第36話 勇者より先に(前編)
【オサム視点】
転移から七十九日目の昼、聖王国の巡察官ガーレンが、ザルツの格納庫の前に一人で立っていた。背の低い男で、剃り上げた頭に砂がつき、白い外套の金の縫い取りは、前に会った時よりさらに擦れている。召喚陣の補修を頼む書状を出したあと、返事を待たずに国境から五日歩いてきたのだと、彼は外套の砂を払いながら言った。
「書面だけで済ませるには、事が大きすぎると判断いたしました。陣を補修しているセラフィナ様の左目は、もう光の明暗しか分かりません。あと一月、毎日陣を繕い続ければ、右目も同じになると医術師は申しております。……代金は聖王国が払います。順番の札も、きちんと並んでお受けいたします」
「並ばなくていい。召喚陣は、壊れ方がひどい。順番は優先して前のほうにしてやる、だが今すぐは無理だ」
「……理由を伺っても?」
「先に行く場所がある。東だ。あんたの国の本隊が魔王領へ向かってるだろう。勇者の一行もな」
ガーレンの顔が、わずかに硬くなった。巡察官は大声を出さない男だが、黙る時の顔は正直だった。
「な、なぜそれを?? うっ、しかし――本隊の行程を、お教えすることはできません。それは軍の機密で、私は書面を書く側の人間です」
「行程はいらない。いつ魔王領の西の門に着くか、その日付だけ分かればいい。召喚陣の補修の代金から、その分を引いておいてやる」
ガーレンはしばらく剃った頭を撫でていたが、やがてあきらめたように懐から帳面を出し、一枚破って、日付を一つだけ書いた。
――第九十二日。灰の峠。
「勇者殿は、本隊より三日ほど先を行かれております。……魔王を討てば自分の世界へ帰れると、勇者殿は毎晩、野営の焚き火の前で仰っていました。本隊の兵のあいだにも、その説は広まっております。私には、それが本当かどうか分かりません。分からないことは、正式な書面には書けませんので」
VGOの募集要項には、ギルドごとに職の欄があった。どの大手のギルドの欄にも、決まって同じ一行が書かれていた。『修理職は募集しておりません』。十二年で、修理職を名指しで求める書面を、俺は一度も受け取ったことがない。俺はゲームの初期からやっていたので、たまたまNo1ギルドに入れていただけだ。......というかほとんどソロで整備していただけなので、まともな人員として数えられていなかっただけかもしれないが。
ガーレンの書状の宛名は、『整備士殿』だった。破った帳面の切れ端を、俺は作業着の胸の隠しにしまった。
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その夜、ザルツの格納庫の作業台に、VGO原作中第七章の話をするために、皆を集めた。
作業台の上には、俺が手で描いた魔王領の地図が一枚広げてあった。灰の峠、西の門、黒い鉄の塔の城、城の真ん中の丸い結界炉。どれも、VGOの第七章の画面で十二年見続けたものを、思い出しながら描いたものだ。フィーネとドレイクとサクと六号、白瀬、それに、つなぎの袖をまくった芹沢が、地図を囲んでいた。ドワーフのアバターの太い三つ編みが、作業台の縁に垂れている。
「原作の第七章では、魔王は人間の国々を襲う悪として出てくる。プレイヤーの騎兵部隊が西の門を攻め落として、城の真ん中の玉座で魔王を倒す。それで第七章は終わる。……だが、その筋書きは、表に出てる文字だけの話だ」
「表に出てない文字が、あるんですか?」とフィーネが聞いた。
「ある。フレーバーテキストって言ってな。道具や部品の説明欄の、物語には関係ない小さな文だ。誰も読まない。俺は、修理職で暇だったから、全部読んでた。……玉座の結界炉の部品の説明欄に、こう書いてあった。『六百年、ただ一人がこの結界炉を持たせている。弁の錆を落とす者は、もういない』——と」
芹沢が、前髪の下で目を瞬かせた。
「……先輩。わたし、第七章までやってないんですよね。VGOは半年しかやってなかったし、ずっと王都の格納庫で整備してたので。フレーバーテキストも、全部飛ばしてました。読む時間があったら、ボルトを一本締めたほうがいいと思ってたので」
