第35話 合体しない(後編)
【オサム視点】
王都街道の最後の水場、石組みの涸れ井戸のそばで、砂潜りの群れから助け出した型落ちの機体の、上部のハッチが内側から開いた。ハッチは蝶番がよく油を差された音をさせながら、軽くなめらかに上がった。
顔を出したのは、ドワーフのアバターの娘だった。操縦席の縁からようやく頭が出るくらいの背丈で、背は低いのに肩幅だけが広く、くすんだ茶色の髪を太い三つ編みにして背中へ垂らしている。前髪だけが長く、目にかかっていた。切っていないのではなく、切らないようにしているのだと分かる長さだ。VGOのギルドの格納庫で、半年のあいだ俺の作業を後ろから見ていた見習いの顔で、それ以上のことは何も分からなかった。アバターの顔は、作った人間の顔を何も教えてくれない。
ただ、右手にレンチを握り、その下に左手を添えていた。
添える必要のない持ち方だった。ドワーフの太い腕なら、レンチは片手で足りる。添えるのは、右手だけでは力が足りない人間の持ち方で、俺はその持ち方を、工場の二交代の夜勤で何度も見ていた。王都の徴発隊がザルツへ来た日にも、この型落ちの機体のハッチの隙間から同じ持ち方が見えて、引っかかった。その時は、気のせいで済ませた。工具の持ち方の癖くらい、似ている人間はいくらでもいる。
「……先輩」
決め手は、声だった。VGOの頃、アバターの声は、アバターの見た目に合わせて機械が作り直していた。半年のあいだ俺が聞いていたのは、ドワーフの娘らしく作られた高い声だけだ。転移の夜からは、誰の声も地のままになっている。今、ハッチの縁から聞こえたのは作り直されていない声で、三年前まで毎晩、ラインの向こうから「先輩、次のボルトです」と言っていた声だった。
その声で、名前が戻ってきた。十二年かかったのでも、三年かかったのでもなく、たった一言でだった。
「あ……芹沢、なのか? お前」
「はい――」
芹沢栞は、ハッチの縁に腰を下ろした。前髪の下から目の端だけが見えたが、泣いてはいなかった。ただ、レンチを握った右手の指が、少しだけ白くなっていた。
「悪い。名前、出てこなかった」
「知ってます」
「なんで知ってる?」
「わたしも、三年、言えませんでしたから。……先輩に、ありがとうって」
俺は、継接の足元の草の上に座った。座ると、型落ちの機体の脚の装甲が、ちょうど背中に当たった。
工場で、彼女が右腕を挟まれた夜のことは、細かいところまで覚えている。ラインの安全装置の不具合を、俺は前の月から上に上げていた。上げた書類は戻ってきて、戻ってきた書類のことで、俺は処分された。そのあいだの何か月かで、俺の頭の中から、彼女の名前だけが抜け落ちていた。顔も声も、工具の持ち方も覚えているのに、名前だけが出てこなかった。
「先輩、知らないと思いますけど......私、上申書、三回出したんです。先輩が処分される前に、わたしの名前で。でも――三回とも、戻ってきました」
「三回か......」
「はい、三回です。王都の格納庫で、点検表に書いたのと同じ回数です。『隊長に三回報告しました。記録には残っていません』って。……同じ回数にしたら、先輩が気づいてくれるかなって。気づかなくてもいいと思って書いたんですけど、正直、半分くらいは、気づいてほしかったです」
谷に置いていかれたベヘモスの操縦席で、俺はその点検表を読んでいた。三回、という数字が引っかかった。引っかかって、それきりにした。
「……まさかな、と思った」
「先輩、まさかなって言う時、だいたい当たってますけどね」
芹沢は、ハッチの縁で、右手のレンチを左手に持ち替えた。それから、右手を、肩の高さまでまっすぐ上げてみせた。
「こっちだと、上がるんです。現実だと、肩の高さまでも上がらないのに。……誰にも言ってなかったです。それを言ってしまったら、帰りたくなくなりそうで」
彼女は、上げた右手をゆっくり下ろして、もう一度レンチを握った。左手は、また下に添えられていた。上がる腕でも、添える癖は抜けていない。
「先輩。VGOに毎晩ログインしてましたよね」
「してた」
「私、わかってました。あれ、直してたんじゃないですよね?」
答えられずに、俺は自分の手のひらを見ていた。レンチの柄の形に、皮が硬くなっている。
「直せなかったものを、数えてたんです。先輩は」
俺は手のひらを一度握って、また開いた。開いた指の付け根に、乾いた油が細い線になって残っていた。
「……お前、修理職の頁、読んだのか。攻略wikiの」
「読みました。『産廃』って、一行だけでした。更新の日付は三年前のままで、誰も書き足してなくて、誰も消してなかったです。……だからこそ、選んだんです。産廃の職を選んでる人は、大陸に一人しかいないって、掲示板に書いてあったので。その一人に会うには、同じ職を取るのがいちばん早いと思って」
「三年、誰も書き足さなかった頁だぞ」
「それなら、わたしが書き足そうと思ったんです、本当は。でも、何て書けばいいのか分からなくて。……今なら、自信をもって書けますけどね。『この職がいないと、三百人が食べられなくなる』って」
王都の格納庫で、三百三人分の機体を、彼女は一人で見ていた。産廃と書かれた職で、だ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
