第108話 分離前
――分離前。
その文字を。
俺は見つめていた。
「……入るのか?」
ミラが聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「ここまで来て帰るって選択肢もないだろ」
「それもそうだけど」
ミラは。
扉を見る。
「今回は」
「何かが違う」
「ああ」
Mも。
扉の前に立っていた。
いつもの彼女なら。
先に進むかどうか。
少し考える。
だが。
今回は。
迷っていなかった。
『行きましょう』
「……」
その声に。
俺は。
少し驚いた。
「怖くないのか?」
『怖い』
「……」
『でも』
Mが。
扉を見る。
『今度は』
『私が選ぶ』
――カチッ。
扉が開いた。
その先は。
白い部屋ではなかった。
暗い。
何もない。
ただ。
床だけがある。
床の中央に。
円。
その中に。
一つの文字。
――0。
「……零番?」
ミラが。
呟く。
「違う」
俺は。
首を振る。
「たぶん」
「番号じゃない」
Mも。
頷いた。
『これは』
『数ではない』
「じゃあ何だ?」
『始まり』
その瞬間。
床に。
一本の線が走った。
線は。
円を二つに分ける。
――M
――R
「……」
俺は。
息を呑む。
「最初から」
「分かれてたんじゃない」
『そう』
「一つだった?」
『そう』
ミラが。
ゆっくり。
線を見る。
「じゃあ」
「何が分けたの?」
Mが。
答えなかった。
代わりに。
床に。
文字が浮かんだ。
――分離原因:選択。
「……」
俺は。
眉をひそめる。
「誰の?」
文字が。
消える。
そして。
別の文字。
――未確定。
「……」
「ここでも分からないのか」
ミラが。
呆れる。
「もういっそ」
「全部『不明』でいいんじゃない?」
「それじゃ物語にならないだろ」
「物語?」
「……いや」
俺は。
咳払いした。
「何でもない」
Mが。
少しだけ笑う。
だが。
次の瞬間。
部屋の奥から。
声がした。
『最初に』
『選んだのは』
一拍。
『人ではない』
俺たちは。
一斉に振り返る。
「……誰だ?」
声だけ。
姿はない。
『名前もない』
『身体もない』
『人格もない』
「じゃあ」
「何なんだ?」
『選択』
「……」
俺の背中に。
冷たいものが走った。
『最初に存在したのは』
『選択そのもの』
床に。
文字が浮かぶ。
――最初の存在:選択。
――名称:なし。
――人格:なし。
――身体:なし。
――役割:なし。
「……」
ミラが。
小さく言う。
「存在って言っていいの?」
「分からん」
「また?」
「仕方ない」
俺は。
床を見る。
「でも」
「選択が最初にあったなら」
「MとRは?」
『結果』
「……」
『選択から』
『分かれた』
Mが。
静かに聞く。
『誰が』
『何を選んだの?』
しばらく。
返事がない。
そして。
床に。
一文字。
――M。
「……」
Mの顔が。
強張った。
「M?」
俺が呼ぶ。
彼女は。
動かない。
「おい」
『……』
Mが。
ようやく。
口を開いた。
『私が』
『選んだ?』
声が。
震えている。
『でも』
『私は』
『その時』
『まだ』
一拍。
『Mじゃなかった』
床の文字が。
変わる。
――選択者:未定義。
――選択対象:未定義。
――結果:M。
「……」
俺は。
その文字を見る。
「結果が」
「M?」
『そう』
「じゃあ」
「選んだ結果」
「Mになった?」
『……』
Mは。
答えない。
その時。
ミラが。
突然。
床を指差した。
「待って」
「何だ?」
「これ」
床の端。
小さな文字がある。
――Mになる前の名称:――。
「……」
その横に。
もう一つ。
――Rになる前の名称:――。
「空白?」
ミラが。
呟く。
「二人とも」
「名前がなかった」
「……」
俺は。
胸に手を当てる。
