第38話 魔王を核から外す(前編)
【オサム視点】
転移から八十五日目の朝、玉座の結界炉の中心の丸い部屋で、俺は魔王イゾルデ・クローネと向き合っていた。床まで流れる黒髪の女は、相変わらず黒い鉄の玉座に座ったまま、額の鉄の冠から伸びた三本の端子で、玉座の管に繋がれている。部屋の熱は昨日と同じで、俺の作業着の袖は、入って五分で乾いて固くなった。核から外す前に、まず、彼女がこの六百年、どうやって結界炉を持たせてきたのかを聞く必要があった。
「熱くなったら、どうしてた」
「魔力を、注いだわ」
イゾルデは、当たり前のことを聞くなという顔で言った。
「結界炉が熱くなるのは、結界が弱っている時よ。弱った結界を張り直すには、魔素を注ぐしかない。だから、熱くなればなるほど、私はマナを多く注いだ。六百年、ずっとそうしてきた。この三十年は、毎晩、前の晩より多く注いでいるわ」
「それだ」
「……何が」
「その持たせ方が、魔導炉を余計に熱くしてる。熱いのは結界が弱いからじゃない。注ぎすぎてるからだ。この結界炉には、熱を逃がす管が十二本ある。そのうち九本の弁が、閉じたまま錆びついてる。逃げ場のない熱に、あんたが毎晩、もっと魔素を注いでた。熱くなるほど注げば、もっと熱くなる。三十年分、それを繰り返したんだ」
俺は、玉座の脇を這う太い管の、錆びた弁の一つを指さした。原作の背景の絵でも、その弁はいつも閉じて描かれていた。十二年、俺はゲーム中それが気になっていた。
「注ぐ量を減らせ。半分でいい。そのあいだに、俺が逃がす弁を開けて、熱を出す」
イゾルデは、灰色の目で、弁と俺の顔を交互に見た。焼けた指先が、玉座の肘掛けの上で、一度だけ握られた。
「……六百年よ。六百年、私はそれで持たせてきたの。それが、間違っていたというの――?」
「間違ってた。だが、あんたが持たせてなかったら、六百年前に結界は落ちてた。持たせたのは本当だ。持たせ方が、間違ってただけだ」
長い間があった。配管の継ぎ目が、どこかで小さく鳴った。
「……そう。間違って、いたのね。私は......」
イゾルデの額で、鉄の冠が、カタ、と鳴った。
部屋の誰も、それが何の音か分からなかった。フィーネは扉のそばで剣の柄に手をかけ、ヘルガは格子の上で顔を上げ、俺はレンチを握ったまま、冠の端子を見ていた。イゾルデの耳の先が、熱のせいではない色に、じわじわと赤くなっていく。
ぼんっ!!
玉座の上に、白い煙が、ぽふ、と丸く立った。
煙が晴れると、玉座の上には、ぶかぶかの黒いドレスが残っていた。ドレスの襟から、小さな頭が一つのぞいている。背丈は、俺の腰ほどしかない。額の鉄の冠は鼻の頭までずり落ち、床まで流れていた黒髪はそのまま、小さな体の下に敷かれていた。三本の端子は、冠ごと下へずれて、管にぎりぎり繋がっている。
部屋の中で、誰も動かなかった。ヘルガが、格子の上で口を開けたまま固まっていた。フィーネは剣の柄から手を離すのを忘れていた。扉の外から首だけ入れていたドレイクが、「え。……え?」と二回言った。
「……わたちを、み、見ないでくだちゃい!」
冠の下から、高い声がした。中身は六百十二歳のまま、声と舌の回り方だけが子どものものになっていた。言った本人が、自分の口から出た「くだちゃい」に、冠の下で固まっていた。
「見ないでって、言ってるらのよ! ……ちがう、言っているでしょう、と言いたいらのよ!」
「なんか、小さくなったなお前」と俺は言った。「で、さっきの続きだ。注ぐ量を半分にしろ。小さくなっても、端子は繋がってる。注ぐのは、体の大きさとは関係ないはずだ」
「……あなた、今の、なんとも思わないらの?」
「思ってる。端子の真ん中の一本が、ずれて引っぱられてる。冠を少し持ち上げろ。管が抜けたら、結界が落ちる」
イゾルデは、小さな両手で、鼻までずり落ちた冠を額の上へ押し上げた。押し上げた拍子に、自分の黒髪を踏んで、玉座の上で前のめりになった。フィーネが、反射のように駆け寄ってその体を支えた。
「だ、大丈夫ですか、イゾルデさん」
「……騎士のむちゅめに、支えられるとは、思わなかったらのよ」
