第102話 レイン
――名称候補:レイン。
その文字を。
俺は。
黙って見ていた。
「……名前の音って」
俺が呟く。
「どういう意味だ?」
影は。
答えない。
ただ。
俺の胸を。
じっと見ている。
「おい」
「聞いてるのか?」
『聞いてる』
「なら答えろ」
『分からない』
「……」
ミラが。
小さく吹き出した。
「またそれ」
「何がおかしい」
「レインが怒ってる」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
「……」
影が。
初めて。
少し笑った。
『それ』
「何だ?」
『そのやり取り』
「……?」
『五十年前も』
『同じだった』
俺の表情が。
固まる。
「俺とミラが?」
『違う』
「じゃあ誰と?」
『RとM』
「……」
ミラが。
黙った。
影は。
ゆっくり。
俺たちの間を見る。
『Rは』
『いつもMに』
『質問していた』
『Mは』
『いつも「分からない」と答えていた』
「……」
俺は。
ミラを見る。
「似てるな」
「うん」
ミラは。
少し複雑そうに笑った。
「なんだか」
「私まで昔の人みたい」
「安心しろ」
「何?」
「今のお前は」
「今のお前だ」
ミラが。
一瞬。
目を丸くする。
「……うん」
影が。
静かに言った。
『それが』
『一番大切』
「何が?」
『昔と同じでも』
『同じ存在とは限らない』
「……」
『名前が同じでも』
『人生は違う』
俺は。
その言葉を聞いて。
胸の奥が。
少し軽くなるのを感じた。
だが。
影が。
突然。
こちらへ手を伸ばした。
『レイン』
「……何だ?」
『名前を』
「名前?」
『呼んで』
「誰を?」
『自分を』
「……」
俺は。
眉をひそめる。
「レイン」
自分の名前を。
口にする。
――その瞬間。
部屋の壁が。
一斉に。
光った。
――音声認証。
――名称:レイン。
――存在照合:開始。
「……!」
ミラが。
壁を見る。
「名前を言っただけで?」
「何かが反応した」
文字が。
次々と変わる。
――第一世代:レイン。
――第二世代:レイン。
――第三世代:レイン。
――現在:レイン。
俺は。
息を呑む。
「……四つ?」
ミラが。
数える。
「初代レイン」
「五十年前のレイン」
「今のレイン」
「あと……」
壁の一番下。
もう一つ。
――原初R:レイン。
「……」
俺は。
言葉を失った。
「Rにも」
「レインという名前があった?」
影が。
首を振る。
『違う』
「じゃあ何だ?」
『レインという音が』
一拍。
『Rに与えられた』
「……」
『名前になる前の』
『最初の呼び方』
俺は。
その意味を考える。
「つまり」
「レインという名前より」
「先に」
「レインという音があった?」
『そう』
「誰が?」
『M』
「……!」
ミラが。
息を呑む。
「Mが」
「レインって呼んだ?」
『最初に』
『Rを』
『レインと呼んだ』
俺は。
壁を見る。
――初回呼称:レイン。
――呼称者:M。
――対象:R。
――目的:未定義。
「……」
目的が。
「未定義」。
つまり。
Mは。
ただ。
Rを呼んだだけ。
何かの計画でも。
実験でもなく。
ただ。
誰かを呼んだ。
俺は。
なぜか。
そのことが。
妙に重要な気がした。
「M」
俺は。
遠くにいるMを見る。
「お前」
「どうしてRを」
「レインって呼んだ?」
Mは。
しばらく。
黙っていた。
そして。
答える。
『分からない』
「……」
ミラが。
苦笑する。
「また」
「分からない」
Mが。
少しだけ。
笑った。
『本当に』
『分からないの』
「じゃあ」
「思い出せない?」
『違う』
「……?」
『理由なんて』
一拍。
『なかったから』
「……」
『ただ』
『そう呼びたかった』
俺は。
黙った。
それだけ。
理由なんてない。
誰かを。
ただ。
そう呼びたかった。
それが。
最初の「レイン」。
もしかしたら。
今の俺の名前も。