名前。
いつも。
名前が。
人格を作る。
そう思っていた。
だが。
ここでは。
逆だった。
名前がない状態でも。
選択は存在していた。
そして。
選択の結果として。
名前が生まれた。
「じゃあ」
「レインは?」
俺が。
聞いた。
声が。
返ってくる。
『レインは』
『もっと後』
「……」
『MとRが』
『分かれた後』
『Rが』
『名前を拒否した後』
『そのさらに後』
「……」
『初めて』
『誰かを』
『レインと呼んだ』
「……」
俺は。
息を呑んだ。
「じゃあ」
「レインという名前は」
『Mでもない』
『Rでもない』
『最初の選択でもない』
『その後に生まれた』
「……」
『誰かが』
『誰かを呼んだことで』
『生まれた』
ミラが。
小さく笑う。
「なんだ」
「名前って」
「思ったより単純なんだね」
「……そうかもな」
「でも」
ミラが。
俺を見る。
「レインって呼ぶの」
「私は好きだよ」
「……」
俺は。
少しだけ。
笑った。
「俺も」
その瞬間。
部屋の中央に。
新しい文字が浮かんだ。
――名称:レイン。
――発生条件:呼称。
――所有者:なし。
「……」
「所有者なし」
俺は。
その言葉を。
静かに繰り返した。
「つまり」
「誰のものでもない」
『そう』
「なら」
「誰にも奪えない」
『そう』
Mが。
俺を見る。
『だから』
『あなたは』
『五十年前のレインではない』
「……」
『名前を』
『奪い合う必要もない』
「……」
その時。
突然。
部屋全体が。
大きく揺れた。
――ドン。
ミラが。
よろける。
「な、何!?」
床に。
ひびが入った。
その下から。
赤い光が。
漏れる。
「……」
俺は。
その光を見る。
嫌な感じがする。
知っている。
この色を。
――二つ目の鼓動。
――原初人格。
――32。
全部。
この色だった。
「下に」
「何かいる」
ミラが。
頷く。
「うん」
Mが。
静かに。
呟いた。
『違う』
「何が?」
『いるんじゃない』
『ここに』
一拍。
『最初から』
『あった』
床が。
完全に。
割れた。
その下に。
巨大な空間が広がっていた。
そこには。
一つだけ。
椅子がある。
誰も座っていない。
その前に。
一枚の板。
そこには。
番号も。
名前もない。
ただ。
一行だけ。
刻まれていた。
――「最初に、生き残ったもの」
俺は。
その文字を見つめる。
「……S」
ミラが。
呟く。
だが。
Sから。
返事はない。
代わりに。
椅子の後ろから。
小さな声がした。
『違う』
「……」
『僕は』
『最初じゃない』
「じゃあ」
俺は。
暗闇へ向かって。
聞いた。
「ここにいるのは」
『僕より』
『もっと前』
一拍。
『生き残ったもの』
赤い光が。
ゆっくり。
点滅する。
――ドクン。
――ドクン。
俺の胸の三つ目の鼓動と。
同じ音。
だが。
少し違う。
もっと古い。
もっと深い。
まるで。
世界そのものが。
鼓動しているような音だった。
そして。
椅子の前の板に。
新しい文字が浮かぶ。
――最初の生存者:存在。
――名称:なし。
――人格:なし。
――発生理由:世界が分かれる前に、消えなかったため。
「……」
俺は。
息を呑んだ。
Mが。
小さく呟く。
『これは』
『私たちより』
『ずっと前の話』
そして。
暗闇の奥から。
誰かの声がした。
『レイン』
俺は。
振り返る。
『お前は』
『私を』
『もう一度』
『生かすか?』
その瞬間。
俺の胸の鼓動が。
四つに。
増えた。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
俺は。
思わず。
胸を押さえた。
「……四つ目?」
ミラが。
青ざめる。
そして。
壁に。
たった一行。
新しい記録が刻まれた。
――第四生存:起動。




