第38話 魔王を核から外す(後編)
【オサム視点】
玉座の結界炉から魔王イゾルデを外した翌朝、転移から八十八日目に、俺たちは玉座の城の西の門を出た。床まで届く黒髪の女は、裸足のまま、俺のすぐ後ろを歩いていた。額の鉄の冠は外れないままで、ときどき指で触れては、軽い、と小さくつぶやいた。六百年ぶりに、玉座から離れて歩いているのだ。
城の西には、深い谷が一本走っていて、谷を渡る道は、古い鉄の吊り橋が一本あるだけだった。幅は騎兵一機がやっと通れるほどで、黒い鉄の綱が六本、谷の両側の岩に打ち込んだ太い杭から渡されている。原作の第七章では、この橋の上で、魔王の三人の旧臣が、古い型の騎兵に乗ってプレイヤーを待ち構えていた。玉座へ攻め上る前の中ボス戦で、三機とも橋の上から動かない配置だった。帰り道に同じ橋を渡るなら、同じ三機が追ってくる。魔王を連れ去る人間を、魔王の臣下が見逃すはずがない。
だから俺は、城に入る前の晩に、ドレイクとサクに頼んで、吊り橋の東側の留め具のピンを四本、抜けかけの位置まで緩めさせておいた。騎兵一機分の重さなら持つ。二機目が乗れば、抜ける。
「来ます」と、サクが谷の手前で掌を地面に当てて言った。「後ろから、大きな足音が三つ。騎兵です。……古い型です。関節の音が、ベヘモスより重いです」
振り返ると、城の門から、黒い鉄の騎兵が三機、駆けてくるところだった。どの機体も、頭に二本の角を象った飾りを付けている。魔族の古い騎兵、角騎だ。原作の説明欄には、『六百年前の型のまま、誰も膝の継ぎ目を直していない』と一行だけ書いてあった。先頭の一機の胸の操縦席は開け放たれていて、白い髭を胸まで垂らした老将が、身の丈ほどの曲刀を二振り、両手に下げたまま乗っていた。
「そこの人間! 陛下をどこへお連れするつもりだ! 六百年、陛下のお側を守ってきたのは我らだ!」
「フィーネ、先に渡れ。ベヘモスは重いから単機で渡れ。渡ったら、西の端で盾を構えろ。皆はベヘモスの後ろについて走れ。俺が殿だ」
「はい! ――RX-07H改、フィーネ・アストール、渡ります!!」
紺の重騎兵が、六本の綱をぎしりとも言わせずに渡りきり、西の端で大盾を橋の出口に立てた。サクと六号と白瀬とドレイク、それにイゾルデとヘルガが、ベヘモスの足元へ駆け込む。最後に俺が、継接で橋に乗った。操縦Dの腕では、幅の狭い橋の上で機体をまっすぐ歩かせるだけで手一杯だった。半分まで来たところで、三機の角騎が、続けざまに橋の東の端へ乗ってきた。
緩めておいた四本のピンが、角騎の重みで、順番に抜けた。
ガタン、と橋の床が東側だけ落ち込み、鉄の板が斜めの滑り台になった。後ろの二機の角騎は、傾いた板の上で膝をつき、そのまま一歩も前へ出られなくなった。だが、先頭の一機は止まらなかった。老将の機体は、傾きはじめた板を蹴って跳び、俺の機体の背中へ曲刀を振り下ろしてきた。
ツギハギの背中を斬らせるつもりはなかった。俺は機体を橋の上で無理に半回転させ、右腕の鋲打銃を、角騎の左膝の継ぎ目へ向けた。六百年前の型のまま、誰も直していない継ぎ目だ。鋲は継ぎ目の隙間に深く入り、角騎の左脚は、膝から下が一本の棒になった。
片脚の角騎は、橋の西の端で、ベヘモスの盾に正面からぶつかった。フィーネは盾を引かなかった。盾の縁を斜めに傾けて、ぶつかってきた機体の勢いを、谷のほうではなく、橋の上へ流す。角騎は鉄の床の上に横倒しになり、六本の綱が一度だけ大きく揺れた。
老将が、倒れた機体の操縦席から飛び出してきた。二振りの曲刀を構え、橋の上を、ツギハギの足元に立っている俺のほうへ、まっすぐ走ってくる。俺は機体から降りて、橋の板の上で、八十キロのレンチを構えていた。
右の曲刀を、レンチの柄で受けた。左の曲刀が来る前に、受けた右の刃を、柄ごと押し返す。老将の足が、橋の板の上で三歩、後ろへ下がった。老将は、自分の足を見下ろしてから、顔を上げた。その目の奥に、魔族が相手の力量を測る時の、薄い金色の光が灯っていた。
「……筋力、千。体力、八百五十。……陛下でさえ、筋力は四百だ。人間の、それも整備士が、なぜ、そんな数字を」
「十二年、重いものばかり持ち上げてた。それだけだ」
「重いものを持っただけで、こうなるものか!!」
老将が、もう一度曲刀を振り上げた時、ベヘモスの足元から、イゾルデが一歩前へ出た。
「下がりなさい、グラウスよ」
低く、乾いた声だった。核から外れても、六百年の威厳は声の中に残っていた。橋の上で老将が、傾いた板の上の二機の角騎が、揃って動きを止めた。
「この男は、私の整備士よ。私を核から外したのは、この男。……六百年、あなたたちは私の側を守ってくれた。でも、結界炉の弁が錆びていたことには、誰も気づかなかった。私も気づかなかった。気づいたのは、この男だけよ」