七十七日目の朝、ザルツの格納庫の作業台には、いつもより一人多く人が座っていた。明かり取りの窓の下の、俺の右隣の椅子で、これまで誰も座らなかった場所だった。
芹沢は、作業台の俺の右隣で、ツギハギの肩から外した装甲の板の裏を、やすりで磨いていた。俺が手を伸ばす前に、次に要る工具が、作業台の上の、俺の右手の届く場所に置いてある。ラチェットの次は当て板、当て板の次は細いやすり。工場にいた頃、俺がラインの脇で使っていた順番だった。
その様子を、作業台の向かいで、フィーネと白瀬が並んで見ていた。
「……白瀬さん。あれ、オサムさんが何も言ってないのに、工具が出てきてますよね」
「出てきてます。三回とも、オサムさんの手が動く前でした。……検証の結果、偶然ではありません」
「先輩、って呼んでましたよね」
「呼んでました。わたしの記録では、オサムさんを名前以外で呼ぶ人は、ノイズさんの『整備長』と、ミナさんの『師匠』と、ミィルさんの『整備屋』だけでした。『先輩』は、新しい項目です」
二人の声は小さかったが、格納庫は天井が高く、よく響いた。芹沢は、やすりの手を止めずに、前髪の下から二人のほうを見た。
「あの、先輩は、そういうの無いです」
「え」
「機械にしか、無いです。工場にいた頃から、ずっとです。工場の休憩室で、わたしがお弁当のおかずを分けても、先輩はお弁当の箱の蝶番が緩んでるのを直してました。……ですから、ご心配なく」
フィーネと白瀬は、顔を見合わせた。それから、二人揃って、作業台の上の俺の手元を見た。俺は、ツギハギの肩の装甲板の、裏のボルト穴の数を数えていた。
「……知ってます」と、フィーネが言った。
「……知ってました」と、白瀬が言った。
格納庫の入口の柱にもたれていたカゲロウが、刀の鞘を肩から下ろして、首をかしげた。
「なあ、整備士。今の、あんたの話だったんだぞ?」
「ボルト穴が一つ多い。どこかで、規格の違う板が混ざってる」
「……聞いてねえな、これ、だめだこりゃ」
その日の昼、聖王国の巡察官ガーレンから、書状が届いた。白い外套の金の縫い取りが擦れた、背の低いあの男の、几帳面な字だった。
――聖王国の召喚陣が、勇者殿の召喚以来、少しずつ欠けております。陣を補修している術師の、左の目が、もう半分見えておりません。陣の補修を、整備士殿にお願いできないでしょうか。代金は、聖王国が払います。
――なお、勇者殿の出立から二十日が経ちました。聖王国の本隊は、本日、魔王領へ向けて東へ発ちました。
魔王領へ。原作では、物語のいちばん最後の章に置かれていた道筋だった。その道筋が、俺の知っている年表よりずっと早く、もう動き出している。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
【ギルド視点】
第七十六日の朝、グランツ王城の正門が、新しい扉に替わった。
白金の、厚い板だった。表面にはまだ、ところどころに装甲の継ぎ目のボルト穴が残っていて、陽の光を受けると、昔の機体の胸の紋章の跡が浮かび上がって見えた。RX-09の胸と背中の装甲を剥がして、二枚の門扉に打ち直したものだ。剥がされた装甲の内側にあった魔導炉は、王城の二番井戸の揚水機に据え付けられ、その朝、城の井戸は、四十五日ぶりに水を汲み上げた。残った骨格は、動かない骨として、城外の廃棄場へ運ばれた。
同じ日、王国は、RX-08Cを観測塔の砲の照準器として据え付け、徴収したPL-21Gの八機のうち、四機を鋳造炉で溶かして鉄の塊にし、三機を帝国へ売った。残る一機は、動かないまま、王城の正門の脇に置かれた。門番の代わりの、置物だった。
レオンハルトは、その朝、王城の正門をくぐった。正門は、彼の機体の胸だった。彼は扉の白金を一度だけ見上げて、それから下を向いて通り過ぎた。
その夜、騎士団が寝起きしている格納庫の、RX-09がかつて置かれていた場所に、騎乗服が一着、たたんで置かれていた。合神機の白い一号機に乗っていた、元の副団長格の騎乗職のものだった。たたまれた騎乗服の上に、紙が一枚載っていた。紙には、一行だけ書かれていた。
――機体のない騎乗職は、何職なんですか。
翌朝、シズクはその紙を帳簿に挟んで、レオンハルトの部屋へ届けた。レオンハルトは、紙を受け取り、長いこと一行を見ていた。乗り手の問題だ、と、彼は十二年言い続けてきた。拠点に戻れば済む、とも。その言葉の裏側が、部下の字で返ってきていた。
彼は、何も言わなかった。「記録しておけ」とも、言わなかった。
シズクは記録室へ戻り、死因の欄の前で、ペン先を止めた。止めたまま、いつまでも書けなかった。死因の欄は空けたまま、彼女は名前の欄にだけ、その騎乗職の名前を書いた。それから、三つの番号を足した。
――二十一 炊事場の竈の煙道掃除
――二十二 厩の馬具の修繕
――二十三 雨樋と排水溝の泥上げ
その日の昼、レオンハルトは自分からシズクの記録室に来て、一つだけ聞いた。
「勇者の一行は、今、どこにいる?」
【グランツ騎士団 第76日 所有騎兵 0/12(王国徴収 10・ザルツ所有 2) 他ジャンル機 1 団員 174名(第72日比 -13)】
【旧RX-09 門扉・揚水機・廃棄場】
【旧RX-08C 観測塔】
【旧PL-21G 鉄塊4・帝国3・置物1】