そんな単純なものだったのかもしれない。
ミラが。
小さく言う。
「名前って」
「そういうものかもね」
「どういうものだ?」
「理由がなくても」
「その人を呼びたいから呼ぶ」
「……」
俺は。
ミラを見る。
「じゃあ」
「俺をレインって呼ぶ理由は?」
ミラは。
少し考えて。
笑った。
「呼びたいから」
「……」
「それじゃダメ?」
「……いや」
俺は。
少しだけ。
笑った。
「十分だ」
その瞬間。
影が。
こちらを見た。
『それが』
『名前の音』
「……?」
『名前は』
『記録じゃない』
『番号でもない』
『所有物でもない』
一拍。
『誰かが』
『誰かを呼ぶことで』
『初めて生まれる』
壁に。
文字が浮かぶ。
――名称:レイン。
――初回発生:呼称。
――所有者:不存在。
「所有者なし?」
『そう』
「じゃあ」
「俺の名前は誰のものだ?」
影が。
答える。
『誰のものでもない』
「……」
『だから』
『誰にも奪えない』
その瞬間。
俺の胸の奥で。
第三心臓が。
強く鳴った。
――ドクン。
自由領域。
――35%。
だが。
同時に。
赤い警告が。
表示された。
――名称「レイン」への接続要求。
「……」
「また何か来るよ」
ミラが。
身構える。
「誰だ?」
壁に。
一つの番号。
――32。
俺の背中が。
冷たくなる。
「……32」
数字が。
ゆっくり。
変わる。
――三十二番:人格。
――三十二番:記憶。
――三十二番:器。
そして。
その三つが。
初めて。
一つの文字に。
重なった。
――32=レイン。
「……!」
俺は。
一歩。
後ろへ下がる。
「違う」
思わず。
口から出た。
「俺は32じゃない」
壁が。
即座に反応する。
――拒否を確認。
――名称「レイン」:維持。
「……」
俺は。
少し驚いた。
「拒否したのに」
「何も奪われない?」
影が。
頷く。
『それが』
『自由領域』
「……」
『昔は』
『名前を拒否すると』
『別の名前に置き換えられた』
『今は』
『拒否しても』
『空白のままでいられる』
「……」
俺は。
理解する。
自由とは。
選ぶことだけじゃない。
選ばないこと。
拒否すること。
何も決めないこと。
それすら。
自分で選べること。
だから。
俺は。
32ではない。
七人目でもない。
何かの完成品でもない。
ただ。
俺として。
ここにいる。
ミラが。
隣で。
笑った。
「やっと」
「この施設にも」
「少しは学習能力が出てきたね」
「……」
俺は。
壁を見る。
「でも」
「まだ終わってない」
赤い文字が。
浮かび上がった。
――名称「レイン」:維持。
――旧R:接続拒否。
――初代レイン:接続拒否。
――三十二番:接続拒否。
――M-02:接続拒否。
そして。
最後。
――原初人格:接続要求中。
「……」
俺は。
影を見る。
「お前か?」
『違う』
「じゃあ誰だ?」
影は。
俺の胸を指差した。
『中にいる』
「……」
俺は。
胸に手を当てる。
第二心臓。
第三心臓。
そして。
そのさらに奥。
今まで。
ずっと。
何もなかった場所。
そこから。
声がした。
『――レイン』
「……!」
その声は。
俺の声に。
よく似ていた。
だが。
俺ではない。
『お前は』
一拍。
『まだ』
『俺の名前を』
『返していない』
「……」
ミラが。
俺を見る。
「レイン」
「ああ」
俺は。
胸元を。
強く握った。
「誰だ」
声は。
答えた。
『――お前が』
『生まれる前の』
『レインだ』
――ドクン。
第三心臓。
そして。
初めて。
第四の鼓動が。
鳴った。
――ドクン。
壁に。
新しい表示。
――原初人格:再構成率40%。
――旧R:覚醒開始。
――現在のレイン:名称維持。
そして。
最後に。
今まで存在しなかった項目が。
表示された。
――第五の存在:確認。
「……第五?」
ミラが。
呟く。
俺は。
その文字を見ながら。
思った。
まだ。
俺の中には。




