第37話 玉座の結界炉(前編)
【オサム視点】
転移から八十一日目の朝、俺たちは魔王領の西の村、ハザルの手前の黒い岩の段々畑で、結晶の魔獣の群れに囲まれていた。灰の峠の継ぎ目を抜けてから一晩、東へ下る斜面を歩き続けて、最初に見えた村の、その入口だった。結界の内側は、真冬のはずの季節に、真夏の昼の暑さだ。陽炎の揺れるうだるような暑さの畑の上を、背中に紫の結晶を生やした大きな蜥蜴が、二十匹ほど、群れで這い回っていた。一匹が荷車ほどの大きさで、結晶の重みで背骨が歪み、まっすぐ這えずに斜めに進んでいる。
「整備長。前方二十、側面に八。……村のほうへ寄っていきます」とサクが言った。
「村には入れるな。フィーネ、畑の右の縁を盾で塞げ。俺は左だ」
「はい!」
紺のRX-07H改が、黒い岩の段々畑を一段ずつ踏み下り、右の縁で大盾を地面に突き立てた。蜥蜴の群れが盾にぶつかり、結晶が割れる音が畑じゅうに響く。フィーネは盾を動かさず、盾の縁から這い出ようとする蜥蜴だけを、盾の角で一匹ずつ押し戻していった。
俺は継接で左の縁へ回ろうとして、段々畑の段差を降りる時に、機体の右膝を岩についた。操縦Dの腕で、四十四トンの機体に段差を降りさせると、だいたいこうなる。膝をついた機体の周りに、蜥蜴が五匹、一度に這い寄ってきた。
「整備長。膝をついた姿勢は、蜥蜴の目線と同じ高さでございます。……向こうから見れば、仲間だと思われているかもしれません」
「本当にそう思われてたら、楽でいいんだがな」
俺は膝をついたまま、右腕の鋲打銃で、いちばん近い一匹の結晶の根元を撃った。鋲は結晶と背骨のあいだの継ぎ目に入り、蜥蜴は背中を反らせて動かなくなった。結晶を背骨に縫い止められると、この魔獣は這えない。二匹目、三匹目と、膝をついたまま撃っていく。立っている時より、膝をついている時のほうが狙いが安定するのは、操縦Dの腕の正直なところだった。
二十八匹を止めるのに、十五分かかった。フィーネの盾の右側からは、一匹も村へ入らなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
村の井戸は、止まっていた。井戸の上の揚水機は、魔晶石で回る古い型で、軸受けが熱で歪んでいる。結界炉の熱が地面を伝わって、村の井戸の鉄まで焼いているのだ。井戸の周りには、角を生やした魔族の村人が二十人ほど、空の桶を持って座り込んでいた。外で二十八匹の魔獣を止めた騎兵を見ても、誰も立ち上がらなかった。彼らには立ち上がる力が、もう残っていないようだ。俺は、村人たちにむけてこう告げた。
「直してやる。代金は、水を一桶分もらえるか」
揚水機の上蓋は、鋳物の一枚板で、熱で歪んで枠に食い込んでいた。村の男が三人がかりで、もう何日も外そうとしていたらしい。蓋の縁に、こじった跡が無数についている。俺は縁に指を掛けて、蓋を持ち上げた。食い込んだ鋳物が、メキ、と音を立てて枠から外れ、俺はそれを片手で地面に下ろした。
井戸の周りの村人たちが、その様子を見て一斉に後ずさった。
「……あ、あ、あの蓋は、牛が二頭で引いても外れなんだが――」と、角の折れた男が言った。声が震えていた。「あんた、人間か!? それとも人間の形をした、何かか」
「ただの整備士だ。十二年、こういうのばかり持ち上げてたけどな」
軸受けを外し、手持ちの当て板を二枚重ねて噛ませる。熱で伸びた分を、板の厚みで逃がす。整備としては、それだけの仕事だった。三十分後、揚水機は引っかかることなく回り出し、井戸の底から水が上がってきた。
村人の中から、一人の老婆が立ち上がった。灰色の髪を後ろで固く結い、額の二本の角は、根元から短く切り落とされている。黒い服の襟に、色の褪せた銀の留め具が一つ付いていた。
その留め具を、俺は知っていた。原作の第七章の、どこにも使い道のない装飾品の一つで、説明欄に一行だけ文があった。『侍従の留め具――陛下の結界炉の点検口は、この留め具で開く。持ち主は、とうに城を下がった』。十二年前、俺はその一行を読んで、点検口がどこにあるのかを、背景の絵の中で探した。
「あんた、玉座の城の侍従だった人だよな。その留め具で、結界炉の点検口が開くだろう?」
老婆の顔が、初めて動いた。
「……おぬしなぜ、それを知っておる。この留め具の使い道を知る者は、陛下と、わたしと、もう死んだ侍従たちしかおらんはずじゃが」
「昔、読んだ。誰も読まない説明欄でな」
老婆は、ヘルガと名乗った。三十年前に城を下がった、魔王の元侍従だという。角を切るのは、結界炉の熱で角が焼けて割れるのを防ぐための、侍従の習わしだった。
「陛下は、六百年、眠っておられん。結界炉の核に繋がれて、一度でも眠れば結界が落ちる。……持たせれば持たせるほど、熱くなる。人間の国々は、それを『魔王の侵攻』と呼んでおるそうだな。陛下は、誰も攻めてはおられん。ただ、持たせておられるだけだ」
ヘルガは、井戸の水を一桶汲み、俺の前に置いた。
「城まで、三日はかかる。わしが案内しよう、整備士。……その留め具の使い道を知っている者に、もう一度会えるとは思わなかったぞ。きっと陛下もお喜びになるじゃろう」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
玉座の城へ向かう二日目の昼、東の谷の向こうの斜面で、人の声がした。サクが膝をついて掌を地面に当て、平坦な声で数を言った。
「……また転移者です。九人。谷の向こうの斜面を、城の方角へ登っています。その後ろから、大きな足音が四つ。番犬と同じ種類だと思います」
谷の向こうまでは、直線で八百メートルあった。騎兵の脚でも、谷底へ下りて登り返すには、五分はかかる。サクの耳には、九人の足音が、斜面の途中で一つずつ止まっていくのが聞こえていたはずだ。サクは途中で数えるのをやめた。
「……整備長。間に合いません」
ツギハギを谷へ向けかけた手を、俺は止めた。谷の向こうの斜面で、紫の結晶を背中に生やした獣が四頭、斜面を駆け上がっていくのが、灰の煙の向こうに見えた。叫び声は、風に乗って二度だけ届き、それきり聞こえなくなった。
ベヘモスの操縦席で、フィーネが盾を構えたまま、谷の向こうを見ていた。外部拡声器から、彼女が一度だけ息を詰める音が聞こえた。白瀬は懐の紙を出しかけて、名前の分からない九人の欄をどう書けばいいのか分からないまま、紙をしまった。魔王を倒せば帰れる。その噂が、今この瞬間も、大陸じゅうの転移者を東へ歩かせている。そして、帰り道を探した人から順に、死んでいくのだ。