「今のは、オサムさんが悪いです。いえ大体この方が悪いんです、女性関係は......(ぼそ)」
ヘルガが、格子の上で、ようやく口を閉じた。
「……陛下が、お縮みに。六百年、お仕えしてきた者の誰も、こんなお姿は拝見したことが......っ」
「魔素で、体を大きく保ってたらのよ」と、小さなイゾルデが、冠の下から不機嫌に言った。「結界炉の核から流れ込む魔素で、六百年、この背丈と威厳を作ってたらの。……正ちいことを言われて、それを認めたら、器から抜けちゃったらのよ。なにか、わるいでちゅか!」
「悪くない。注ぐ量が減れば、熱も下がる。小さいほうが、今は都合がいい」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
注ぐ量が半分になると、結界炉の熱は、半日で目に見えて下がった。配管の継ぎ目から漏れていた紫の光が細くなり、床の格子から吹き上がる風が、焚き火の前から、真夏の昼くらいに落ち着いた。それでようやく、扉の外で待っていた六号とドレイクが、部屋の中まで入れるようになった。
「手順」
【意志指令 手順 WP30/残100】
味方一人に、今やるべき手順が三つ見える指令だ。六号には錆びた弁の開け方を、ドレイクには背負ってきた部品の並べ方を、一つずつ渡した。六号は指令の中身を受け取ると、首を少しだけ傾けて、「整備長殿の手順が、当機の記録帯に直接書かれております。……機人には意志の層がないはずですが、手順は、見えるのですね」と言った。ドレイクは「見えるっス! 三つ見えるっス! 一つ目、箱を開ける!」と叫んで、本当に箱を開けた。
仕事そのものは、三日かかった。錆びついた九本の弁を一本ずつ開け、熱の逃げ道を作る。玉座の背もたれの管の脇に、ザルツから背負ってきた予備の部品で、仮の炉心を一つ組む。継接の予備の部品だ。原器炉ほどの力はないが、注ぐ量を半分にした結界を、ひと月は持たせられる。最後に、イゾルデの冠から伸びた三本の端子を、一本ずつ、玉座の管から仮の炉心の受け口へ移し替えていく。
三本目を移し替える前に、俺は小さなイゾルデの前に膝をついた。
「最後の一本を抜いたら、あんたはもう、結界炉の核じゃなくなる。冠は外れない。端子の根が額の骨まで食い込んでるから、無理に抜けば頭が割れる。冠はそのまま残る。それでいいか」
「……六百年、繋がってたらのよ。今ちゃら、冠のひとちゅくらい」
小さなイゾルデは、ぶかぶかのドレスの袖をまくり上げ、黒く焼けた小さな手で、自分の冠の縁を押さえた。
「抜きなちゃい。わたちの、整備士」
舌は回っていなかったが、冠の下からこちらを見上げる灰色の目は、六百年、ひとりで結界を持たせてきた魔王の目だった。俺は三本目の端子を、玉座の管から抜いた。
部屋じゅうの配管が、一度だけ低く鳴った。結界炉の熱が、玉座から仮の炉心のほうへ、ゆっくりと流れを変えていく。紫の光が、玉座の背もたれから消えた。六百年、魔王が座り続けた鉄の椅子は、ただの空の椅子になった。
仮の炉心の受け口に移した三本の端子は、どれも座面に素直に収まっていて、熱の流れが変わっても、継ぎ目のどこからも紫は漏れていなかった。俺は仮の炉心の外殻を、平手で叩いた。
「修理完全完了、もうどこも壊れていない」
空の玉座の上で、小さなイゾルデが、ぶかぶかの袖の中から俺を見上げた。
「……にゃに、ちょれ。かっこちゅけてるの?」
「口癖だ」
イゾルデは、空になった玉座の上で、しばらく自分の手を見下ろしていた。それから、ヘルガが差し出した小さな魔晶石を受け取り、ぽりぽりと音を立ててかじった。
しゅるん。
ぶかぶかだったドレスが、また体にちょうどよくなった。床まで流れる黒髪の女が、玉座から一歩下り、熱の抜けた格子の上に、裸足で立った。背丈は、俺より頭一つ高かった。
「……軽いわ。額が、軽い!」
イゾルデはそう言ってから、部屋の全員を、灰色の目で一人ずつ見下ろした。
「それと。さっきの喋り方は、忘れなさい。全員」
「くだちゃい、のところですか?」とドレイクが聞いた。
「お、おまえっ!! 忘れなさいと言っているでしょう! 殺すわよ!」