「陛下……! しかし、陛下が玉座を離れれば、結界はどうなります!!」
「ごらん。落ちていないでしょう。仮の炉心で、ひと月は持つそうよ。そのあいだに、あなたたちは、熱を逃がす弁の開け方を覚えなさい。ヘルガに手順を書いて渡してあるわ。この男が教えてくれた手順よ。……それから、あなたの騎兵の膝も、この男に直してもらいなさい。順番を守って、きちんと並んで」
老将グラウスは、長いこと、橋の上からイゾルデを見ていた。それから、二振りの曲刀を橋の板の上に置き、両膝をついた。傾いた橋の上の二機の角騎の操縦席も、内側から開いた。
帰りの谷の斜面で、六号が記録帯を回しながら、俺に小声で言った。
「整備長殿。橋のピンは、行きの夜に緩められたのですね。……三機が追ってくることを、ご存じだったのですか」
「原作で、あの三機は橋の上から動かなかった。橋の上で待つ奴は、橋の上で止まる。……膝のことも、説明欄に書いてあった。誰も読まない欄にだ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
灰の峠の継ぎ目までの帰り道の、最初の夜だった。
黒い岩の陰の野営地で、皆が眠ったあとも、魔王イゾルデは一人で起きていた。焚き火の向こうに座り、膝を抱えて、灰色の目で火を見ている。眠ると結界が落ちた六百年の習慣が、核から外れても抜けないのだ。
「寝ろ」と、俺は言った。「それも整備のうちだ。あんたの体は、六百年、一度も止まってない。止まらない機械は、どこかで必ず壊れる」
「……眠り方なんて、忘れてしまったわ」
「目を閉じて、何もしなきゃいいだけだ。結界は、今は仮の炉心が持たせてる。あんたが起きてても、寝てても、その現実は変わらない」
イゾルデは、しばらく黙って火を見ていた。それから、俺の隣まで来て座り、膝を抱えたまま、目を閉じた。焚き火がはぜる音が三度して、四度目のはぜる音の前に、彼女の頭が、俺の肩に落ちてきた。大人の背丈の、重い頭だった。額の冠の鉄が、作業着越しに冷たかった。
魔王の息が、静かに深くなっていた。彼女にとって、実に六百年ぶりの眠りだった。
夜中に目を覚ましたフィーネが、焚き火の向こうからそれを見ていた。何も言わずに立ち上がり、自分の毛布を持ってきて、イゾルデの肩に掛けた。掛ける時、俺の肩にまで毛布の端が掛かるように、少しだけ引っぱった。それから自分の場所へ戻り、背中を向けて寝転がった。
翌朝、イゾルデは俺の肩から頭を上げ、乱れた黒髪を指で払って、当たり前のように言った。
「私のものの肩よ。よく眠れたわ」
「俺の肩は、俺の肩だ」
「同じことでしょう?」
毛布を畳んでいたフィーネの手が、一度だけ止まった。
ザルツに帰り着いた晩、イゾルデは格納庫の壁に貼られた予約票の束を見るなり、一番から最後の番号まで、全部買い取ると言った。代金は、魔王領の宝物庫の中身で払うという。
「全部は売らん」
「……何ですって?」
「予約票は、一人一枚だ。あんたの番号は、一枚しか売らん。宝物庫ごと持ってきても、売らんぞ」
イゾルデは、格納庫の真ん中で、しばらく俺の顔を見ていた。それから、六百年で初めて何かを断られた人間の顔で、ゆっくりと笑った。
「お前……ますます、気に入ったわ」
格納庫の入口で、ミィルが尖った耳を立てて、背の高い黒髪の女を下から見上げていた。
「整備屋。この人、誰よ。……あたしより年上の匂いがするんだけど?」
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【ギルド視点】
第八十八日の朝、グランツ王城の正門の前で、二人の団員が王国の兵に斬られた。
夜のうちに城を抜け出し、南の街道へ逃げようとした騎乗職の二人だった。王国は第八十日から、騎士団の脱走者を「王国の財産を持ち逃げした者」として扱い始めていた。騎士団の装備も、騎乗服も、王国が徴収した財産の一部だというのが、院の決めたことだった。二人は、白金の門扉の前で捕まり、門扉の前で斬られた。かつて、彼らの団長の機体の胸だった扉だ。
シズクは、その朝の帳簿に、二人の名前と、「王国の兵による」と書いた。それから、二つの番号を足した。
――三十五 初心者の質問対応
――三十六 新人の訓練機の設定と立ち会い
三十五番を書いた時、彼女は、斬られた二人のうち一人が、ゲームを始めて三日目に、格納庫の隅で誰かに乗り方を教わっていたことを思い出した。教えていたのが誰だったのかは、帳簿のどこにも書いていなかった。
【グランツ騎士団 第88日 所有騎兵 0/12(王国徴収 10・ザルツ所有 2) 他ジャンル機 1 団員 132名(第84日比 -14)】




