を読む。
「最初の名前って」
「何だと思う?」
「レイン」
「……」
「違う?」
「分からない」
「じゃあ」
「ミラ?」
「それは私が決めたから違う」
「なるほど」
「じゃあ」
「アルド?」
「それも違うと思う」
俺は。
扉に手を置いた。
「行けば分かる」
「それ」
「最近のレインの口癖になってない?」
「そうか?」
「うん」
――カチッ。
扉が開いた。
中は。
今までの部屋とは違った。
何もない。
本当に。
何もない。
床も。
壁も。
天井も。
ただ。
暗闇だけ。
「……」
俺たちは。
足を踏み入れる。
その瞬間。
扉が消えた。
「……閉じ込められた?」
「たぶん」
「レイン」
「何だ?」
「帰り道」
「……」
「ある?」
「ないな」
「やっぱり」
ミラが。
ため息をつく。
「この施設」
「出口を作る気がないよね」
「同感だ」
その時。
暗闇の中から。
声がした。
『名前を』
一言。
『呼んで』
「……誰を?」
『あなたを』
俺は。
少し考えた。
「レイン」
自分で。
名前を口にした。
何も起きない。
『もう一度』
「レイン」
『もっと前』
「……?」
『あなたが』
『レインになる前』
胸の奥が。
ざわついた。
「……」
俺は。
答えられなかった。
ミラが。
俺を見る。
「無理に思い出さなくていいよ」
「……」
「今の名前は」
「今のレインが選んだ名前だから」
「そうだな」
その瞬間。
暗闇に。
一つの光が生まれた。
小さな。
白い光。
その中に。
文字が浮かぶ。
――呼称:レイン。
――発生時点:不明。
――発生場所:不明。
――呼称者:不明。
「……」
俺は。
その記録を見る。
「やっぱり」
「一番最初が分からない」
『違う』
声がした。
『分からないのではない』
「……?」
『記録されていない』
「誰が消した?」
『誰も』
「……」
『名前が』
『記録より先にあったから』
俺は。
黙った。
つまり。
最初に誰かが。
名前を記録したわけじゃない。
誰かが。
誰かを。
そう呼んだ。
その声が。
記録より先だった。
「……」
ミラが。
静かに言う。
「名前って」
「本当はそういうものなのかもね」
「どういう?」
「誰かが」
「その人を呼ぶ」
「それだけ」
「番号も」
「役割も」
「必要ない」
「……」
俺は。
自分の名前を。
もう一度。
口にした。
「レイン」
今度は。
暗闇が。
大きく揺れた。
――ドクン。
胸の四つの鼓動。
そして。
――カン。
五つ目の音。
さらに。
どこからともなく。
六つ目の音が。
響いた。
――カン。
「……?」
ミラが。
振り返る。
「今」
「六つ目」
「ああ」
「何?」
「分からない」
また。
暗闇から。
声がした。
『それが』
『最初の名前』
「……?」
『名前そのものではない』
「じゃあ何だ?」
『名前を』
『呼んだ音』
俺は。
息を呑んだ。
――レイン。
それは。
名前じゃなかった。
最初は。
ただの音だった。
誰かを呼ぶための。
音。
その音に。
意味が生まれた。
その人が。
その音に。
応えたから。
「……」
暗闇に。
新しい文字が浮かぶ。
――最初の名称:音。
――意味:呼びかけ。
――所有者:なし。
――発生条件:誰かが誰かを呼んだ。
「……」
ミラが。
俺を見る。
「レイン」
「何だ?」
「今」
「ちゃんと返事したね」
「……」
当たり前だ。
そう思った。
でも。
少し違った。
俺が。
レインだから。
返事をした。
誰かが。
レインと呼んだから。
その名前が。
俺になった。
その瞬間。
暗闇の奥から。
一人の影が現れた。
小さな。
子供のような影。
顔は見えない。
だが。
声だけは。
聞こえた。
『レイン』
俺は。
固まった。
その声。
聞き覚えがある。
「……お前」
『レイン』
「誰だ?」
『あなたが』
『最初に』
『名前を聞いた時』
「……」
俺の記憶が。
揺れる。
幼い頃。
南の町。
両親。
知らないはずの景色。
誰かに。
名前を呼ばれた。
――レイン。
でも。
その前に。
もう一つ。
声があった。
――「お前は、何になる?」
「……」
俺は。
頭を押さえる。
「知らない」
『知ってる』
「知らない」
『知ってる』
「……!」
影が。
近づく。
そして。
初めて。
顔が見えた。
――あの少年だった。
最初にMを選んだ。
名前のない少年。
「……お前」
少年は。
笑った。
『やっと』
『ここまで来た』
「お前が」
「俺を呼んだのか?」
『違う』
「じゃあ誰が?」
『僕も』
『呼ばれた』
「……」
『僕が』
『最初に』
『呼んだんじゃない』
『僕も』
『呼ばれた側』
「誰に?」
少年が。
指を。
俺の後ろへ向ける。
振り返る。
そこには。
誰もいない。
ただ。
白い文字。
――最初の呼称者:記録不能。
「……」
少年が。
言った。
『名前を作ったのは』
『僕じゃない』
「……」
『Mでも』
『Rでも』
『Sでも』
『第四でも』
『第五でもない』
「じゃあ」
『あなた』
「……俺?」
少年が。
首を振る。
『今のあなたじゃない』
「……」
『もっと前』
『まだ』
『レインになる前の』
『あなた』
胸が。
強く鳴る。
――ドクン。
俺は。
少年を見る。
「俺が」
「俺を呼んだ?」
『違う』
「じゃあ?」
『あなたが』
『誰かを』
『呼んだ』
「……」
『その声が』
『レインになった』
「……」
意味が。
分からない。
いや。
分かりたくない。
もし。
俺が。
誰かを呼んだ声が。
俺の名前になったなら。
その誰かは。
誰だ?
「……誰を呼んだ?」
少年は。
答えなかった。
代わりに。
暗闇の奥で。
一つの扉が。
ゆっくりと。
開いた。
扉には。
名前ではなく。
たった一文字。
――「M」
「……」
ミラが。
息を呑む。
「また」
「M?」
俺は。
扉を見る。
だが。
その下に。
今までなかった文字が。
浮かんでいた。
――Mになる前。
そして。
もう一行。
――レインになる前。
さらに。
その下。
――二つは、同じ場所に存在していた。
「……」
俺は。
扉に手を伸ばす。
すると。
少年の声が。
背後から聞こえた。
『気をつけて』
「何に?」
『ここから先は』
一拍。
『名前を』
『知るんじゃない』
『名前が』
『誰を呼んだのか』
『知ることになる』
「……」
扉の向こうから。
誰かの声。
小さく。
確かに。
聞こえた。
『レイン』
俺は。
その声を聞いた瞬間。
初めて。
自分の名前を。
怖いと思った。