「ま、普通はそれで正しい。俺も、締めるボルトがなかったから読んでただけだ」
「でも、それ、つまり……魔王って――?」
「悪者じゃない。魔王も整備士だ。整備のできる者が絶えた結界炉を、一人で持たせてきた。原作の魔王の侵攻ってのは、結界炉の暴走で狂った魔獣が外へ溢れたことを指してる。……だから、勇者より先に行くぞ。勇者は、魔王を倒しに来る。俺は、結界炉を直しに行く」
灰の峠のことも、原作で知っていた。攻略wikiの隅に、正面の門を通らずに魔王領へ入る裏口の話が、一行だけ載っていたのだ。灰の峠の三つ目の石柱の影で、魔王領を覆う結界が二枚、わずかにずれて重なっている。重なったところに、人一人がやっと通れる隙間がある。運営は最後までその隙間を塞がなかった。たぶん、誰も気づいていなかった。勇者の一行が西の門に着くのは、第九十二日。その十日以上前に、裏口から入る。
問題は、ザルツから魔王領の西の端まで、馬で二十日以上かかることだった。
「行き先の一覧の、上から四行目です」
地下ドックの石の台座の縁に、白瀬が膝をついていた。転移の夜に捻ったままの左手首に、新しい包帯を巻いている。テレポーターの行き先の一覧は、十二行のうち十一行が白い四角のまま並んでいて、白瀬はその四行目に指を当てていた。
「灰の峠ですか。転移して消された行き先の一つですね。慌てて消したみたいに、記録の端が残っています。内部表示で、端から書き戻せます。……それと、もう一つ。この台座、外側にもう一重、大きな環が埋まっています。鉄屑の下です。記録では、騎兵を運ぶための環でした」
「騎兵も送れるのか?」
「ゲートを起こしてさえしまえば。ただ、環を起こすのにコマンドが二つ、行き先を書き戻すのに一つ、合わせて三つ使います。今朝の残りは百三十一でした。……百二十八になります。明日の朝には、また勝手にいくつか減ってしまいます」
白瀬はそう言って、何でもないことのように、空中の見えない窓を指で叩いた。地下ドックの床の鉄屑が、低い音を立ててずれ、その下から、直径十五メートルの石の環が、刻印の溝を青く光らせながら浮かび上がった。
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灰の峠へ跳んだのは、俺とフィーネとサクと六号とドレイク、白瀬の六人と、継接と、RX-07H改の二機だった。芹沢は、ザルツの格納庫に残った。残りの機体を見る整備士が、一人は要る。
「先輩。……ちゃんと帰ってきてください。予備の当て板、ツギハギの膝の裏に三枚、貼っておきましたから」
足元の環の光が強くなり、視界が白く塗りつぶされた。次に見えたのは、灰色の山だった。峠は、空ごと灰色だった。尾根も谷も細かい灰に覆われていて、立ち枯れた松が骨のように並んでいる。東の空には、魔王領を覆う結界が、薄い紫の陽炎のように揺れていた。吐く息は白く、灰の匂いの奥に、焦げた鉄の匂いが混じっていた。
三つ目の石柱へ向かう途中、サクが立ち止まった。
「……整備長。結界の手前に、人がいます。その数およそ十二人。動いていません」
十二人とも、VGOの装備を着ていた。剣と槍と杖が、結界の壁の手前の灰の上に散らばっている。体は、結界に手を伸ばした格好のまま、黒く焼けていた。装備の金属の部分は溶けて、地面の灰と混ざって固まっている。一人の転移者の手が握っていた紙切れは、端が焦げていたが、字はまだ読めた。
――魔王を倒せば帰れる。結界を越えれば、魔王に会える。
「……転移者ですね。勇者殿が東へ向かったという噂を聞いて、先回りしようとした人たちだと思います」
白瀬が、名札を一つずつ確かめて、懐の紙に表示名を書き写していった。フィーネは灰の上に膝をつき、焼けた手のそばに落ちていた小さな鈴を一つ拾った。それを、どこにも置けずに、しばらく手のひらに載せていた。
「帰り道を探した人から、死んでいくんですね......」
フィーネの声は小さかった。俺は返事をせずに、結界の壁を見上げた。紫の陽炎の向こうで、大きなものが三つ、こちらへ向かって灰を蹴立てていた。




